彼女の名前

 割と平凡な名前をしている私は、矛盾する事に一度目で正しく読んでもらえた覚えがほとんどない。
それは「京子」と書いて「みやこ」と読ませるせいだけれど、小学生の頃から嫌と言うほど訂正してきた私としては、この年になればいいかげん好きに呼んでくれ、と、開き直る心の余裕がでてきてしまった。それを世間では擦れると言うのかもしれないが。
だから、大学で新しく知り合った人間は、大抵の人間が最初に読む「きょうこ」という呼び名で私を呼ぶ。
呼び方が換わっただけで、自分以外の誰かになった気分に浸れて少しだけお得な気分が味わえたせいでもある。
ただ、相変わらず苗字の方は「川井」という読みはポピュラーにもかかわらず変換では一番最初にでてこないマイナーな漢字のせいで、三本川の川に井戸の井です、という説明を加えなくてはいけないけれど。

「みや」

久しぶりに本名で呼ばれて振り返ると、高校の同級生が手を振っていた。
懐かしくて思わず駆け足で近寄る。
同じ大学に進学したとはいえ学部が違えば、意識しない限りほとんど会えなかったのだ。だから、キャンパス内に存在する事は知ってはいたものの、入学から半年も経って、彼と会うのは2度目である。
たわいも無い話を交わして、ついでに携帯番号の交換なども済ませる。
半年しかたっていないのに、彼と話す高校時代の出来事はすでに遥か昔のように思えてしまう。
などと、センチメンタルな気分に浸っていると、クラスメートの男の子がこちらをじっと睨んでいるのに気がついた。
自分の勘違いではないのかと、曖昧な笑顔を送ってみせても、彼は頑として私から視線を外そうとはしない。
そんな風に射るような視線をぶつけられるいわれはないのだけど、と思いつつ、面倒なので迂回してみる。
じりじりと彼から距離を取りつつも、次の授業を受ける教室へと向う。
当然同じクラスなのだから、彼も似たような授業を受けるはずで、確か次の英語は私と同じ教室だったな、などと、嫌な記憶を引っ張りだしてしまった。
しかも、カワイのカとキクチのキは出席番号順に着席する次の授業では前後となる。あんな視線でずっと睨まれたらいくら私の神経が図太くてもやってられないなぁ、と、ため息をつく。

「おい」

いつのまにか歩みが遅くなっていたのか、気配も感じさせず私の隣に並んだ彼から声がかかる。
仕方がないのでとりあえず笑顔を浮かべつつ返事をしてみる。

「なに?」
「さっきの男」
「同じ高校の子だけど?」

これが噂話が大好きで、ないことないこと掘り出しては些細な出来事も大袈裟にほらを吹いて回る困ったクラスメートであれば、まあ、彼女に取ってみれば、男っ気がまるでない私が親しそうに話す相手が誰だと、根掘り葉掘り聞き出そうとするだろうけれど、そういったものからは縁遠く、対極にあるような彼がそんなことを疑問に思うなんて珍しいと、彼の顔を凝視してしまう。
自分は睨みつけてきたくせに、私がまじまじと見返すのは嫌なのか露骨に視線を避ける。
立ち止まった彼を置いて、とっとと歩き出す。
うじうじしているのもわけのわからないのもどちらもごめんだ。

「待てよ」
「同じ授業でしょ、どうせ行き着き先は同じじゃない」

少々イラつきながら答えると、彼は数歩駆け足をしたのみで私の隣に再び並ぶ。
彼の足元をみながら、リーチの差を実感しながら、仕方がないのでコンパスが短い私は回転数を速くしてみる。

「あのな」
「なに」

繰り返される不毛な会話にうんざりしてしまう。
出席番号のおかげで、彼とは色々なグループが重なる事が多いけれど、個人的なことを話した記憶は残念ながらない。だから、私が知人と話していたことを見ていたぐらいで、こんなにつっかかってくるのか理由がわからない。
もともと駆け引きだとか言外に匂わせるだとか、そういった繊細なやりとりが苦手な私は、理由がわからないものは理不尽なのだと、短絡的に決め付けている。一度理不尽だと思ってしまえば、そんな状況においた元凶であるところの彼には良い感情を抱けるはずもなく、ただイライラと一向にたどり着かない教室を目指して歩き続ける。

