夜眠るのは嫌い。だって嫌な夢をみるから。
だから、夜は起きているの。
その代わり学校でちゃんと眠るから。
「早川、これで何度目だ?」
「さぁ?」
繰り返された日常にしっかりと馴染んでしまった私は小首を傾げる。
スパンと小気味よい音がして、頭にちょっとした痛みが走る。
「今月でもう3回目だ!通算20回目!!!」
丸めた新聞紙を握りつぶしながら正確であろう数を唱える。
だけど、そんなことには全く興味がない私の態度にすぐに上がったテンションがクールダウンしていく。
「毎回毎回、授業中に熟睡しやがって、他の教科の先生からもクレームがきているんだぞ」
「はぁ・・・。でも迷惑はかけていませんし」
「だからといってな、一番前の席でくーくー寝ていられたら、目障りなんだよ」
「だったら、一番後ろに配置すればいいんですよ、我ながら名案」
もう一度小気味の良い音がする。
「お前は、きちんと起きて授業を受けようとする気はないのか」
「意欲はあるんですが、いかんせん眠いので」
「だったら夜更かしするな」
「夜更かし・・・ではないんですけどね」
夜には一切眠らないと知ったら、この温厚な担任教師はどう反応するのだろうか。
成績も素行も授業中眠っている事以外にはとりたてて問題のない生徒にも色々と事情というものがあるのだと、気がついてくれるのだろうか。
「成績は悪かないから、この程度で済んでいるけどな」
それは、もちろん勉強は嫌いではない。知らないことを知っていくことは好きだし、それになにより集中していれば嫌な事を忘れられる。
「先生のところに泊らせてくれればきちんと眠れますよ、きっと」
他意はない、私は誰かと一緒なら驚くほどすんなりと眠れるのだから。
だけど、どういう風に受け取ったのか、独身であるところの担任教師は3度目の小気味いい音を鳴らせて怒りだす。
「あほ!大人をからかうな!!!」
真っ赤になりながら、照れているのか大声をだす。その声に一斉に職員室にいる先生方の視線が集中する。
ますます居た堪れなくなったようで、耳まで赤くなった先生は、椅子へ深深と座りなおす。
「お話が終わったみたいですから」
チャンスとばかりに一方的に会話を打ち切り逃げ出す。
先生の方は私を捕まえておくタイミングを失ったとばかりに、金魚のように口をパクパクさせている。
丁寧に一礼してその場を辞す。
何度繰り返されても、私は夜は嫌い。
だから、やっぱり眠れない。
「あれ?部活あったっけ?」
「いや・・・。宿題やろうと思って」
登校するにはまだ早い時間。通学する人の影もなにもない少しだけ涼しい空気の中、後ろから声をかけられる。
「うそ!宿題なんてあるの?」
「おまえ、また寝てただろ」
俺よりかなり低い位置にあるその頭を見て呟く。
「へへへーーー、まあ、いいじゃん。そんなことより、何?数学?英語?」
「数学」
「教室行ったらどこか教えてよ、しまったなぁ、昨日確認するの忘れてた」
自分が授業中まるで教師の言う事を聞いていないことを前提に彼女は話す。
ある意味、彼女の居眠りは有名だ。午前中はほぼ全滅、教室にいることの方が少ないかもしれない。欠課が続くとやばいと思うのか、授業には出てくるけれどもやっぱり寝ている。
寝る子は育つというが、彼女はいかんせん小さいまま。
「それで成績がいいっていうのがわかんないんだよな」
幾度の呼び出しにもかかわらず、彼女が教師側から放っておかれているのはその成績の良さによる。進学校であるうちはその辺のあたりがルーズである。唯一担任教師がしょっちゅう呼び出しては小言をいっているようだが、効き目はないらしい。
「そりゃあ、勉強は嫌いじゃないもん」
「嫌いじゃないなら起きてろよ」
「だって、眠いんだもーん」
そのくせ彼女はこんなに早い時間に登校している。眠いのなら目覚ましの時間を遅らせればいいのに。そうしたら俺だってこんなに苦労してこの時間に登校する必要はない、はずなのに。
短いコンパスでチョコチョコ歩く彼女が先を急ぐ。
「早く、一緒に宿題やろうよ」
