31.去年

 どれだけ足掻いてみても手に入れられないものがある。そんなことがわかってしまった去年の春。そこから私は何を学んだというのか。

「私、彼の事が好きなの」

そう告げられた時、“私も好き”という言葉を喉の奥に引っ込めた。
学生時代からずっと続いてきた3人の関係が、崩れていく音が聞こえる。

「そう、じゃあ、協力してあげる」

思ってもいない言葉がスラスラ流れ落ちていく。
実際は私の後押しなんかがなくても二人はひっつく予定だったのだ。
だって、私は彼の方から、彼女が好きなのだと、聞いていたのだから。



 思い出せるのは純白のベールに勝ち誇ったような彼女の笑顔。晴れの日にそんな邪推をしてしまう惨めな自分。逃げ出したくて逃げ出せなくて、最後まで友人代表の仮面を被りつづける。

心の中ではずっと裏切ってきたのに。

ブーケを投げなかった彼女が、式の終わりに私へと、ブーケを直接手渡してくれた。
その時彼女が呟いた「ごめんね」の言葉。
リフレインする言葉は哀しげで、その言葉とともに二人の友情も終わったのだと、そう告げられた気がした。
ずっと続けばいいと思ったあの季節も徐々にうつろっていく。

今はもう2度目の夏なのだと蝉の声が教えてくれる。

32.夢なのか?

 告白して受け入れてもらった日を今でも忘れない。嬉しくて嬉しくて、その時一番の女友達に電話をした。

「だから言ったでしょ、大丈夫だって」

携帯の向こうにいるの声は俺以上に嬉しそうだと感じた。

 ずっと友達でいられると思ったのは過去の話。いつのまにか俺は女友達のうちの一人を好きになっていた。元々女二人に男一人という編成はアンバランスな気がしないでもない。
だけど、そんなことを意識しないでいられるほど3人でいる時間は心地よかった。
それを壊そうとしたのは俺のせいで、だけど踏みとどまって支えてくれていたのはもう一人の女友達だった。姐御肌であれこれ世話を焼くのが大好きなその人は、あれこれともう一人の彼女の世話を焼いていた。仲の良さそうな二人を見ているのが楽しくて、保護者気取りで彼女達の側にいた。
いつのまにか二人を違う視線で追いかけるようになった俺に気がついたのは、世話焼きの彼女の方。あれこれとお膳立てをしてくれて、やっと告白と相成ったときには、わが事のように喜んでくれた。



 俺達の結婚式でも終始にこやかで、彼女のおかげでこの日を迎えることができたのだとちょっと照れくさくて、でも誇らしくて。
新婦となった彼女が友人にブーケを手渡すシーンなどは、披露宴の間でも泣かなかった俺が思わず涙ぐみそうだった。
あれから、友人とは会っていない。3人で会うのを、まして二人きりで会うのを妻が微妙に嫌がるからだ。結婚したって友達は友達だし、彼女は妻の友人でもあるのに。
 だけど、穏やかな日々が過ぎていく中で、夫婦の間に溝を作りたくない俺は、なんとなくそれを黙認してしまった。
夢のような生活はいつまでも続いていきそうで、でも時々息苦しくなる。

あの時俺が見ていた夢の中にいるのではないか、そんなことを思うほどに。

33.拒絶

 彼女が彼を好きなことは知っていた。だって彼女の目の色が違うんだもの。彼女はとても聡明で理性的な人だから、他の人では気が付かなかったかもしれない。
だけど、私は気が付いてしまった。だって、私も彼の事を好きだったから。

「彼の事が好き」

そう告げたとき、彼女は一瞬だけ表情をなくし、でもすぐにいつもの笑顔で私を励ましてくれた。色々とお互いのことを語ったその日、彼女はついに最後まで自分の気持ちを白状しなかった。
でも、本当はそうなることはわかっていた。だって、3人の和を何よりも大切にする彼女だったから。
彼はどちらかといえば私の方が好きだと思っていたけれど、彼女のようなタイプから告白されれば簡単になびいてしまうだろう。なにせ、私より彼女の方が美人だし、頭も良い。私が勝てることといえば頼りなさそうな雰囲気だけ。だから、今回はそれを思いっきり利用してみた。彼がいなければ私は生きていけないのだと、彼に認識させるように。彼女は十分私達をくっつける役割を果たしてくれた。

目的を達成してしまうと、後に残るのは果てしない虚しさだけだった。

彼の事が本当に好きなのかさえわからない。
披露宴の後ブーケを手渡した彼女は、花嫁である私よりも誰よりも純白が似合いそうだった。
思わず呟いた「ごめんね」の言葉。
その一言で彼女は全てを理解したのか、その後ぱったりと連絡をよこさなくなった。
独身時代ののりで彼女と連絡をとろうとする夫を嗜め、既婚者なのだからと無理やり納得させる。
私のやったことに気が付いた彼女がどういう手段にでるのかが怖いと思ってしまったから。
彼女と関わる全ての知人も拒絶する。
よくわからないといった顔をしていた彼も、平穏な日々が続くにしたがって徐々に昔の仲間を忘れていった。
誰からも幸せそうに見える私達が、実はとても不安定な乗り物の上にのっているだなんて、お笑いだ。

二人きりになった今、私はこの人を愛していけるのだろうか。

34.タイル

ぺたり、ぺたりー――――――――。

何もない浴室の床にしゃがみこむ。
もう夏なのか、蒸し暑さが全身を襲う。
何もやる気力がわいてこない。
食べることも、寝る事も、話す事も、聞くことも。

五感が麻痺していく。

健康的な日の光すら疎ましく感じてしまう。
居場所がないとか帰る場所がないとか。
足元が不確かな生活は徐々に私の理性を剥ぎ取っていく。

ぺたり、ぺたり―――――――――。

微熱が浮かんでいる額を床へとくっつける。
冷たさはやがて私自身の体温へと変化する。
ここから離れられない。
寝室も、リビングも、キッチンも、玄関ですら。

どこへも行けない。

どうしていいかどうしたらいいかわからなくて。
剥ぎ取られていく理性は、記憶すら抜け落ちていく。
遠くから蝉の鳴き声が聞こえる。

そこまでたどりつくにはどうしたいいのだろう。

35.意味(表)

