82.濁り

「おい、いいかげん起きろ」

浜辺に打ち上げられた魚のように、だらしなくただ毛布が敷いてある床の上に寝転がる彼女。
月曜の朝だというのに、昨日の酒が抜けないのか数度身をよじったものの一向に起きる気配はない。
俺の方としてもすっきり爽やかな朝とは言い難く、やはり昨日の酒がたたったのか、僅かに頭の奥が疼いている。

「おまえ学校だろ?」

そういう自分も学校はあるのだが、一限目の授業は出ても出なくても一緒だから余裕がある。
たしかコイツが取っていた授業は代返も効かない授業なはず、と片足で軽く蹴飛ばす。
まるで力の入っていない彼女は簡単に反転し、でも意地汚く毛布を巻き込んでは寝なおしの体制に入る。
こうなったらもう、こいつを起こすのは至難の業だと諦め、さっさとベッドを後にする。



適当に冷蔵庫の中身を覗くものの、昨晩食べ尽くしたのか、むなしく調味料が置かれるのみ。あげく、飲み物すらない。
振り返って台所をみると、食べた後の皿が所狭しと並べられ、挙句にオレンジジュースのパックだとかウーロン茶のペットボトルだのが散乱している。
毎週毎週こんなことを繰り返しているのだからいいかげん懲りればいいのに、と、仕方がないからインスタントコーヒーを手にとりマグカップに投入する。
しかしタイミングが悪い時には悪い事が重なるもので、電気ポットのお湯も虚しく残量ゼロを示している。
少し乱暴に粉が入ったままのカップをテーブルへおき、簡単に身支度を整えて外へ出る。
床で眠ったままの女を置き去りにして、コンビニに行きがてら大学へと行ってしまおうかと考える。
ドアを開け、外の空気を吸った瞬間、清浄な何かが胃の中に満たされるのを感じた。
閉めっぱなしにしたワンルームの部屋は、そんなに風通しが悪かったのかと驚く。
大の大人が二人して大酒をくらって寝転がるのだから仕方がないとはいえる。
だけど、俺自身、物理的な何かじゃない、もっと精神的な何かを感じ取っていたのだと本当は気がついていた。



 サンドイッチとおにぎり、緑茶のペットボトルを抱え、一限目には余裕で間に合う時間に教室へとたどり着く。
ようやく落ち着ける、とばかりに、まるで指定席のようないつもの場所へと腰掛ける。
おにぎりのフィルムを慎重に剥がし一口齧る。
彼女と食べる朝食より、今こうして一人で食べているコンビニご飯の方がおいしいと感じてしまっているのはどうしてだろう。
まだ中身が見えていない白米部分のおにぎりを凝視する。
もちろんそんなところに答えが書いてあるはずもなく、もう一口齧る。塩味の効いた紅鮭の香りが口の中へと広がっていく。
おなかはどんどん満たされていくのに、一度気がついた疑問は落ち着いてくれない。
サンドイッチの最後の一欠けらを食べ終え、緑茶を口に含む。
わからない、いつごろからこんな気持ちを抱いてしまったのか。



