僕の姉はよく失踪する。
口に出すととても物騒なその二文字は、僕が物心がついたころには当たり前の現象として、我が家で受け入れられていた。
今思えば、両親は居場所を知っていたのだろうけれど、それでも年頃の娘が数ヶ月単位でいなくなる、ということをあっさり認める方がどうかしていると思う。
「行ってくる」
という言葉だけを残して気が付けば季節が変わっていて、南国の妙な呪いの人形をを片手に、ちゃっかり何事も無かったかのように我が家で晩御飯を食べていたり。
「おもしろそうだよなぁ」
という、よくわからない呟きをきっかけに、北海道のペンションで夏中働いてみたり、そう思ったら、「寒いのは嫌いだ」といいながら、インドあたりでガンジス川を眺めながらチャイを飲んでいたりした、らしい。もちろん、姉の奇行の全てを把握しているわけじゃないし、あの人が細やかに話してくれるわけじゃなし、断片的な会話やあやしいお土産から推定したものばかりだけど。
別に姉がいなくて困ることなどどこにもないのだから、彼女がどこへ行こうと自由なのだけれど、ただ女性に対する閾値が異様に低い、ということだけがあの人の与えた影響なのかもしれない。
だって、何時間待たされようが、気まぐれに約束をキャンセルされようが、日本にいるんならいいじゃないか、って思えてしまうのだから、自分は無駄に色々なことを我慢してしまう性質と言われている。そのことに気が付いたのは、あまりに僕が振り回されているのを見かねた友人からの指摘で、実のところいまだによく実感はしていない。
そもそも、こんな自由人で放浪癖のある人間を両親が許容しているのは、母方の血が、この特徴を色濃くつないでいるせいであり、どういうわけだかその性格はその血統の中の女性にのみ端緒に現れるている、今のところは。
姉以外の例でいうと、そのプチ版が母親。唐突に土筆が食べたくなり、より最上のものを目指して歩きつづけ、気が付けば夜。といった間抜な事を繰り返す。幸いなのは母親の場合、歩いていける範囲内で収まっている、ということだ。それがとてつもなく離れている場合もなきにしはあらずだけれど、とりあえずパスポートが必要な状況には出くわしていない。
ついでに、母の姉、つまり伯母は姉さんをスケールアップさせたような人で、おまけに無駄に財力だけはある旦那を篭絡したものだから始末が悪い。ふいに書置きだけで地球の反対側に行ってしまうことなど日常茶飯事で、それを見てかわいいなあ、などと素っ頓狂な感想を抱ける伯父さんと一緒にいる限り、あの人のマイレージは溜まる一方だろう。
祖母の話では曾祖母もその傾向が強かったらしく、もうその癖は治らないものと、半ば僕自身は諦めている。
どうして僕自身が、自分ではどうしようもない血族の悪癖をつらつら上げているのかといえば、目の前に見慣れない小さな生き物がうごめいているせいだ。
「なにこれ?」
「子ども」
「……一応見ればわかる」
小さくって首がまだよく座ってなくて、しきりに手を握ったり開いたりしている生物が、人間の子どもであることぐらい僕だって理解できる。いやいっそ、それが犬だったり猫だったり、いやパンダの子どもだったりすれば僕の反応ももっと素直なものになったかもしれないけれど、これはちゃんとおそらく人間の子どもだ。
「誰の子?」
聞きたくて聞きたくなくて、だけれどもものすごく聞かなくちゃいけない質問をようやく口にする。
「私」
そんな僕の躊躇など一欠けらも無視して、あっさりと姉が白状する。それがどうしたと言わんばかりの態度に、3ヶ月ほど所在がつかめなくて、帰ってきたら身二つになっていたことが、それほど不条理ではないのかもしれない、と、うっかり思い始めてしまう。
「いやいやいやいやいや、私のって、あんた」
「んーー、おじちゃんですよーーー」
手慣れた様子で赤ん坊を抱っこして、僕の方へ近づける。
まだふにゃふにゃしてて、それでもしっかり爪まであって、赤ちゃんってすごい、っていう思いで、肝心な事を忘れそうになる。
「誰の子?」
「私」
「誰との子?」
わかっているのかいないのか、質問をはぐらかそうとする姉は、にやっと笑う。
「処女生殖?」
「うちは仏教徒」
「じゃ、卵生?」
「卵にもオスは必要だし」
「まあ、私の子であることは確かなんだし、いいじゃん、それぐらい」
いやいや、それでは困るというか、困らないというか。
あっさりと姉と子どもを受け入れ、ベビーベッドを買いに走ろうとした両親をなだめ、それでも消耗品は必要だからといそいそと消えていったせいで、今この部屋には僕と姉と、その子ども。だけで済んでくれればある意味話は簡単だったのかもしれない。
「っていうか、後ろの人じゃないの?父親」
しおしおに萎れて、ぺしゃんこになりそうな成人男性を指差す。
あまりにも存在感がなくって忘れ去りそうになったけれども、彼はずっとこの部屋で赤ちゃんを抱っこしようとせわしなく動き回っては、姉に足蹴にされていた。
