100.おわり
 若くしてアホな男に自ら飛び込んで大失敗した母は、確かにシングルマザーとして今までがんばってきたと思う。
間に数え切れないほどのもっと馬鹿な男どもを彼氏にして、危うく娘の私まで巻き込まれそうになったりして、それでも私は母を愛しているし、母親からの愛情を疑ったことはない。
もちろん、今でも素直に愛されていると思う、けれども。

「はじめまして」

温厚そうな中年男性が、はにかみながら手を差し出す。強ばりそうになる顔を必死で隠しながら、その手をなんとか握り返す。
ぞくっとする感覚と、全ての体液が急降下する錯覚に陥る。
いつもより上等な服を着させられ、連れて行かれた先にいたこの男性が母親の再婚相手なのだとたった今知った。
正確にいうなれば存在は知っていたものの、その姿を確認していなかっただけなのだが。
この人は珍しく家へ入り浸ることも、私にちょっかいを出すこともなく、きっとそれだけでもずっとまともな男性だと思う。
今までが今までだから、平均に近づけば神様レベルにいい人になるかもしれない、と訝しい気持ちにかられる。
だけど、母のおかげで学習能力のついてしまった私は、瞬時にしてこの人を「いい人」だと認識してしまった。
それは、たぶん、外れることがないだろう。
そうしてこの人は今までずっと母親が相手にしないタイプの人でもあった。
付き合いやすく近づきやすい、一見して男らしいとか優しいとか、裏に回れば乱暴ものか優柔不断な男とも言えるけれど、そういったタイプとばかり付き合ってきた母は、わかりやすくトランプのジョーカーを引き当てるし残してしまう人間だ。
なので、地味でわかりにくいけれども優しくて、そして強い人間と付き合うなどとは、余程相手が地道に長いスパンでアプローチをかけなければ無理な話だ。ホテルのレストランで二人の話を聞いていると、相当長い間普通の人にはわかりやすいけれども母には無茶苦茶わかりにくい秋波を送っていたらしい。
カチリとフォークが皿の上で鳴る。
こう言う場に緊張しているわけではないけれど、相手はそう誤解してくれているので、ありがたくそう言うことにしておく。
こんなにも持病とも言えるものが悪化しているとは、割と神経が細かったのだと慰めてみる。

「だからね、来月からでも一緒に住もうと思って」

上の空でまったく聞いていなかった彼らの会話をうっかり聞き流すところだった。私が美味しそうに焼けた肉を細かく切り刻んでいる間に、話は随分と先へと進んでいたらしい。
だけど、それを認識して納得するには、今の私には非常に難しい。

「賛成してくれる?」
「……うん」

苦労ばかりを拾ってきた彼女が、ようやく幸せそうになるというチャンスが目の前に転がってきたというのに安易に否定することはできない。
もっとも、彼らにしてみてもよもや私が反対するとは思ってもいないようで、ほがらかにこちらを穏やかな笑みというやつで見つめている。
確かに、自分の年齢立場、相手の条件を考えてみても、ちょっと反対する要因は浮かばない。
控えめな賛成の言葉に嬉しそうに最後のデザートを頬張る母は、険が取れて本当に優しそうな表情を形づくっている。
やっぱり、私が反対などできるはずもない。
結局食べられなかったお皿を下げてもらい、紅茶が目の前へと置かれる。
一応そんな私を心配してか声はかけるものの、どこかねじが外れて幸せに浸っている母の言葉にさして逼迫した趣はない。
常ならば大好きな紅茶の香りも、今日はただ胃を刺激している。
これからずっとこんな状態で暮らしていかなければならないなどと考えると、もうギリギリの選択をすべき時がきたのだと覚る。

「私も、好きな人がいる」

唐突に切り出した言葉に、女の子同士の会話を楽しみたいと力いっぱい叫んでいた母が喰らいつく。

「あら、誰々??」
「知ってる人、だと思う」

人差し指を唇に当て、しばし考えるポーズをとる。
だけど、彼女が知っている異性といえばあの人しかいないわけで、瞬時にしてそのことに思いあたった彼女はオーバーに手をぽんと叩いた。

