「たばこ臭い…」
「開口一番はそれかい!」
ぼんやりとした意識の中、蛍光灯の灯りのせいで細めた目をさらに細める。覚えのあるような内装は会社の人間とよく利用する居酒屋であり、輪郭のはっきりしない人物は先ほどまで酒を酌み交わしていた相手に相違ない。さらに詳しく言えば、入社して以来ずっとつかず離れずの距離を保ってきた同期の男、仁科に間違い無い。
まだ酒の残る頭を無理やりたたき起こし、末田佐知は現状認識にとりかかる。
ふと残る煙草の残り香に、先ほど口にした自分の言葉を思い出す。
「……あんた何かした?」
「……寝ぼけてんのか?」
一拍の間はあったものの、これはいつもの彼の反応に違いなく、佐知自身の記憶が混乱していたせいなのだろうと、無理やり自分を納得させる。
「ごめん、なんか寝ていたみたい」
「そうみたいだな」
見る間に不機嫌になっていく彼をよそに、徐々に意識が鮮明になった彼女は、あえて残り香について思考をさくことを中断していた。
あれは、酒がみせた幻影なのだろうと。
「つーか、その反応はマジか?演技か?」
「んーーー、なんか遅いみたいだし帰るね」
わざとらしく明後日の方向へと会話をもっていきながら、いつのまにか個室には仁科と自分二人しかいないことを確認する。同期の連中は酔っ払った佐知を捨ててどこかへと行ってしまったらしい。取り残された佐知と仁科の前には綺麗に飲み干されたジョッキとお銚子の山が築かれており、あまり飲まない残りの面子を考えれば、そのほとんどを目の前の男と二分していたことには間違いないのだろう。
柄にもなく酒量が進んだことを恥じ、バッグの中から財布を取り出す。
「いくら?なんか結構飲んじゃったみたいだね」
「ああ、結構飲んじゃったみたいだな」
清算を済ませ、ふらつく足を無理やり真っ直ぐさせながら二人して店の外へ出る。すっかり秋風となった冷たい風に思わず首を竦ませる。
「で?どうするよ」
「どうするって帰るけど?」
「………まじで?」
「そんなことで嘘ついてどうするわけ?」
「ちゅーか、おまえ本当に覚えていないの?」
ぼんやりとした記憶が瞬間思い出されたような気がして、佐知は赤面することを必死で抑える。いや、すでにアルコールによって顔色は赤いとも青いともいえないものになっているのだから、そんな必要もないのだろうけれど。
「覚えている、よな?」
「んー?」
できうることならこのまま惚けつづけていたい、という佐知の思いを察知し、仁科が煙草をわざとらしく取り出す。携帯灰皿を取り出し、どこにでもある100円ライターで火をつける。そのゆっくりと燻らされた煙の香りに確かに自分は記憶がある。仁科の方はゆっくりと佐知との距離を縮めていき、いつのまにか二人の距離は、知らない人間が見れば恋人同士に間違えるであろう程の距離にまで達していた。
「で?覚えてないって?」
「えーーー、ははは」
笑って誤魔化せる年齢でもないことは自分自身が痛いほど承知してはいるけれど、それでも今の佐知にはそれ以外にとる態度が思いつかないでいる。
「もっぺんやったろか?」
「それはダメ」
「って、やっぱり覚えてんじゃねーか!」
あっさりとひっかかった佐知は引き攣った笑いを浮かべながら歩き出す。慌てて仁科もその後を追いかける。
「あのな、おまえそれって失礼だぞ?」
「そ、そうかな?ほら、だって仁科は同僚だし、同僚」
「別に社内恋愛禁止ってわけじゃないぜ?うちの会社」
「恋愛って、ははは。いやーー、同僚じゃん」
「往生際が悪い」
仁科に左手をつかまれて佐知の歩みが止まる。アルコールのせいだけではないだろう体温の高さに、今さらながらに現実に自分の身におこったことを自覚する。
「あのさ、俺」
「あの子が好きなんでしょ?ほら、なんて言ったっけ?なんとかちゃん」
「それを言うならおまえだってなんとかちゃんだろうが!ってお前もしかして入社当時の事を言ってるんじゃないだろうな?」
「もしかしなくてもそうだけど」
「そりゃあ確かにあの時は受付のねーちゃんがかわいいって言った記憶もあるけど」
「それに、胸がなくって童顔で色気がないのはどうしようもねーな、って言ってたじゃない」
「……なんか、俺ってすっげーひどいこと言ってないか?ひょっとして」
「ひょっとしなくても言ってるんですけど」
思わず力強く頷きながら佐知は出会ってから今までの数々の暴言を披露する。語っているうちに止まらなくなったのか、あまりにたくさんありすぎて止まらないのか、聞いている仁科の方はほんのり上気していた顔が徐々に青くなっていく。
「…で、チビでかわいげがなくって」
「ごめん、もう勘弁してください」
「もう?こんなものじゃないんだけど」
「俺が悪かった、ほんっとーーーーーに俺が全面的に悪かったから、これぐらいで許してください」
「これからもその暴言に一対一で耐えろってこと?」
「いや、もう二度と言いません、言いませんから」
ギリギリとつかまれた腕の力だけが強くなっていき、佐知は思わず顔を顰める。
「ごめん、っと、あの、本当にごめん」
「それは何に対してのごめん?」
「バカな俺に対して、って、ほんとうにごめん。いくらおまえの事が好きだからって俺言い過ぎだよな」
「言い過ぎっていうか、って、あれ?好き?」
「……おまえはそこを問うのか?そこを!」
「えーーーっと、好き?」
再び赤くなった顔を少し外へ向けて、佐知からの視線を逸らす。今まで強気一辺倒だった仁科の意外な一面に思わず佐知の方から近づいてまじまじと表情を窺ってしまう。
「いくら俺がばかだからってあんなこと普通しないだろ?」
「新たなイヤガラセの一貫かと思った」
「俺はどこぞの小学生か!」
「似たようなもん?」
油断したように無防備に仁科の顔を見上げた彼女に、再び覚えの有る香りが近づいては消えた。
「何すんの!!!」
「何って、おまえ、いいかげん気がつけ」
「気がつくって何を」
「俺、おまえの事好きなんだけど」
改めてストレートに問われた仁科の投げかけに、絶句したまま立ち竦む。
「まあ、返事は一晩かけてゆっくりと聞くから」
そのままあっさりと握られた左手は力強く引きずられていき、平均値より低い身長しかもっていない佐知はなぜだか小走りで後をついていく格好となる。
「いや、今返事するから」
「やだ、だって同僚って答えしかかえってこないだろ?」
ニヤリとした同僚の顔に、いままでさんざんからかわれた今までの思い出が蘇る。
秋の夜長、煙草の匂いと豹変した同僚には要注意。
月だけが見守る中、二人の姿は明るい外灯の海へと消えて行った。