わずかな混乱とためいき

考えないようにすればするほど、私は私の弱さを知る

 まだ夜が開けきらないベッドの中、声をあげないように飛び起きる。
シングルベッドの隣には、気持ち良さそうに毛布を抱きしめながら寝る男がベッドの上に横たわっており、ピクリともしない寝相に、聞こえないように深呼吸を繰り返す。
また、だ。
私はこいつと暮らすようになって、どれだけの回数同じような夢をみれば気が済むのか。
八つ当たり的にくやしくて、だけれども、どこにも当たれない私は、そろそろとベッドから降り、キッチンへと向かう。
起きるには中途半端に早く、もう一度寝るには当然中途半端な時間で、仕方がないので、コーヒーメーカーにフィルターと粉をセットしたのち、新聞受けへとむかう。
ネットでの情報収集もいいけれど、やはり旧世代の私にとって、文字情報はありがたい。
経済新聞と普通の新聞の二つを小脇に抱え、じんわりといい香りが漂ってきたキッチンへと戻る。
外は雨だったのか、薄いビニルに包まれたそれらを破り、何ものっていないダイニングテーブルへと広げる。腕組みしながら、ひじを突きながら、思い思いの格好で、文字を適当に拾い読みしていく。
コーヒーメーカーが作業を終えた音をたて、ゆっくりとサーバーからコーヒーを注ぐ。
大きめのマグカップにたっぷりと入ったそれに口付け、体の中に熱い液体が入っていくことを感じ取る。
いつもよりゆっくり目に読み終えた頃には、すでに常の起床時刻は過ぎており、あわてて朝食の準備をする。と、言っても、食べるのはもっぱら私で、彼の方はせいぜい野菜ジュースとコーヒーぐらいだ。
自分用にパンを軽くトーストし、ヨーグルトにジャムを落とす。
そんな程度で私自身の準備も終了し、その頃にのっそりと彼の方が起きはじめる。
彼の方が私よりも家を出なくてはいけない時間が三十分以上も遅いのだから、この時間差はいたしかたがない。その代わりに、私の方がここから近い位置に出勤場所があり、なおかつ帰宅する時間も彼よりも早い。

「おはよー」
「おはよう」

読み終えた新聞を畳みなおし、彼の方へ差し出す。
サーバーのコーヒーを彼のカップへ注ぎ、冷蔵庫から野菜ジュースを取り出す。
シンクの前で、使用した食器を片付け、私は身支度をはじめる。
歯を磨いて、顔を洗って、化粧をして、髪を整える。
学生以来ずっと短くしてきた髪と、その素直な髪質のおかげか、私の朝の支度時間は驚くほど早い。

「じゃあ、行って来る」
「いってらー」

まだ寝ぼけているのか、キッチンの方から彼のぼんやりした声が聞こえる。
こうして、私の一日が始まる。
いつもと同じ、いつものように。
ただ少し、いつもより不安がよぎるだけ。



 友人からのメールに魂が抜けそうになったのはその日の夜のことで、小さな失敗と、ひそかに何の面白みもない女と、陰口をうっかり耳に入れてしまったことも、すっかり忘れ去ってしまえるほどの衝撃を与えてくれた。
あの、友人が、失恋をした。
一昔前のロボットのようにぎこちなく、音声を区切りながらそのメールを思わず音読する。
いやいやいや、そんなはずはない。
だけれども、何度繰り返し文面を読んでみても、彼女が見知らぬ誰かに失恋をしたと記してある。
これが、もう一人の別の友人からもらったものならば納得をする。
ただし、恋多き女である彼女が、たかが失恋一度程度で私にメールを送ってくるはずはない。
もう一人のさらに別の友人でもショックを受けただろうけれど、それはそれ、これはこれ、と、また別の種類の衝撃であることには違いはない。
あの子が、失恋?
おおよそそういったことには疎くて、どちらかというとなんとなく距離を置いていた彼女が、こんな風に切羽詰った感じの文章を書くほどの恋愛をしていただなんて。
失礼だけれども、正直うらやましく、ちょっとだけねたましいとも思えてしまった。
私は、そんな気持ちになったのはいつだっただろう、と。
パソコン画面の時刻をチェックして、あわてて冷蔵庫の扉を開ける。
彼が帰ってくるまでに、一通りの家事をこなさないといけない。
そんなことを考えて、ふと、扉を静かに閉めなおす。
どうして、私だけがこんな風にきりきり働かなくてはいけないのか。
自分ひとりだったら、体にいいとはいえないけれど、ファストフードでもデリバリーでも、納豆とごはんでもなんでもいい。
どちらかというと食べることに興味がある方じゃない私が、一汁三菜、とまではいかなくとも、メインともう一品ぐらいを栄養と彩りよく作る、ということにはストレスを感じてしまう。
それを当たり前のようにあっという間に平らげてしまう彼を想像し、私の神経を少し刺激する。
やめたやめた、と、つぶやきながら、エプロンをはずす。
リビングのソファに座り込み、テレビをつける。
こうやってゆっくりとテレビを見るのも久し振りだと、そんな風にぼんやりと考える。
別に、見たい番組があるわけじゃない。
ただ、そういう無駄な時間がなかったことに軽く驚いてしまっただけだ。
いつのまにか寝入った私に、彼の帰宅を告げる声が届く。
働かない頭をふりながら、おざなりに返事をする。
ひょっこりとこちらを覗き込んだ彼は、不思議そうな顔をして私に尋ねてくる。