「みやって、何?」
「何って名前だけど」
「や、だって川井さんの名前はきょうこでしょ?」

またか、と本格的にうんざりしてしまう。
たかだかそれを聞きたいがために、これほどうっとうしくも時間を掛けたのか、という思いと、およそ18年間訂正しつづけてきた鬱屈が重なる。

「あの字を書いてみやこって読ませるのよ、だからみや。わかった?」
「だって、皆きょうこって呼んでる」
「訂正するのが面倒くさかっただけ、だれも確認もしなかったし」

きょうこって読むの?とでも聞かれれば、当然違うと答えるだろうけれど、当たり前のようにそう呼ばれてしまえば、一々訂正をいれるのは面倒くさかったのだ。まあ、どうでも良かったと言えばそれまでだけれど、思春期の頃のように違います、と瞬時に反応するだけのエネルギーがなくなっていたのかもしれない。それほど親しくしている人間がいない、というのも理由の一つかもしれないけれど。

「それに、あいつはどうして下の名前を?」

どうでもいいことにどうしてここまで拘るのかと、足を止めて彼の顔をまじまじと見つめる。
こちらが堂々と視線を合わせると、相変わらず視線を合わせないように、それでもチラチラとたまに向けてはなぜだか赤い顔をして俯いている。

「同じクラスにカワイさんが3人もいたのよ、漢字は違うけど、だから、それぞれ下の名前で呼んで区別つけていただけ。とりたてて親しくしていたわけじゃない」

繁多な苗字だとはいえ、どうしてだか3人も集まった河合さんと川合さんと川井は当然音だけでは区別がつかない。唯一男である河合さんだけは、君付けをすることで特定は出来たけれども、同じ三本川の川合さんと私だけはどうしても聞き分けられない、だからただ単に名前で呼ばれていただけだ。そこにそれ以上の意味を見出す事はできない。

「そっか…。三人ね」
「そう、珍しいっちゃ珍しいわよね。出席とるのもフルネームじゃないとだめだから面倒くさかっただろうけどね」

カリカリしていた雰囲気がやわらいだ彼と、うっかりと普通の会話を交わしてしまっている。私としても、それにつられて僅かながらの憤りがどこかへ霧散している。

「あの、さ」
「ん?」

言い淀んだ彼が、再び頬を朱に染める。
なんだその、乙女チックな反応は?と、突込みをいれながら、珍獣でも見るような面持ちで彼の次の言葉を待つ。

「名前で呼んでいいか?」
「はぁ?」
「や、嫌ならいいが」

わけもわからずうっかりと嫌な顔をしてしまったけれど、彼はと言えば、柔道で鍛えたらしいごつい肩をへこませてしょぼんとしている。
瞬時に彼に言われたことがわからなくて、ようやくその意味が脳内の届いた頃には、なんだそんなことか、と、呆れた顔をしていたと思う。
彼は大きな身体をますます小さくさせながら叱られた子供のような風情で立ち竦んでいる。
これではまるで、私がいじめたみたいではないかと、できるだけ優しい口調で話し掛けてみる。

「別に、どうってことないっていうか、呼びたければどうぞ」

まるで野良猫に対する呼びかけのように、できるだけ脅かさないようにと心がける。見かけはこんなのでも、彼はとても繊細にできているようだから。

「みやこ」

嬉しそうに私の名前を呼ぶ彼が、本当に綺麗に笑うので、うっかり見惚れてしまった。
私の視線をはじめてまともに受け、照れたような笑みを浮かべる。
今度はこっちが赤面してしまう。
どうしてたかだか名前を呼んだだけで、この人はこんなにも嬉しそうにしているのだろう。
わけがわからなくて、でも何かが始まりそうで、とりあえず無言で歩き出す。
そういえば授業が始まりそうだと、慌てて現実世界へと思考のチャンネルを合わせる。
行き先が同じなのだから当然だけれども、先ほどまでより近い距離で彼が私にくっついてくる。
本名を呼ばれたことで、心理的距離が近くなってしまったのかもしれない。それにともなって物理的距離も縮まる、なんてこともあるのかもしれない。
よくわからないけれど、深く考えないようにしよう、と呪文のように繰り返す。

彼はずっと嬉しそうで、後ろから妙な視線を感じる一時間は羽でコソコソとくすぐられるようなむず痒さを感じるものだった。



今日もまた彼は嬉しそうに私の名前を呼ぶ。
あの時よりもずっと近い距離で彼の側にいる私の隣で。

9.15.2006
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