40.どきどき
「は、晴香ちゃん……」

母と再婚予定のこの人に呼び出されたのは昨日の事。まさか母親が何かをしでかしたのではないかと、一瞬脳裏によぎったけれども、相変わらずお花畑に行ったまま帰ってこない彼女の様子をみるとそんな話だとも思えず戸惑っていた。あくまでも紳士的で、私に対してもその態度を崩さないこの人はとてもいい人だとおもうけれど、私としてはカフェの中とはいえ差し向かいでいるのはやはり辛い。眩暈を起こしそうな体をなんとかもたせつつ、カフェオレを口に含む。
先ほどから私に呼びかけては黙り込む、を繰り返している義父予定者は膝の上あたりでそれぞれ拳を握り締めて、言い辛そうにしている。 これがやっぱり、こんな大きなコブとは一緒に住めない、という申し出だったらありがたいのに、などと思ってしまうのは、先日の私の大失態を思い出したからだ。
いくら切羽詰っていたとはいえ、やっぱり晃さんの家にお世話になるだなんてどうして思ってしまったのだろうか。あまつさえそれを本人に向って口に出してしまうなどとは、私の精神状態が正常だったとは思えない。
呆けていた晃さんにはっきりと約束を取り付けていたわけじゃなかったのが幸いした。それから先は、そのことをおくびにも出さずに過ごしているというのに、晃さんは着々となぜだか一緒に座るためのソファだの、私が寝るためのベッドだの揃えている有様だ。とりあえず、否定も肯定もせず彼の準備を眺めてはいるけれど、今ごろはきっと立派な私の部屋というものが出来上がっているに違いない。そこに踏み込むだけの度胸は生憎持ち合わせていない。
だからといって、私の中の問題が解決したといえば、それはそうではないのが困ったところだ。
相変わらず私は、害のない年上の男性と差し向かいに話す、ということですら辛いのが現実で、これが毎日、生活のありとあらゆるところでこういう事態が存在する、と考えるだけで、どこか遠くの国へ行ってしまいたくなる。実際のところ、全寮制の高校へ転入、だとか、いっそ留学してみる、という前向きな逃亡先を考えなかったわけではない。だが、私の成績がその可能性を全て否定してくれるているだけだ。こんなことになるのなら、もう少し真面目に勉強をしておけば良かったと、余り良くない頭に語りかけてしまうほどに。
運ばれた飲み物はすっかりぬるくなり、義父予定者の頼んだアイスコーヒーなどはすっかりもとの色を失うほどに氷が溶けてしまっている。
カチリとカップが鳴る音に反応して顔をあげた彼は、意を決したようにようやくその口を開いた。

「晴香ちゃん……、ひょっとしてひょっとすると、私は臭いのかい?」

何度目かに呼ばれた名前の後、彼が言っている言葉が理解できなかった。思わずオウムのように聞き返す。

「……臭いって、何が、ですか?」

言っている意味がわからない、彼は困惑したままさらに握りこぶしを固くしている。

「いや、その、会社の女の子達に聞いたのだけど」
「はぁ」
「女の子って言っても晴香ちゃんよりずっと年上だけど、いや、そうじゃなくって、自分などよりずっと年頃の女の子のことがわかるかなって、だから」

しどろもどろになっているこの人は、とりあえず余り懐いていない義理の娘の心理を探るべく、身近にいた若い女性陣に訊ねたと、そういうことなのだろう。だけど、だからといって自分が匂うのか、と尋ねるのはわけがわからない。

「思春期の娘さんって、ほら、洗濯物とか一緒に洗わないっていうし」
「ええ、まあ、そう言う話は聞かないでもないですけど」

確かに、私の周りでもパパ大好き、と公言して憚らない人種もいないことはないが、大抵は微妙に距離をおいている人間が多い。それが、思春期の通過儀礼と言われればそれまだだけれど、生憎と私には父親がいないのでそのあたりは良くわからない。

「それに、親父臭いって、ほら、ね」
「はあ、そうなんですかね、よくわかりませんが」

満員電車で中年男性にぴったりくっつかれれば、そんな感想を抱かないでもないけれど、自衛手段としてそんなものには近寄らないし、徒歩か自転車で行動している自分には関係ない話だ。

「会社の女性がそんなことを?」
「え?うーーん、まあ、その。なんだ……」
「とりあえず、別に匂いがどうのと思ったことはないですけど」

最初の言葉をようやく理解した私は、彼が安心するであろう言葉を提供する。これについては嘘偽りなく、親父臭いなどと思ったことはなく、というよりもそんなことを感じられる状態にはない、と言う方が正しいのだけれど。それにしても、目の前の男性は一人暮らしが長いわりには清潔だし、服装もきちっとしている。だから、そういうものから与えるだらしなさのようなものも感じたことはない。母親の相手にしては、というか、最上級にいい相手だと思う。ただ、それが私の身近に存在し得るかどうか、という点に置いてのみ問題があるだけだ。

