68.扉



 シンと静まりかえった部屋で、自分がキーボードを叩く音だけが聞こえる。同僚達は次々と帰って行き、金曜の夜だというのに一人きりで残業をする羽目になってしまった。
そもそも今日は定時には上がれるはずだったのだ。季節柄それほど忙しくはないし、仕事がそこそこ速いと言われる私は、あまり残業をすることはない。それはそれで昔気質の上司などは苦々しく思っているかもしれないけれど。
あまり親しくもない後輩に頼まれたのはもう定時まで1時間を切る頃だった。

「すみません、どうしても家へかえらないといけなくなって」

そうしおらしくお願いをする彼女は、部署内ナンバーワンの人気を誇るらしい女性だ。詳しい事は言わないけれど、家の用事のためどうしても帰らなくてはいけない、ということだけは耳に到達した。別に私の方はとりたてて用事もないし、そうたいした仕事ではないだろう、と思った私は安易に引き受けたのだ、彼女の仕事を。なにより周囲からのわけのわからないプレッシャーを感じてしまったせいかもしれない。おまえが引き受けないと呪ってやる、とでも言わんばかりの視線がいくつも注がれる。なんとなく、彼女の用事は彼らの用事のような気がしないでもないが、余計な波風を立てたくないばっかりにいい顔をしてしまった。
要するに自業自得だ。
営業課から頼まれた面倒くさい計算書は、後少し、どころか最初の少ししか埋められていなかった。しかも、それすらも怪しい。
そう言えば、少し時間がたった営業の連中が彼女に急ぎの仕事を頼んだところなど見たことがなかったな、とため息をつく。
画面を見ながら、手元を見ながらただひたすらに単純作業と確認をおこなっていく。
取りあえず書類が形となり、一段落付きそうな頃に何か飲み物でも飲もうかという気になった。視線を画面から外し、両腕を挙げて伸びをする。ずっと同じ姿勢をとっていたため、体が強ばっていることに気が付く。やれやれと思いつつ椅子から立ち上がると、クスリと笑う声が後方から聞こえてきた。
突然の物音に多少の恐怖心を覚えつつも、急いで振り返る。きっちりと閉められていたはずの扉が、人一人分程度開いていた。黒い塊がぬぼっと立ちはだかり、扉の向こうに見えるはずの蛍光灯の光が遮られている。

「ごめん、驚かせた?」

その物体が何かを瞬時にして理解することができなかった私は、近くばかり見ていた目で必死にピントを合わせようと凝視する。じっと見つめたその黒い塊は、ドアノブをもったまま間抜顔を晒しているただの同僚だった。そう認識できた途端、ホウと、小さな声でため息をつき、次には訝しそうに睨みつけてしまった。

「忘れ物?」
「いや」
「仕事・・・じゃないわよね、お酒飲んでる?」

お酒自体には強いのに、少し口に含めばぱっと顔色が赤くなる同僚は、多少の飲酒でも誤魔化すことができない。そのことを彼も知っているのか、否定はしない。

「こないな、と思って」
「は?何に?」
「コンパ」
「コンパ?」

素面とほろ酔い人間のテンションの差か、機嫌の悪い私と機嫌のよい彼の声が交互に響き渡る。
まったく意思疎通が出来ていないのが悲しいぐらい会話がかみ合っていない。

「今日、コンパするって。企画そっちだと思ったけど」
「さぁ?知らないわよ、そんなの。どっちみちそういうのに私は縁が無いし」
「うん。似合わないとは思ってたんだけど」

どうせ、という皮肉めいた言葉はなんとか中に留めることができた。確かに私がそれらに不似合いだというのは本当のところだし。

「今日来ると思ってたから」
「コンパに?私が?」
「うん、そう」
「・・・・・・ごめんね、なんだかよくわからないけれど、まだ仕事中なんだ、私」

先の見えない会話に痺れを切らし、早々に切り上げようとする。この仕事は月曜午前が締め切りだから、今日仕上げなければ、明日に繰越になってしまう。いくら用事がないとはいえ、それだけは避けたい。

「そんなところに突っ立ってないで入るか出るかしたら?」

彼はずっとドアノブを握ったまま、扉は彼の体が入るだけのスペースが開いているだけだ。私としては帰るように促したつもりが、すいっと彼は私の側まで寄って来た。
扉がパタンと閉まる。
外界と遮断されて、広いながらも誰もいないオフィスで、彼と二人きりなのだと急に意識しだす。
ただの同僚、ただの同僚と呟きながら財布を手に握る。取りあえず外にある自販機まで行くことで妙な空気を入れ替えることにしよう。そんな私の思惑なども知らずに、彼は私の目の前に白いビニール袋を差し出す。