「晃君!」

本当は、好きなどという単純な言葉が当てはまる相手ではない。
幼い頃から一緒にいてくれたとはいえ、私には兄弟はいないけれど、たぶんそういう肉親の情とも違う感情を持ち得た唯一の異性。
そう、私は笑ってしまうことにこんな母から生まれて、いや、生まれたせいか、男性恐怖症と呼ばれるものなのだ。
いつ頃からその症状が出始めたのかは覚えてはいないけれど、中学へ上がった頃には徐々に酷くなっていったように思う。
今では完全にある一定の距離内に入られるのもできれば遠慮願いたい状態だ。
おじいちゃんや子ども相手ならば大丈夫なのだから、それ程酷い物ではないと言い聞かせてはいたものの、実際問題私の立場で出会う人間はそれ以外の年齢層が大半であることを考えると、やっぱりこれはちょっと困る。
まして、これからは赤の他人の男性と暮らしていかなくてはいけないのだから。
推理ドラマの犯人のように崖の縁に追いやられた気分だ。

「新婚さんには私は邪魔だと思う、よ」

すっかり冷えた紅茶はそのままに、ようやく切り出せたものの、やはり二人は険しい表情をしている。

「すぐに、賛成してくれるとは思ってはいないよ、やはりデリケートな問題だから」

優しいおじさんは、私が思春期の娘にありがちな感情から、容易に賛成できるものではないのだと思い込んでいる。

「……やっぱり、いや?」

お花畑の中を闊歩している母は、反対されるわけがないと思っていたせいか、悲しそうな顔をしてこちらの表情を窺っている。

「いや、じゃない。もちろん賛成」
「でも」

よくわからない、という表情を浮かべた二人は、当然親子三人で暮らしていくものと算段していたのだろう。いや、それ以外の未来設計などしていなかったのかもしれない。

「私、晃さんと暮らす」

唐突に高校に上がったばかりの小娘が吐いた言葉に、驚いて固まっている。
もちろん私だってこんなことは言いたくはない。小さい頃から虎視眈々と私自身を付けねらっているストーカー体質の晃さんに、我が身をおいそれと捧げようとは思っていない。言ってみればこれは究極の選択だ。
なにせ、同じ空間で息を吸うのも辛いほどの男嫌いが、これから先、母親の再婚相手と安寧に暮らしていけるわけがない。
最初のうちはいい、人見知りをして慣れないのだろうと思ってくれるだろう。
だけど月日がたっても、一向に心どころか距離も縮まらない相手に何を思う?
いくら相手の人間が心が広くたって、腹に何がしかの感情を持ち得ないと言い切れるだろうか。そんなところから母とこの人の間に綻びが起きることは絶対に避けたいし、私としてもたぶんなれる可能性が果てしなく低いアレルギーの相手とずっと暮らしていくストレスを思ったら、ヘンタイの家に居候になるほうが遥かにましだ。
だからこそ、私はあちらを選ぶのだ。
驚いて固まって、でも、後からの反応は両者異なるものだった。
若いうちから男と遊んで、早い頃には最低の実父とああいう関係になっていた母と、たぶん良識と常識を兼ね備えた彼氏さんでは倫理面での垣根がことなるのだろう。喜ぶ母と、渋い表情のままの彼氏。
だけど、実の母親が賛成しているのに、いまだまだその彼氏という立場でしかないこの人が派手に反対できるはずもなく、そのことはうやむやのまま終了してしまった。
私を手元において、娘と暮らす気分というものを味わいたかっららしいおじさんの提案で、結局、当初の予定は少し延期されることとなった。たぶん、その間に私を懐柔するつもりだろう、彼らが一緒に暮らすのは3ヵ月後の予定だ。
それまでには晃さんに切り出さなくてはいけない。
恋愛感情はないけれど、それでも家に置いてください。などと都合のいいことをどうやって言いくるめようかと頭を悩ませる。
ついでに、割と古風でたぶん、これから母親よりもずっとずっと扱いが難しくなりそうな義父予定に対しても対策をたてなくてはいけない。
対応一つ間違えば私の人生は終わりだ。いや、ある意味晃さんにとってはハッピーエンドともいえなくはないが、まだ人生を闇に葬り去るには私は若すぎる。
できれば、まだ子どもでいられるうちに。
おわるにはまだ早い。
私はまだまだ逃げつづける予定なのだから。

4.10.2007update
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