 結婚するということがどういうことなのかわからないまま始まってしまった二人は、やっぱりどこかに歪がでてくるもので、それを見ない振りをしていた私は、ずっと現実にもどれないでいる。

「もういいかげん別れよう」

そう言ってテーブルの上に差し出されたのは離婚届。
テレビでしかみたことのないその紙切れは、想像以上に軽くて、そこに記入するだけで二人の関係がリセットされてしまうものだとはとても思えない。

「どうして?」

最初に出た言葉はただ単純な疑問だった。
毎日毎日これといって特色のない日々だけど、それでも私達はうまくいっていたと思っていたから。

「おまえは俺を愛していない」
「なぜ?愛してるわよ」

無表情に唇を引きむすんだ夫は何かを反芻するように考え込む。
私は、自分の発した言葉があまりにも軽い響しか持たないことに驚かされる。
本当はわかっているのだ、彼の言葉が真実だという事を。だけど、現実を把握することを拒否した私は、すぐにその記憶を切り捨てる。

「愛していると思っているだけだ」
「わからない、どうしていきなりそんなことを言うの?」
「本当にわからないのか?」

搾り出すような低音の声。それだけ真剣に彼が切り出した話を、私は薄い膜に包まれたような現実感のなさで受け止める。

「あなたは疲れているのよ、最近忙しかったから」

激しく顔を歪ませ、次には拳を握って否定する。

「違う!!今ですら会話がすれ違っていることに気が付かないのか!」

そんなことを言われても、わからないものはわからないから。

「食事にする?」
「いいかげんにしてくれ!」

イライラと煙草の箱から出したり入れたりを繰り返している。
私はかまわず食事の支度にとりかかる。
背中を向けた私に大袈裟な溜息がかけられる。
それは夫が発したもの以外はありえないのだけど。
扉が閉じる音がする。
部屋から人の気配がなくっていく。
たぶん、振り向きざまに夫は私へと言葉を残していく。

「そうやっていつまで現実逃避する気だ?」
「ずっとよ」

現実と一瞬だけ交錯した私が現実の言葉を話す。
彼の詰まった息の音が聞こえる。
もう一度薄煙色の住人に戻っていく。
何も聞こえない、何も感じない。

こうしていれば、彼との関係が壊れないのなら、いつまでだってこのままでいよう。
私にはそれしか残っていないのだから。

35.意味(裏)

たぶん好きだったのだと思う。ずっと遠い昔の記憶だけど。
勢いのままに結婚した二人はとっくの昔に破綻している。他に好きな人ができた、ただそれだけでは関係を解消できるほど簡単な契約ではなかったのに。

「もういいかげん別れよう」

幾度目かの別れの言葉はいつからかお決まりのセリフになっていった。

「どうして?」

いつもの受け答えを返す妻は虚構の世界へと足を踏み入れている。

「おまえは俺を愛していない」
「なぜ?愛してるわよ」

あまりにも軽いその言葉は一瞬だけ彼女自身にも現実を思いしらせたらしい。だけど、直ぐにもとの彼女に戻っていく。
早くこの関係から逃れたくて、足に絡んだ水草を剥ぎ取るようにもがく。

「おまえは俺を愛していない」
「なぜ?愛してるわよ」

一度も視線すら合わせずに言ってのける。魂のない人形のように微笑んだまま、彼女は同じ言葉を繰り返す。

「愛していると思っているだけだ」
「わからない、どうしていきなりそんなことを言うの?」

人形になった彼女に現実を思い知らせたくて、幾度となく冷水を浴びせる。だけど、一度も彼女はこちらを振り返ってはくれない。

「本当にわからないのか?」

繰り返される会話は、昨日だったのか1年前のものだったのか。上滑りの言葉だけが応酬される。

「あなたは疲れているのよ、最近忙しかったから」

「違う!!今ですら会話がすれ違っていることに気が付かないのか!」

無邪気な微笑で全てをなかったことにしている。彼女のどこが良かったのか、どこが好きだったのか、それすらもすでに見失っている。

「食事にする?」

なんでもないという風に、彼女はルーチンの仕事に戻っていく。
自分を待って、食事を作っている瞬間が大好きだったと言う彼女は、象徴的にその仕事に執着をみせる。それを最初に裏切ったのは確かに俺だ。責任は全て俺にある、そう格好をつけていきがってみせるけれども、向き合わない彼女との会話は確実に俺自身の神経を疲弊させる。

「いいかげんにしてくれ!」

たまらなくなって感情をぶつける。
だけどそれすらも微笑を絶やさない彼女には無意味な行動でしかない。
これ以上ここにいることができなくて、逃げ帰るようにダイニングのドアに手をかける。
もう一度、お決まりになったセリフを彼女へと吐く。

「そうやっていつまで現実逃避する気だ?」
「ずっとよ」

一瞬、現実世界へと舞い降りた彼女の瞳からどこまでも濁った暗い情念が覗く。
それすらもすぐに消えうせ、再び彼女は夢の中へと帰っていく。

いつまでもこのままでいる彼女に苛立ちながらも、このままでいいのかもしれない、そう思ってしまう怠惰な俺がいる。
変化を恐れているのは俺の方かもしれない。

お題配布元→小説書きさんに100のお題
8.25.2005(再録)
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