「違う」
「そんな、ひどい。だって僕しかいないじゃないか」
「そんなことないし」
「嘘だ」
「ふっふーん、男にとっては自分の子かどうかなんて永遠の謎なのよ」
「どこからどうみても僕の子だと思うんだけど」
気弱そうに指した先にいる赤ん坊は、確かに彼に似ている。赤ちゃんの顔なんて、コロコロ変わる、と姉さんは主張しているけれど、これはよく知らない僕がみても他人の空似では済まされないだろう。
「っていうか、別に結婚とかしてないんだから関係ないじゃん」
「だから、ずっとずっとずっと結婚してくださいって言ってるじゃないですか」
「んーー、それって面倒だし」
「こんなに愛してるって言ってるのにどうして信じてくれないんですか」
身内の恋愛話、というのはできれば聞きたくないものだ。しかもこんな生々しい話は。馬鹿らしくも、あほらしい痴話喧嘩にうんざりする。
「信じるもなにも、あんたと結婚したらうざいのがおまけについてくるし」
ぐっと言葉に詰まった男性は、うじうじしながらもまた萎れている。
「姉さん、いくらなんでもうざいは言い過ぎじゃ」
「え?だったら鬱陶しい?どっちみちかわんないし」
「いや、一応その人のご両親なんでしょ?その…人」
さすがに僕までうざいという事はできずに言葉を濁す。
姉さんが一方的に語り尽くしたところによると、それなりに普通の手順を踏んだお付き合いをしていたらしい二人は、年頃も年頃だし、ということで二人揃って相手の親に挨拶にいった、らしい。
その形式的である意味常識的な行動に、姉にもそんな回路が組み込まれていた事に驚いたけれども、そんなことはどうでもいいことで、そのときその場所で、姉さんは声を嗄らさんばかりに罵倒されたそうなのだ。それがどんな言葉なのかは、姉からの伝聞だからなんとも言えないけれど、言葉どおりだとすれば、事なかれ主義の僕でも切れる。特に両親に絡んだ罵詈雑言などは聞くに堪えないといってもいいかもしれない。
「おまけにこいつってなーーーーーーーーーーーーんもかばってくれないし」
「だって、僕が口を挟む前に言い返してたじゃないですか、百倍にして」
「あらそう?年寄り相手だから加減してさしあげたんだけど?」
ゆっくりじっくりおこっている姉さんは、その時のことを思い出したのか、青筋がたっている。
「ごめんなさいごめんなさい、もう二度と会わなくてもいいから」
「そういうわけにはいかないんじゃない?」
「だったら、最小限の接触に留めますから」
「あんたにできんの?それ?」
「やります、やります。ぜひやらせてください」
土下座せんばかりのその人に、「あら?この頭は踏んでもいいってことかしら?やっぱり」という非常な言葉を吐き出しつつ、許すつもりは毛頭ないらしい。
とりあえず、こんなことにかかわりあっている場合ではない僕としては、できるだけ穏便に平和にこの場を納めたい。
「姉さん、子どもがいたら、放浪できないよ?いいの?」
自分の発作を思い出したのか、姉さんがハタと考える。できれば子どもを作る前に考えて欲しいが、この人に、いや、この血族に何を言っても無駄だ。本当の消息不明者がごろごろいるような連中の常識に期待をする方が間違っているのだ。
「……母さんたちがいるし」
「母さんも日中は危ないよ?この前もなぜだか隣町の山奥で迷子になってたし」
放浪癖と帰巣本能は必ずしも一致せず、だからこそ僕はいつのまにかデパートの迷子カウンターで母親を呼び出す術を見につけたのだけれども。
「父さんはまだ働いているし、僕だってまだ学生だしね」
首を傾げながら考えたらしい姉はゆっくりと後ろを振り返る。
僕と姉、二人に見つめられ、さらにしょぼくれる男の人は、どこからどうみても姉の尻にしかれるのに相応しいといえる。
「まいっか、結婚すれば」
「そうそうそう、そうすればその人が面倒みてくれるよ。でも、幼稚園入るぐらいまではなんとか発作も抑えてね」
「うん、がんばる」
己の未来を想像したのか、小さく小さくなった名前も知らない男はひきつった笑いを浮かべている。
大量に買い込んだオムツだのお尻拭きだのを抱え込みながら、浮かれきった両親が帰ってきたのをきっかけに、なんとなく何もなかったかのような雰囲気となる。
とりあえずすき焼きを囲みながら、数ヶ月ぶりに帰ってきた姉と、正体不明の男の出現は、姉夫婦の里帰り、といったとてもとても一般的なイベントへと還元された。
だから僕は、また女の子に甘くなる。
この姉がいるかぎり、僕の一般女性に対する点数は甘くなる一方だ。
はやいところ距離をおかなくてはいけない。
そうは思いつつ、この人を見ているだけは楽しいので、なかなか踏み切れないでいる。
父親と同じ苦労をするハメになる、名無しの男に同情しながら、ビールを煽る。
だけど僕は姉が嫌いじゃない。
そんな僕はけっこうかわいそうでしあわせものなのかもしれない。
続編→02.追いかけるのはいつも