圭一さん、来年もまたお花見しましょうね。

満開の花びらの中、そう言ったのはいつの事だったのか。
“また来年”、その言葉を口にした瞬間の彼女の表情を忘れることができない。

傲慢で未熟で子供みたいな俺だったけど、少しは大人になった今なら言えるだろうか。もし、彼女に逢えたなら、伝えられるだろうか。あの時も今も変わらないこの気持ちを。

またいつか逢えたなら

ピピピピピピ…。

うるさい、今日は日曜日なんだからゆっくり寝させてくれ。
誰だよこんな時間に目覚ましセットしたやつは、と八つ当たり気味に目覚し時計の居場所を探る。
手の届かないところにあるらしいそれは、布団の中からものぐさに手を伸ばしたぐらいでは止まってくれないようだ。仕方なく、まだ薄暗い中ですっかり万年床になった布団を被りつつ寝返りをうつ。
這いずるようにしながら探り当てた目覚ましを止め、時間を確認する。

「7時じゃねーかよーー。ったくなんで俺こんな時間に…。」

掛け布団を頭までかぶって2度寝しようとしたところ、とんでもないことに気が付いた。

「やべっ。今日は引越しの日じゃねーか」

一人暮らしが板についた自分の声が虚しく一人の部屋に響く。どんよりと働かない頭を揺り動かしながら記憶を引っ張り出す。確か、引越し屋の都合で早朝八時などというとんでもない時間になったはず、と、再び時計を確認する。
時計の針はきっちり7時を過ぎたあたりを指している。そろそろ小汚い格好をなんとかして準備しないと間に合わない。思い出して良かったと、布団から這い起きる。
自分の引越しの日を忘れかけるなんて、と、二日酔いを引きずりながら昨日の夜のことを思い出す。今のこの状態は調子にのった友人と、もちろん俺自身が朝4時までぐずぐずと飲み倒していたせいであって、誰のせいでもなくそれはやはり自分のせいだろう。
ぶつぶつ言いながらも、身支度をする。
もっとも、この部屋には大きな家具はほとんどなく、万年床を片付けてしまえばそれで終わりなのだが。



昨夜、就職が決まった俺のために、というもっともらしい名目で飲み会と言う名のお祝いと送別会を開いてくれた。
大学の男臭い実験系の研究室に大学院博士課程後期課程の学生として所属し、めでたい事に3月には無事学位を取得することができた。
最近のドクターの就職難は日々を追って酷くなる傾向にある。無計画とも思えるほどその定員を増やしていったはいいが、その受け皿となるべき就職先が増えるわけもなく、頼みの綱の大学職員の数は少子化のあおりを受けて減っていく一方だ。おまけに、多少持ち直したとはいえ、企業への就職率が飛躍的にアップするわけもなく、年齢が高くさらに初任給すら高額である俺らのようなドクター持ちは敬遠される事が多い。偶々運良くポストと年齢がマッチしたおかげで、年末ぎりぎりになって、俺も助手としてのポストを他大学で獲得することができた。
これでもおれはパーマネントの仕事をとれただけましな方だ。
同級生の中にはポスドクとして数年単位の臨時研究員の職を得たものや、 日本での就職に有利になるよう海外へ高飛びするやつもいる。
そんなこんなで、俺の引越し前日というギリギリの日程になってしまったが、仲間が日本全国どころか世界中にちりじりになる前に一度集まることになった。
これから学会などで会うことにはなるだろうけど、学生の身分で気軽に遊べるのは昨日が最後とあって、みんなかなり羽目をはずしていた。
俺は一応今日の引越しのために早めに帰ってきた方だ。たとえ午前4時であろうとも。

久しぶりに馬鹿騒ぎをしたせいか、許容量を少し超えた酒のせいか、あの夢を見た。
いや、誰に対してなのか言い訳する癖がすっかりついてしまったけれど、この夢はこの季節には必ずといっていいほど見る夢なのだから、酒のせいではないだろう。去年よりも鮮明に、もう二度と忘れられないぐらいはっきりと思い出せたのは酒のせいかもしれないけれど。


布団を仕舞った後、薄汚れた壁にもたれかかり、座り込む。
この部屋も今日が最後。
学生生活9年のうち6年もココに住み着いていたのだから、汚くとも愛着はある。
ドクターの3年間は、ほぼ着替えを取りに帰るだけの部屋だとしても。

やることが無くなり、手持ち無沙汰になったせいか、昔のことが思い出される。
今も胸にさす鋭い痛みとともに。

夢の中の彼女はもう大学3年生になっているはずだ。あの時とは違って、大人になった彼女を俺は想像することもできない。あの時から時間だけは嫌という程過ぎているのに、俺の中の彼女は、いまだに18歳で、桜の中ほほえんでいる。
少し染めているのか、茶色がかった髪に、零れ落ちそうなぐらい大きな瞳。いつでもその目はまっすぐに俺をみつめ、俺はそのどこまでも純粋で真摯な瞳と目を合わせることができなかった。