急に引っ張っぱられた学生服の袖。少しだけ触れた彼女の指先は驚くほど冷たくて、思わず握り締めて確認したくなる。
「短い足で走ると転ぶぞ、ガキ」
憎まれ口を叩く俺の心は複雑で、こんな時間ですら素直になれない天邪鬼な自分に落胆する。
子供っぽく舌を出して応戦する彼女を見て、やっぱり明日もこの時間に来ようなんてゲンキンな奴だよな、俺も。
授業中、ふと気がつくと彼女の方に向いている。
目ざとい生徒たちに気がつかれないうちに、頻度をさげようと修正を施す。
だけど、授業に集中していくにつれ視線も彼女へと集まっていく。
我ながら重症だと思う。
最初に気になったのは、彼女の授業態度。
常に肩肘を机の上について器用に寝ている様は、珍しい光景ではないけれど、それが常の状態だとしたら、やはり珍しい。職員室でもちょっとした話題となっている。
それでも彼女が要注意人物とならずに、それどころかやや微笑ましいとさえ思われているのは、彼女の成績ゆえだろうか。
「せんせーー、チャイムなったよ?」
その一言に我に返る。
中途半端なところだけれど、生徒たちはもう切り上げる気でいる。まあ、この後昼飯だから仕方がないのだろうけど。
ニヤニヤ笑っている生徒たちの中にあっても、彼女は眠っている。
午後になるとその瞳を開いているときもあるのだけれど、なぜだか午前中に集中している自分の授業中では、その色を見つめる事はほとんどない。そこまで思考をすすめて、何を考えているのかと自嘲する。
「あーー、途中だけど以上」
チョークを置いて、軽く手を払う。起立の掛け声と共に一斉に皆立ち上がる。さすがにワンテンポ遅れて彼女もそれに習う。
久しぶりに見た彼女の瞳の色に酔う。
フレームの中は彼女の姿でいっぱいで、この気持ちをどうしたらいいのか途方に暮れる。
どうして私がここに一人でいるのかわからない。
からっぽの部屋で季節はずれのワンピースを着た私は、当然だれもいない部屋内を見つめる。
自由に生きる人だとはわかっていた。
それを承知で惚れたのは自分。
だけど、何も言わずにいなくなるなんて思わなかったから。
用意周到に逃げ出した彼の後姿を思い出して悪態をつく。
乱暴に窓を開け放ち、カーテンも何もかかっていない窓際に立つ。
緩やかな風が入り込んでくる。
空は高く、済んだ色をしていて、私の気持ちなどおかまいなして晴れ渡っている。
私の侵入に驚いたのかベランダの手すりにとまっていた雀たちが一斉に飛び立つ。
あっという間にその姿は空の間に溶け込んでいく。
飛んだ鳥は帰らない。
だから私も歩かなくてはいけない。
「琥珀はおっとりしているな、元からそういう性質か?」
活き活きと家事に育児に立ち働いている琥珀を見ていたら思わずこんなことを聞きたくなった。そつなくこなす彼は何事もてきぱきとこなしはするが、根本的に優雅でのんびりした性格をしている。だから、私もそれにつられて多少せっかちな性格が和らいできたのだが。
「そうですかねぇ。自分じゃよくわかりませんけど・・・」
「昔言われなかったか?そんなこと」
「いえーー、どのご主人様もそんなことはおしゃっていませんでしたけど」
昔々、私では想像も出来ないほどの年数を振り返っているのか、目を細めながら考えている。思い出させたのは私だけれども、過去の琥珀と深く関わったであろう人間たちを想像して軽く落ち込んでしまった。
気配もさせずに私へと近づいた琥珀は、まるで子どもをあやすかのように頭を撫でまわす。
「ここの気がのんびりしたものなのかもしれませんね。やはり多少影響されますし」
私の心を読み取れる琥珀には筒抜けだったのかもしれない、先程の思考を思い返すと恥ずかしくなる。
誤魔化し紛れに彼の手を振り払おうとするけれど、あまりの心地よさにされるがままになってしまう。
いつだってそうだ。私は琥珀の前では随分素直な子どもになってしまう。
洗濯物を取り込んでいる最中だった彼は、私が落ち着いたのを見るとそろそろと途中で止まっていた家事に専念する。
いつのまにか琥珀のリズムで動かされている我が家。
こんなにも居心地がいいのはどうしてだろう。