「和奈」
私の下の名前を呼ぶ人はごく限られていて、しかもこんな低音のよく響く音で呼ばれる心当たりは一人しかなくて。
「先生・・・・・、名前で呼ばないで下さいと、あれほど言ったのに」
「俺は俺の好きなように呼ぶ」
ああ、なんてこの人らしい発言なんだろうか。ため息をつきながらも、以前のような我侭さを取り戻したこの人に安心した。
「で、先生。何の用なんです?」
「お前、また補習だぞ」
答案用紙をヒラヒラさせる。
「うそ!あんなに勉強したのに!」
そう言って彼の持っている用紙をひったくる。
「先生・・・・最後の問題」
テストが終わった後張り出された解答をみてあたっていた記憶がするのだけれど。
「ああ、それ?答えはあってるけど、解き方が間違ってるから、当然バツな」
「ひどい!答えがあってるんなら、少しぐらい点くれたっていいじゃない」
「俺はお前のためを思って、言ってるんだ。観念しろ」
再び私の答案用紙を手にとり、足早に職員室へと去っていった。
横暴な数学教師の背中を見送りながら、今までのような視線でみられていないことに気が付く。彼の中ではすでに解決した問題なのかもしれない。
私の方は、どうやって祐君を説得するか、という難問が立ちはだかっているんだけれどね。
「響さんってピアノのCDが多いんですね、あとバイオリン?」
「ああ、ピアノは落ち着くんですよ。なんでも私の子守唄がピアノの曲だったらしくて、そのせいですかね?今では眠ってしまうことはないですが」
クスリと笑って、響さんが1枚のCDをかける。
TVでBGMによく使われる音楽らしくて、聴いていると私も安心する旋律。
いつのまにか響さんにもたれるようにして眠ってしまったのは、音楽のせいなのか彼のせいなのか。
起きた瞬間、彼の笑顔に会える幸せを知っているせい・・かもしれない。
「左京、コンタクトにはしないの?」
「は?そんなめんどくさいもの、どうして俺が?」
想像していたのと一文字も変わらない答えが返ってきて、安心を通り越して呆れてしまう。
「や、なんとなーく、眼鏡無しの左京ってどんななのかな、と」
「どんなのって、おまえ、ベッドの上でも見てるじゃないか」
「誤解を招くような表現はやめてちょうだい」
当たり前のようにサラリととんでもないことを言う左京は、当然私の隣に座っている人間を挑発したいがために、そんなことを言い出すんだろうな。
「なんだって!!さくら、今の本当か?」
案の定勢いよく食いついてきた叔父さんはもうなんていうか・・・・・。興奮しないで下さい。
「叔父さん叔父さん、左京の冗談に乗らないの」
ドウドウとあやしながら立ち上がった叔父さんを座らせ、落ち着かせる。
コレだからこの人はいつまでたっても独身なのだと(以下略)。
「それに、一緒に寝た回数は叔父さんの方がはるかに多いんだから、安心していいよ」
私の発言に今度は左京が顔色を変える。
両者ともにらみ合ったまま、視線でお互いを牽制する。
こんな雰囲気は嫌いじゃない、なんて言ったら、今度は私が睨まれるんだろうか。
「ええ?だめなんですか?」
「だめもなにも約束してないでしょうが」
目の前で駄々をこねているこの人は、確か私より4つ年上だったはずなんだけど。
「じゃあ、いつ?いつならいいんですか?」
尻尾振ってじゃれついてくる子犬よろしく、縋り付いて来る。
「まあ、そのうち」
「そのうちそのうちって、理佐さん会わせる気ないでしょう?ほんとは」
半分ほんとのような本音を嗅ぎ当てられた気分だ。
「僕は早く理佐さんと家族になりたいのに」
現在家族と呼べる人が全くいない彼は、異常なほど自分の家族を持ちたがる。その理由については理解もするし、同情もするけれど。
だからといって、今すぐ結婚する気は、少なくとも私にはない。
だけど、やや田舎にある私の実家なんぞに連れて行けば、両親が舞い上がってトントン拍子に話が進んでしまうことは火を見るより明らか、というか、もう絶対そうに違いない。
「あーーー、じゃあ、同棲でもする?ためしに」
あまりにも追いすがる彼の気をそらすために、こんなことをうっかり口走ってしまった。
その瞬間キラキラカガヤイテルよ目が。水を得た魚。おやつをもらったワンコ?
妙に行動力のある彼のおかげでその日のうちに住む場所を探しに行く羽目となる。
これって、もう白紙に戻せない、よね?
大喜びする彼の隣でそんな不埒なことを考えるけど、心のどこかで喜んでいる自分がいたりする。
まあ、こんな展開もアリ、かもしれない。
こうして無意識に誰かの背中を探すようになったのは、いつからだったのか。そんなことも思い出せないぐらい昔からやっていた癖。
手に入らないその人を追いかけて。
「相澤?」
不意に隣からの声で我に帰る。
「・・・・どうかしましたか?」
「どうかって。おまえ焦点あってなかったぞ」
「はぁ・・・。少し考え事をしていまして」
この人は苦手だ。元々人とは距離をおきたいタイプの私は、意識して壁を作ればある程度望みどおりそれが達成される。だけど隣にいるこの人は、そんなものはおかまいなしにズカズカ私の領域に侵入してくる。
「ふーーーん、相澤が考え事・・ねぇ」
意味深に呟く。この人のこの調子に乗せられてはダメだ。そう本能が告げている。
彼の言葉を聞かなかったことにして黙りこくる私を一瞥したかと思うと、ニヤリと笑う。
「ま、長期戦でいくつもりだから。そこんとこ覚悟しといて」
その笑顔に射すくめられる。
この人には敵わない。
何に?とかどうして?とかじゃない。完全に位負けしている。
私に出来ることはと言えば、やっぱり逃げ出すことしかなさそうで。
今のやりとりを忘れ去るかのように、雑踏の中にいるはずのない誰かを探す。