アナタガスキデス

彼女はいつも伝えてきてくれた。

「圭一さん、好きよ」
「圭一さん、大好き」

そんな一途な想いに、俺は何一つ答えてやることができなかった。

まだ幼い彼女に何かを言ってやることが照れくさくて、いつもいつも誤魔かすことしかできなかった。年が離れているからと、全てをそのせいにして何も努力することなく、彼女の優しさに胡座をかいていた。
本当に不安だったのは彼女の方だ。
年齢差だけではなく、高校生と大学生という立場の違いが、思った以上に俺自身の言動に縛りを入れる要因でもあった。それはたぶん、彼女にとってみても同じことで、目には見えないけれど、でも確実に感じる隔たりというものを微妙に感じ取っていたと思う。
だからこそ、言葉というものがもっともっと必要になるというのに、どうせ言ってもわからないだろうと彼女の事を見下して、なのに手放せなくて気まぐれに呼び寄せる。
自分と関わるたびに、わけのわからない嵐にまきこまれたように、彼女が混乱する。わかっていて、それでも彼女を求めることをやめられない。行動が彼女に自分の気持ちを伝えているのだと言い訳を重ねながら。
たまらなくなって零れ落ちた「私でいいの?」、という言葉にさえ俺は答えられなかった。
二人の関係を明確にしないまま、ずるずると付き合い続け、少しずつ少しずつ彼女を傷つけていっただけの自分。
子供なのは俺の方だ。
言わなくてもわかる、子供にはわからない。矛盾して屈折した思いを彼女にぶつけることでしか、彼女と関われなかった。

結局は何もかもなくしてから気が付くんだ。
ただの大馬鹿者だ。
しかも、未練がましく3年経っても忘れることができないなんて。





毎年同じ夢をみる。
現実に見た桜の中の彼女は、微笑んでいたはずだ。なのに、夢の中では涙を湛えて立ち竦んでいた。零れ落ちる日差しが彼女の涙に反射して、桜吹雪の中触れることもできない。
夢の中ですら、笑顔の彼女に逢う事ができない。全てが自業自得だと、わかってはいてもやりきれなくなる。
せめて今の彼女は笑っていてほしい。そう願うことすら本当は傲慢なのかもしれない。


彼女との出会いは、学部3年生のとき。家庭教師を引き受けた先に彼女がいた。 生徒だった彼女は、とてもおとなしく、真面目で、非常に教えやすい少女だった。
高校受験前の一年間の約束だったが、無事希望校に入学出来た後も、彼女からは時々メールが届いていた。
他愛もないメールばかりだったはずだ。しかし、当時研究室に配属になり、 慣れない実験に手間取り疲労困憊している俺には、一種の癒しともいえるものだった。

メールのやりとりが一年余り続き、気がつけば現実にも彼女と会う機会が増えていった。たぶん、修士に上がり、俺自身に余裕ができてきたせいだろう。それ以上に、文字だけでは足りない、そう思っていた自分にそのときは気がつかなかった。
ずっと心にひっかかる存在ではあったけれど、教え子だった彼女はそういう対象ではないのだと、頑なに思い込もうとしていたのは覚えている。今思えば、努力がいる段階でもはや彼女をそれ以上に認識していたと白状したも同然なのだが。
ただ触れたくて、でも教え子だと言い聞かせた。矛盾した思いは徐々に屈折していき、最後には押さえが効かなくなっていた。
大人であるべき自分が、堰を切ったように彼女を求め始めた瞬間、そんな弱い自分を隠すように殊更年上ぶってみせた。
思えば最初から、年齢をたてに言い訳を続けていたわけだ。

弱みがある俺は、素直になれなくて、自分の気持ちもやさしい言葉も何もかも言う事が出来なかった。
そんな最低な始まり方でも、彼女は一生懸命俺についてきてくれた。

実験ばかりで土日ろくに遊べなくても、電話すらできなくても、文句一つ言ったことがなく、ただ俺の体の心配ばかりしてくれていた。
たまの休みは、彼女が部屋へ遊びに来てくれて、彼女の作ってくれたご飯を食べてゴロゴロするだけだった。何もしなくてもただそうやって一緒に過ごせればそれでよかった。それはたぶん、彼女も一緒。特別なことなど望んでいなかったはずだ。
だけど、決定的に違ったのは、俺は彼女の気持ちを確認した上で胡座をかいていたのに対して、彼女は俺の気持ちを確認できないまま不安定な状態に置かれっぱなしだったということだ。

いつも笑顔の彼女が1回だけ俺の前で泣いたことがある。
俺が彼女の誕生日をすっかり失念していたときだ。
ただ忘れただけなら、そんな風にはならない。
うぬぼれだが、彼女はこういう男だとわかって付き合っていたはずだからだ。
しかし、あの時は運悪く実験や学会に忙しく、1ヶ月以上も忘れていた。しかも誕生日の前には