「あれ?調子悪い?」
「ううん、別に。調子悪いわけじゃないけど。なんで?」
「いや、晩飯がないからさ、熱でも出たのかと思って」

夕食がないことと私の体調を即座に結びつけ、それをなんのてらいもなく発するかれに、もう一度私の神経が刺激される。

「調子悪くないとごはん作るの休んじゃだめなの?」
「や、だって」
「適当に自分で作ればいいでしょ?もともと自炊してたんだし」
「でも」
「でも、なに?私はいつでもあなたのためにご飯を用意して待ってなきゃだめなの?」
「そういうことを言ってるわけじゃないけど」
「じゃあ、なに?」
「どうしたの?やっぱり調子悪い?」
「違う!」

思いのほかいらだった声をあげた自分に驚く。
こういう風に、彼にマイナスの感情をぶつけたことはなく、私はいらいらした気持ちをもてあます反面、どこか不安がっていた。
私と彼は一緒に暮らしてはいるけれど、入籍、というものをしているわけではない。
所謂事実婚、というやつだ。
同棲でもなく、法律婚でもなく、事実婚を選んだのは、私自身、現在の結婚制度に疑問を抱いているからだ。
いや、法律上、男女は平等で、婚姻は両性の合意のみでなされる、と記されてはいるけれど、この入籍という漢字ひとつとっても、旧体制の匂いを感じ取らざるを得ない。現に、私の両親、彼の両親はおろか、目の前の現代に生きるはずの彼ですら、入籍というのは彼の家の戸籍に私が入るものだと勘違いしていたのだ。
公民の授業中ずっとこの男は寝ていたに違いない。
だが、そういう認識は別に少数派でもなく、依然として根強くしぶとく生き残っている。
女性に対してのみ、無言の圧力で改姓を強いるのも、このあたりの傾向から来ているのだろう。
彼は当然のように、婚姻届にサインをして、彼の方の姓を名乗る、に、ためらいなく、チェックを入れるだろう。
恐らく、私になんの断りもなく。

「んーー、じゃあ、うどんでも作るけど、食べる?」
「……いらない」
「でも、おなか空くよ?」
「適当にするから、いい」
「一緒に食べないの?」
「食べない」
「えーーーー、でも、さみしいよ」

素直で、だけれども脱力をするような甘えた声で、彼が言い募る。
結局、私はこの人の鈍感でおおらかなところに、助けられているのかもしれない。
どんぶりに入れられたうどんと、申し訳程度に乗っているねぎと卵を眺めながら、案の定彼の口車に乗せられて差し向かいにテーブルに座ってしまう。
彼は嬉しそうに手を合わせ、ずるずるとうどんを食べ始める。
私もとりあえず箸をつけ、思った以上におなかが空いていたことに気がつく。

「で、どうしたの?今日」
「別に」
「そういう風に言うときは、何かあるんだよなぁ、たいがい」

長い付き合いのせいか、私のことはお見通しだとばかりに、彼がこちらへ視線をよこす。
私はとりあえず卵と交じり合ったうどんの汁を睨み、聞こえなかったふりをする。

「俺ももっと家事を手伝えばいいんだけど」

手伝う、じゃないだろう、と心の中で悪態をつきながら、正直なところ、今のこの状態で彼のアシストが期待できるはずはない、ということを思い返す。
今、時計の針がさしている時間を見れば一目瞭然で、この時間から彼がご飯を作り、一緒に食べる、といったプロセスは、常識的ではない、ということはわかる。
時間が空いた方がそういったものはやればいい。
そんなことはわかりきっているのに、だけれども時々感情がおいついていかない。

「無理だってわかってるくせに」
「そうなんだよなぁ、結局そっちに割を食わせちゃうんだよなぁ」

私たちの経済状態は五分五分で、どちらも同じだけの金額を家計の口座に入金をする、という形で運営している。
だから、経済面では私たちは対等、ともいえる。
だけど、どうしてもその他のこまごまとした雑事には、時間的余裕のあるものにしわ寄せがくることは仕方がないことで、だけれども、これが立場が逆転したとしても、彼がのほほんと私の帰りをただ待っていそうで、その想像をしただけで軽く血管が切れそうになる。
想像で怒っていても仕方がない。
瞬時にしてヒートアップした気持ちを落ち着かせる。
彼が、家事をできない、ということは理解している。
彼が、私がやって当然、とふんぞり返っているわけではない、ということもわかってはいる。
だけど、私の中のイライラが消えてくれない。

「明日も仕事だぁ……、風呂入って寝るとしますか」

にっこりと笑って、ちゃっちゃと食器を片付ける後姿を眺める。
ああ、こうやって彼はいつも、私の怒りの落穂を拾っては片付けてくれたではないか、と。
急激に落ち着いた心は、半分だった不安を増幅させる。
私は、つまるところ、この男に捨てられることが怖いのだ、と。
朝見た夢を思い返す。
私よりずっと若くて、私よりずっとかわいくて、白いエプロンが似合って、猫なで声を出す女が、彼の隣に座っている。
彼はさらりと、だけれども残酷な笑顔で、私に「おれ、こいつと結婚するから」、などと告げる。
夢の中の私は、声がだせなくて、口をパクパクさせながら、場面は真っ暗闇へと反転していく。
私には、彼に対して何の権利もない。
紙切れ一枚の制度だと揶揄し、だけど、誰よりもその一枚に重きを置いている。
そんなものがなくとも、彼との信頼関係さえあればいい、と、言い切れるほどに本当の私は強くない。

「おやすみーーー」

能天気な顔に、結局私は癒される。
自分用の枕に頭を沈め、何も考えないようにしながら目を硬くつぶる。
明日は、彼の好きなものでも作ろう、と、濁りきった何かを底に沈める。
これで私は、また強いふりができるのだから。



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3.3.2009
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