 俺と彼女は1年生の頃からの付き合いだから、かれこれ3年目となる。当然大学生活も3年目で、お互いそれぞれが交友関係も行動範囲も十分広がって落ち着いたころだ。
だから、最初の頃より一緒にいる時間は少なくなってきたことは確かだ。
1年目のように、昼飯はいつも一緒、夜もどちらかの下宿で過ごす、なんてことはいつ頃からかなくなっていった。
今では、なんとか土曜日か日曜日のどちらかに、俺の家へとなだれ込んだ彼女と酒盛りをするのが唯一深く付き合う時間といっても過言ではない。
平均的な恋人同士がどういうものなのかはわからないけれど、なんとなく周りに聞いて回れば自分達の奇異な部分が浮き彫りになりそうで、そのところは口を噤んだままだ。
肉体的な関係が途切れないから恋人同士なのだと、半ばやけくそ気味に自分を納得させている部分もある。
そうしてこんなところでこんな場所で一人で落ち着いている自分がいるのだ。
自分が何をやっているのかわからなくなる。
好きだから一緒にいて、好きだから恋人同士になったはずなのに、今ではこんなことを感じてしまう。
それはきっと彼女の方も感じているのだろう。
明らかに減ってきたデートの時間にも文句一つ言わず、まるでただの友達同士のような酒盛りで満足している。
お互いを恋人であると認識した瞬間の、あの濁った雰囲気が恐いのだ。
愛情なのか友情なのか、ただの情なのか、恋人の役を演じようと無理に無理を重ねた二人の空回りした空気がたまらなく重い。
そのせいか、彼女も友達かのように振舞うし、俺も親友のように接する。
しかも、昨夜のように酔った勢いでそういう関係になった後の気まずさがたまらない。
激情が冷めた後には、濁りきった空気しか残らない。
だから彼女は毛布を敷いて床で寝ることを選び、俺は出来るだけ彼女を視界に入れないようにベッドの隅で眠るのだ。お互いが近くにいれば息が出来なくなるほどのねっとりとした空気を振り払うよう、できるだけお互いの存在を忘れるようにしながら。
そんな事を感じる関係が恋人同士だなんて言える訳がない。
それぐらいのことはわかってはいる。
だけど、一人になるのは寂しいのかどちらも決定的な言葉を言い出すことはない。
このまま親友に戻れたら、それが一番いいのかもしれない。
もうあの濁りを経験したくはないから。
突然、後ろの扉が開かれ、一番早く登校する学生が俺をみて驚いた顔をする。
俺はそれに苦笑いを返し、ゴミを捨てるべく立ち上がる。
ケイタイを取り出し、彼女に電話する。
もうあの空気を味わわないようにするために。

83.漂着(keep a scecret)

「ただいま」

あまり習慣づいていない言葉を口にする。
今までは家に、私以外の人間が存在する確率が極めて低かったから、言う必要がなかったのだ。
だけど、何気ないこの言葉を口にするたび、徐々にここが私の居場所なのだという実感が染み込んでくる気がする。
部屋の奥の方で聞きなれた低音が響く。おかえりと返されるのがこれほど嬉しいことだとは知らなかった。

「遅かったね」
「うん、ちょっと…」

別に内容を濁すわけではなく、詳しい内容は食事の時に思う存分話し合うのだから、今は言う必要がないと、お互いがわかっている。
そんなところもとても居心地がよい。

「明日は休みだろ?」
「うん、そっちも、だよね」
「いいかげん休みにしてくれないとなぁ、こっちは新婚だっていうのに」

私が高校生の頃から付き合っていたから、今更新婚だと言われてもピンとこないけれど、それでも一緒に暮らすようになってからは日が短いため、こうやって夜を二人で過ごすというのは、まだまだ珍しいのかもしれない。割と暇な職場に勤めている私と違って、彼の方はかなり忙しい。研究所の最先端の研究、というわけではないらしいのだけれど、それをサポートする部署に所属する彼は、やっぱり忙しい。だからこうやって二人で一緒に食事を取るのも実は久しぶりのことだ。

「飲んでいい?」
「んーー、ちょっとなら」

平日はビールすら口にしない彼だけれど、実はお酒は大好きだ。だからのんびりできる前の日などは、二人でワインをあけることなども多い。
それもここのところの激務で遠のいていたことだけれど。

「そう言ってくれると思って、もう飲みモード準備してあります」

そうやって彼が示すテーブルの上には、いつもの一汁三菜を基本とした夕食ではなく、単品の料理が所狭しと並べられている。
苦笑しながらも、久しぶりにたくさん会話できるのが嬉しくて、いそいそと部屋着へと着替える。