「世界の誰よりもあなたからのおめでとうがほしい」

なんてお願いされていたにもかかわらずだ。

彼女の望んだのはたった一言のオメデトウ。
それすらも叶えてやれない男は捨てられても当然だ。

「誕生日を忘れたのは仕方ない…けど、今でもいいから…」

目も合わさずに、地面だけを見つめそれだけを搾り出した彼女。

「はっきり言えよ」

思い出していたくせに、試すような言い方に反発心をいだいて、いつのまにかそんな冷たい言葉しか吐き出していた。

「お願い、は?」
「はあ?ったく忙しいのにイチイチそんなこと覚えてられるか」

最低最悪な返し方をした。
とうとう耐えられなくなった彼女が大粒の涙を流す。
その涙にどうしていいかわからなくなって、焦っているのに上手く言葉は出てくれない。
心の動揺を見せるのが嫌で、泣いている彼女が痛ましくて、でも、何も言ってやれなくて。縋るような思いで彼女を求めた。不器用な俺は、自分の中に小さく渦巻いた不安を消し去ることにしか頭になかった。隙間を埋めるような行為は、彼女を傷つけるだけだとも気がつかないままで。

結局、虚勢をはって傷付いている彼女をさらに傷つけた。

次の日から彼女は少しずつ変わっていった。もちろん、それは今振り返れば、だが、当時はそんな変化に気がつくほど大人ではなかった。この頃には、彼女の中で全てが決まっていたのかもしれない。今の関係がこれからもずっと続くと、安穏と考えていた当時の俺とは違って。

それから数ヶ月は、進学のため忙殺される日々を送っていた。気がつけば朝日を学校で拝むなどは日常茶飯事で、人間として最低限の身繕いと栄養補給以外は全てを実験に注ぎ込んでいた。彼女が受験生だからという言い訳を盾に、全く彼女に連絡をしない日々が続いていき、気がつけば3月に入るまで彼女に会わないままだった。

3月、彼女の大学合格が決まったと連絡があった。
こちらも春休み少し余裕が出来たため、一緒にお花見に行くことができた。近くの公園だけど、彼女はとても嬉しそうにはしゃいでいた。
こんなに嬉しそうな彼女を見るのは久しぶりで、つられて弾んだ気持ちになっていた。

咲き誇る桜を見上げ彼女は呟く。

「来年も一緒に桜を見ようね」

にっこりと微笑んだ。
綺麗だ、と思った。
桜吹雪の中、少しだけ鬱陶しそうに前髪を押さえる彼女の姿がくっきりと浮かび上がる。
こんなに綺麗なものをどうして今まで見逃してきたのかと、少し後悔した。
酔ったように彼女を見つめ、曖昧に笑い返す。

それが俺が見た彼女の最後の姿。

4月に入り、多忙を極めていた俺はあいかわらず彼女への連絡を怠っていた。
気が付いたら大型連休が差し迫っていた。
慌てて彼女にメールを送る。
すぐに宛先不明で返って来た。
ケータイに連絡をいれる。
別の人間がでた。
家の電話に連絡を入れる
現在使われておりません、というアナウンスがむなしく響いた。

ここにきて、彼女と全く連絡がとれなくなっていることに気がついた。
まだ実験中だというのに、転がるようにして部屋をでて、彼女の家へ向かう。
大学からは自転車で20分ぐらいだ。

大慌てで彼女の住むマンションにたどり着く。

そこにはもう別の家族が住んでいた。
話を聞くと、4月の転勤でこちらに越して来た人たちらしい。

彼女がこの街からいなくなった。


すべての連絡手段が失われた。しかも俺は、彼女の進学先すら聞いていなかった。
最後の望みを託し、出身高校に問い合わせるも、プライバシーの関係で答えてもらえることができなかった。

彼女との接点すら失っていた。


ウソダロ?


その日はどうやって研究室に戻ったのか、何をやっていたのかまるで覚えていない。

そこから先の俺は、何かに取り付かれたように実験ばかりを繰り返す日々を送った。
そのせいか、順調に結果を出すことができ、他大学の先生方にも名前を知ってもらえるようになっていった。 ただ、順調な研究成果とは反比例して、心はどんどんアンバランスさを増していった。 不安定な心を落ち着かせるために、実験をし、研究をした。
そうしないと、思い出してしまう。彼女の泣き顔、笑顔。いつも彼女の声がリフレインする。
周りを見る余裕など全くなくしていた。

当時、同級生たちのさりげない気遣いや優しさがなかったら、卒業する間もなく精神的な疲弊で倒れていただろう。
こんなに至らない俺なのに、友人には恵まれていたらしい。


あれから3年。いまだ忘れることができない。
彼女のことを思えば、後悔ばかり。あれから進むことも戻ることもできない。
その場でたちつくし、未だにもがいている。
息苦しくて、元に戻りたくて。

せめて彼女に謝りたくて。

全ての機会を失ったまま抜け殻のような自分だけが、ただ毎日を送っている。


謝りたいんじゃない。


そう、ただ伝えたい。


今も愛している。


またいつか彼女に逢えたなら。

5.20.2004
修正:3.25.2007
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