「じゃあ、じゃあ、どうして晴香君は同居してくれないんだい?」

親父臭くないといわれて安心したのか、結局のところの本題を口にする。
やっぱり、私が一緒に暮らすのは嫌だと、ごねていた事を気にしていたらしい。

「新婚さんの邪魔をしたくはないですし」

とりあえず差し当たりのない理由を挙げる。お花畑の母親を見ると、そう言う気持ちが湧かないわけではないので、嘘ではないだろう。

「そんなことはない、私は晴香ちゃん込みで家族と言うものを築きたいと」

そう思っているのは事実だろう。前回の話の中でも過剰に娘と言う存在に期待を掛けている気持ちが透けまくっていた。

「それに、どのみち高校を出たら独立するわけですから、それならば早い方がいいと思いまして」
「いや、だめだだめだだめだだめだ。女の子は結婚するまで家から離れちゃいかん」

母親が再婚するしないに関わらず、ずっと考えていた人生プランを即座に否定してくれた。しかも、なんだかとても前近代的な価値観までちらつかせて。

「でしたら、結婚して家をでるのならいいのですか?今直ぐ」

そんな気はサラサラないけれど、とりあえず反応を見るためにそんなことを言ってみる。

「だめだめだめだめ、だめったらだめ。そんなに急いでどうするんだい、人生これからなのに」
「でも」
「それに、晃氏だっけ?彼は感心しないな。だいたい、女性の二人暮しの家に入り浸るという点からしてもけしからん」
「いえ、晃さんには色々助けてもらいましたし」
「それにしたって、もう晴香ちゃんも子供じゃないんだから、あんな男をホイホイ家に入れてはいけないよ、ああいうのはむっつりだと相場が決まっているのだから」

そのあたりは否定できないけれど、晃さんの裏側を知らないふりをしている私としては、苦笑するほかはない。

「子供じゃないのでしたら一人暮らしでもします。お金ならなんとかなりそうですし」

正直なところお金があるわけじゃない。だけど、やっぱり男が入り込んだ生活を考えれば、そんなことは言ってられない。最悪高校をやめたとしても、それだけは避けたいのが本心だ。

「いやいや、晴香ちゃんは子供だよ、子供、うんうん、子供。だから一緒に暮らそう」
「……ですから、新婚さんと…」

言いかけた私を制するように、一枚のコピー用紙を目の前に差し出す。
そこにはよく広告などに入っている、部屋の見取り図らしきものが描かれている。

「これ…」
「いいでしょ、これ、二世帯住宅なんだよ、一応」
「二世帯、住宅?????」
「そう、二世帯住宅」
「はあ、それが?」
「それが、って。ここで一緒に住もうと思って」
「はい?」

驚いて思わず紙切れを手にとって、しげしげと眺める。確かに、トイレもお風呂も別々にある玄関だけは共同の二世帯住宅だ。二階部分には小さなキッチンまでついていてとりあえずお湯ぐらい調達するのに問題はないだろう。

「やっぱりさ、会社の子たちにも色々言われたんだけど、年頃の娘さんが私みたいな赤の他人と暮らすのは辛いと思うんだ」

いえ、あなただけではなくて男性全般苦手なのですが、とは言えないので曖昧に微笑んでおく。

「だからさ、こういう完全二世帯住宅なら大丈夫かなって思って」
「はぁ」
「それにさ、こういう中古の二世帯って割安なんだよ、結構。これなんて築年数も浅いのに、安いのなんのって。きっと、二世帯が失敗した口だろうね、嫁姑かなんかで」
「そういう、ものですか」
「そういうものです。だから、これなら晴香ちゃんも安心して暮らせるかなぁ、なんて」
「はぁ」
「それに、もう手付も打っちゃったし、二階部分に住む人がいないと困ってしまうんだよね」

優しい顔をしてナチュラルに脅されている気がするのは、気のせいじゃないと思う。そうまでしてコブである私と暮らしたいのかと思うと、なんとなくその心情を汲み取らなければいけないような気になってきてしまう。

「それに、実は玄関が一つっていうのがミソなんだよねーーー」

能天気に笑う顔に邪気はない、と信じよう。
確かに、一人暮らしで晃さんの襲撃をかわしたり、ましてや悪の巣窟のところへ赴くよりも、接触部分が少ないこの案は魅力的だと思える。

「一緒に暮らしましょう」

再度の要請に、小さく頷いて、義父予定者は上機嫌で帰っていった。私の元には購入予定の二世帯住宅の簡略図を残して。
義父の玄関が一つミソだという言葉の意味がわかったのは住んだ後。
関所のように頑強に晃さんの侵入を拒む役目を果たしていると気がついたときだった。

6.30.2007update
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