「いつのまにか料理ができるようになったよね」
「それはもう奥さんのおかげです」

出会った頃はまったく料理なんて出来なかったはずなのに、気がつけば彼は包丁を手にもっても苦にならなくなったらしい。

「一人暮らしが長かったからなぁ」
「そんなにしみじみ言わなくても」

年齢差だとか立場の違いから私達の交際年数はとても長い。その間同棲などという手段に出るわけも行かず、私はずっと実家ぐらしで、彼の方は相変わらず一人で暮らし続けていた。もっとも、長期の休みや土日などは彼の部屋へと居候をしていたから、二人で過ごすということが全くなかったわけじゃない。
私の方はむしろ彼の家の方が居心地がよく過ごしよかったぐらいだ。
一人で暮らす一人ではない家には私の居場所はなかったから。

「まあでも、こうやって一緒に暮らせてるから」

そうやって彼は手際よくコルクを抜き、二人のグラスへとワインを注ぐ。
ワインを一口だけ口に含む。
アルコールは得意じゃないけれど、こうやって二人で飲み交わすのは大好きだ。苦手だったワインもこうやって家でのんびり飲むのにはちょうどいいとすら思えてくる。
彼の方は目の前の料理をものすごい勢いで平らげている。
きっとあっという間になくなって、追加で何かを作らなくてはいけないだろう。
でも、そんな風にこの人に何かを作ってあげられるのが大好きだから、ほろ酔い加減でフライパンを持つ手は少しだけあやしいけれど。 ワインをもう一口飲み込む。
大袈裟だけど、やっと辿り着いた。
そんな気がする。
ここが私の居場所なのだから。

84.分岐点

 今思えばあれが俺の運命の分かれ道、というやつだったのだろう。
男臭くて男だらけの職場でため息をつく。
高校三年生の夏、俺があんな学部学科を選択しなければ、今俺はこの場所にはいなかったのかと思うと、こんなため息ぐらいでは足りやしない。



「どこに行きたいんだ?」
「近場で入れるところ」

進路指導をするため担任に呼び出された俺は、夢も希望もない進路を述べる。いや、これでは進路ですらない。

「入れるところって、まあ、お前の偏差値ならある程度のところなら入れるけどなぁ」

案の定あからさまに困った顔をして、近隣の大学リストをヒラヒラさせる。

「できれば国立で」

家は特別貧乏でもなければ特別お金持ちでもない、だけど下に弟やら妹やらを控えた身分ではやはり贅沢は言ってられないだろう。親が何かを言ってきたわけではないけれど、出費は抑えるに越した事はない。まして家から通えるとなれば下宿代すら浮くはずだ。

「だと一つしかないわけだけど、そこはおまえ、ちょっとレベルが高いぞ」

ある程度のところなら、と限定がつく俺にとっては、そこの大学はやっぱりちょっとレベルが高い。後半年あるとはいえ、俺も含めて部活を終えた連中が本気で受験勉強に取り組んでからは、そうそう成績が上向くはずもない。

「じゃあ、そこで一番偏差値が低いところはどこですか?」
「ん?ああ、まあ応用化学あたりは 低いと言えば低いけれど。それでも去年低かった場合は今年になったら高くなることが多いぞ、こういうのって」

考える事は同じなのか、穴場だと思えば次の年には受験者数が増えるのが常らしい。

「いや、そこでいいです。別に化学は嫌いじゃないですから」
「まあ、センターまでは後少しあるから、しっかりやれ、それ次第だな」
「わかりました、ありがとうございました」