「これ、飲み物。何が好きかわからなかったから適当だけど」

ごそごそと彼がビニールから幾つかの缶やペットボトルを取り出す。
確かに、炭酸からお茶まで幅広く買いあさったというラインナップだ。

「えっと・・・ありがとうって貰っていいのかな?」
「うん、あなたに買ってきたから」
「そ、そう・・・。えっと、ありがとう」

先程よりも妙な空気が色濃くなってきた気がする。気が付かないふりをしてとりあえずペットボトルのお茶を手にする。

「それ、すき?」
「え?ええ、そうね。あまり炭酸は飲めないし、コーヒーも嫌いだし。紅茶か緑茶かな?」

なんとなくすきという言葉に過剰反応しそうな自分を嗜めながら口をつける。
もうぬるくなってしまったそれは、それでも根を詰めて仕事をしていた私の中へ爽やかな風味を運んでくれた。
しかしながら、じっと見つめられながら飲むという作業は想像以上に辛い。
彼は視線を外そうともせずにこにこしながらこちらを眺めている。酔っ払いの行動はよくわからないと心の中で呟きつつ、とっとと作業に戻る事にする。
にこにこ顔の彼は、私の隣の席に陣取り相変わらずこちらをじっと窺っている。
ディスプレイに意識をもっていきながらも、目の端には笑顔の彼が入り込む。
ちょっとどころじゃないぐらい仕事がやりにくい。

「あのさ・・・、用事ないなら帰れば?」
「ある、用事」
「だったら済ませて帰れば?もう遅いし」

彼の声が変に近いところで聞こえるなぁ、なんてのんきに構えていたら、彼は真後ろに立っていた。かがみこんで私がこなしている書類に目を通している。
彼の方は気にしているのかいないのか、肩の上に他人の顔があるという状態は落ち着けない。

「これ、別の子に頼んだ仕事だけど」
「ああ、なんか家の用事があるって言って頼まれたから」
「ふーーん、そう。彼女コンパにきてたけど」

やっぱりというか、周囲の視線は納得ずくの視線だったのだ。彼女がコンパにいけるようにお前が働けと言う。
もともとおなかもすいてささくれていた心がよけいにすさんでいく。

「それよりも、これって急ぎの仕事じゃないのに、どうしてこんなに遅くまでやってんの?」
「うそ!!」

うっかり驚いて振り返ると彼との距離が数センチしかなくて、余計に驚いてしまった。
そろそろと後ろへと体重を移動させ、適切な距離を取る。それでも近すぎて困ってしまいそうだが。

「彼女が月曜朝イチでって言うから」
「嘘嘘、俺そんな風に頼んでないって、っていうか、そこまで人使い荒くないし」
「そう言われれば、彼女に急ぎの仕事を回すっていうのも、あなたらしくないっちゃないわね」
「そういうこと」
「で、これの期限は?」
「水曜日、無理なら木曜日でもかまわないし」
「そ、だったら今日仕上げなくてもいいわけね」
「うん、直接こっちにくれればいいから」
「わかった、ということで、私は帰るね」

切りのいいところまで仕事を済ませ、保存したのち電源を落とす。デスクの上を片付け、必要なところには鍵を掛ける。
ぱたぱたと帰り支度をしている最中にも彼は一向に帰る気配を見せない。

「あのさ、私帰るんだけど」
「うん」
「残るんだったら施錠お願いするけど・・・」
「一緒に帰ろう」
「は?」
「そうと決まれば、さっさと帰ろう」

バッグを左肩に掛け、心は出口の方へ向っていた私に追い討ちをかける。来た時のようにビニール袋を右手に抱え、なぜだか左手は私の背中へと回されている。
戸惑いっぱなしで彼の行動についていけない私は、なされるがままの状態だ。

「おいしいところ知ってるんだ」
「えっと、ごはんに行くとも言ってないんだけど」
「お腹すいてないの?」
「や、そりゃ空いてるけど」
「だったら、行こう!」
「そういう問題じゃ」
「僕のこと嫌い?」
「嫌いってわけじゃ」
「緑茶より?」
「はぁ???」
「緑茶より好き?」
「比べる対象とは思えないけど」
「好き?」
「え?ええ、まあ」

緑茶より好きの好きがどの程度の意味をもつのかわからないけれど、なんとなく頷かなくてはいけない雰囲気だ。それに酔っ払いに理論を求めてはいけない。そう、この支離滅裂っぷりは十二分によっぱらいだ、と心の中で結論付ける。
私の返事を聞いた彼は、ニコニコしていた顔をより一向緩ませ、目尻が下がりっぱなしになっている。

「これで、僕たち恋人同士だね」
「は?????」

さりげなく良くわからない言葉を吐いた彼にいきなり手を握られ、ぐいぐいと引っ張られていく。
おなかも空いているし、よくわからない現象をやっぱり上手く処理できなくて、自分のなかでなかったことにした。どうせ相手は酔っ払いだし、と。

月曜日、私は例のカワイイ彼女に思い切り睨まれることとなるのだが、その理由は噂に疎い私のところにやっと尾ひれがくっつきまくって原型を留めていない金曜日の出来事が伝わった後だった。


5.22.2006


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微妙な話。

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