そんな会話で5分も掛からず将来の大事な大事な進路を決めてしまった自分に悔やまれる。
いや、そんなことよりも大体化学系というのはそもそも女が多いはずなのに、よりにもよってどうして俺の学年だけ女の子が全くいなかったんだ?
情けない進路指導から半年、俺は念願の近場で通える国立大学へと進学した。
男だらけのクラスから抜け出し、前情報で女の子が多いらしいという応用化学科へ入学する事を心待ちにしていた俺にとっては、入学式の後のオリエンテーションの情景は幸先を蹴散らすには十分なものだった。
右を向いても黒、左を向いても紺、前後を振り返ってみても黒か紺か灰色のスーツに囲まれた俺はそれだけでうんざりしてしまった。
チラッと見える春色のスーツを視線で追いかけてみても、悔しいかな彼女は他の学科の方へと吸い込まれてしまう。しかし、よりにもよって機械工学だなんて、女の子が目指すにはあんまりじゃないか?などという見当違いの恨み言を炸裂させながら。
それから4年間はまるで花のない世界だった。
学科の女の子だけが花じゃない、外に求めればいいじゃないかと合コンを企画するも、どうしてだか俺らの学科は外部にも内部にもかなり受けが悪く、それが成立することはほとんどなかった。
後になって知ったけれども、2学年上の先輩が看護学校の寮に酔いながら侵入して大騒ぎになったり、せっかくの出会いの合コンで泥酔したうえにモロダシで女の子全員をドン引きさせたりの悪行の数々を繰り返してくれちゃったらしい。
その余波が下の学年に連綿と響いているのか、上の学年も俺達も、いや学科全体が忌避されているのは間違いない。
それでは、と、就職すれば道が開けると明るい希望をもっていた若い俺。
そんな希望はどこかの谷底や海の底へでも沈めて捨て去った方がいい、そうじゃなければ俺は今、こうやって煙草を吸いながらため息なんぞついていないはずだから。



 今に立ち戻り、周囲を見渡してみる。
前後左右どこからどうみても男しかいない、ココの世界には老若男女ではなく老若男しかいないのだ、悲しいことに。

「何ため息ついてるんですか?」
「黙れ、変態一号」

キャスター付きの椅子を景気よく転がしながら一つ下の後輩が近寄ってくる。これがかわいらしい、いや普通の女の子だったらどれほど嬉しい事か。

「やだなぁ、変態だなんて。博愛主義者と呼んでくださいよ」

博愛主義者が聞いて呆れる、こいつはそれこそ老若男女誰でもウェルカムの節操なし人間のくせに。

「またまたそうやって眉間に皺をよせて、渋いって言われるには10年足りませんから」

どちらかというとロマンスグレーのおじさまが好きだと公言して憚らない後輩の男が座っている椅子を蹴り飛ばす。椅子は面白いように滑っていき、元の彼の机とは正反対の壁へと突き進んでいった。
カエルが潰れるような声が聞こえたような気がしなくもないが、とりあえず仕事へと戻る。
俺が所属している部署は技術営業と呼ばれる売込みの営業はしないけれども、売った後の装置の取り付けやらメンテナンスやらを引き受けている部署だ。ノルマがあるわけじゃないその部署は最初のうちこそ俺に向いた職場だと思っていた、いや、今でも職種を考える限りは限りなく天職に近いとも思っている。
ただし、ここが変態の巣窟と呼ばれている魔境じゃなければ、だ。
セクシャルマイノリティーを差別するわけじゃない。
俺には害がない限りそいつらが何をしたってかまわない。
だけど、マイノリティーというからには少数派なわけで、だったらなぜそれだけそういう連中がここに集まっているのかという疑問を呈したいのだ、俺は。
そもそも先ほどの後輩は所謂バイセクシャル、らしい。俺にはそれがどういうものなのかはわからないけれど、日本語で言えば両刀使いと言ったら、まあ見当がつかないこともない。同期の人間はホモとトランスジェンダーで後者の人間は私服なのをいいことにどちらとも取れる格好をしてやがる。
残りの先輩だか後輩もホモかバイか、コイツは大丈夫だと思ったやつが特殊な性嗜好の持ち主だとカミングアウトされた日には、少年の日の進路指導を呪いたくもなる。おまけに頼りになるはずの部長は女装趣味だという念の入れよう。
しかもこいつらのすごいところは、その性質を隠すことなく思い切り外へとダダ漏れさせている、と言う点だ。
確かに別にそういったことは罪じゃない、悪い事ではないけれど、俺まで同類扱いされるのはどういうことだ?
だから結局俺はずっと独り身で、これからも限りなく職場恋愛なんていう甘い物には無縁に違いない。
やっぱりあの日の俺の浅はかな結論が悔やまれる。

あそこで近所の華やかな私大あたりに行っていれば、弟のように大学生らしい学生生活が送れたかもしれないのに。
2本目の煙草をとりながら、やっぱりため息をつく。

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1.5.2007(再録)
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