9話

「やせたな」

誰のせいだ、と突っ込みたい気持ちを抑え、セリは苦笑を浮かべた。
確かに、この体調不良は彼のせいだけではない。
研究の進行具合を確かめにきた、という王子を無碍にはできずに、セリは手を止め茶を供した。
巷では昼食の時間となったにもかかわらず、セリの部屋にはそれらしきものはない。それを見越した王子は、軽食を携え、彼女の部屋へとやってきたのだ。
彼女は応接間などを持たない研究者だ。客は当然ただ机のある仕事部屋へ通される。
申し訳程度に置かれた背の低い客用机に、これもまた申し訳程度に貧相な一人用の椅子が相対して置かれている。一応革張りだが、色も落ち品質もそれなりな椅子に座る豪華な王子様、という図柄は、何度見ても見慣れるものではない。

「せっかくですが」

柔らかなパンに、何かが挟まれた軽食を差し出した王子に断りの言葉を述べる。
あれ以来、つまり王子が真面目にセリにとってはわけのわからない言葉を吐いて以来続く求婚の日々に、セリは疲れ切っていた。
どういうわけかあれ以来、彼女のなじみの友人たちが、ゼルやケルと同じような面持ちで同じような言葉を告げていったのだ。最後はさすがに発熱をすることはなかったが、彼らの様相に威圧され、セリはすっかり食欲をなくしてしまっていた。
あれを上手に交わす姉うえたちはやはり只者ではない。
さすがに、彼らの真剣な訴えを冗談や酔狂で片付けているわけではないが、俄かに信じられないという気持ちは消えない。そして、あんな言葉を浴びるほど聞かせられている上姉たちのあしらい方の素晴らしさに、再び彼女の屈折した心が刺激される。

「それ以上痩せてなんとする」

ほっそりとしたセリの手首を掴み、感触を確かめた王子は顔を顰めた。想像以上にセリの体が痩せてしまっていたからだ。

「そういう時期もあるので」

大丈夫です、とまでは言い切れない彼女は言葉を濁す。

「消化によい何かをもたせよう」
「大丈夫です」

頑なな彼女に、王子は肩をすくめる。こうなってしまっては言うことをきかせられるのは、長姉のアベリアしかいない。

「最近やけに訪問者がいるようだな」

口にしやすい甘味を勧めながら他の話題に切り替える。セリは一瞬だけ顔を顰め、大人しくそれを口にした。彼女が嚥下するのを見守りながら、王子はその話題を続ける。 誰のせいだ、という言葉を甘みとともに飲み込む。
周囲からは不敬だととられる態度をとっていたとしても、王子に八つ当たりできるほどセリは肝が据わってはいない。

「まあ、いい、予想はついている。それよりもは呪術の方はどうだ?」

言葉による術ということで王子に勧められた分野ではあるが、思いのほかセリの性にはあっていたようだ。基本的なものからこつこつと学んだ呪術を、今ではそれなりに使いこなせるようになっている。
彼女の資質はやはり言語が絡めば非常に高く発揮されるようだ。
難点は、全く使い道がないことぐらいだろうか。
だから、彼女は基本を習得した、と思ってはいても、それがきちんと発動されるかどうかを検分したことはない。

「ああ、ちょうどいい目標をもっていた」

セリの内心を見透かしたかのような王子の物言いに、思わず首をすくめる。

「仕事の邪魔になるからと、少し足止めをしてくれないかと泣きつかれてね」

粗末な椅子の上で優雅に足を組みかえる王子は、やはりどこに出しても恥ずかしくない王子様だ。見惚れそうになったセリは、だがローゼルの目標とした人物の名を聞いてさすがに驚いた。
顔には出さなかったけれど。

「あの」
「ああ、跡継ぎだな」
「でも」
「宰相とは知らない仲ではないのだろう?彼の頼みだと思って」

この国の宰相は、その名とは異なり、実質第一王子のお守役といっても過言ではない。どうして優秀な彼がそのようなもったいない使われ方をしているのかといえば、それはひとえにこの第一王子が無能な働き者だからである。
この国の王族は飾りである。
そんなことは子供ですら知っている。
形式上議会は王族を尊び、そして王族は実質の運営を議会に任せている。対外的な活動のみに絞られた王族は、それに十分満足し、華やかにこの国の歴史を彩っているのだ。
だが、第一王子はそれをよくは思っていなかった。
古の頃、名誉も実もとっていたご先祖さまを思い起こし、権利を我が手に、とばかな行動を繰り返している。
彼が非常に優秀ならば、それはそれでやっかいだったのだろう。
だが、第一王子は非常に、無能だった。
気まぐれに議会の邪魔をしては場を乱し、思いつきで行動しては人々を困らせる。
そんな第一王子の行動を封殺すべく、優秀な家の優秀な息子が宰相としてとりあげられ、第一王子にあてがわれた。
宰相は痩せた体を見る見る細らせ、今では見るも無残な状態となってしまった、とは、セリですら知る事実である。
セリにとっては甘いものをくれるやさしいおじさん、である彼がそんな目にあっているのは僅かにかわいそうだと思う気持ちもある。
だが、それをして第一王子を呪ってくれ、という第五王子の言い分が納得できるはずはない。

「別に死ぬわけじゃなし」
「ですが」
「笑えるようなものにしてくれればさ」

だが、研究成果の実行結果の検分、というものは研究者にとって抗いがたい魅力ある提案だ。
セリはいつのまにか頷き、そして王子は高らかに笑った。



 休み明け、ローゼルは軽快な足取りでセリの仕事場へとやってきた。
宰相の感謝の言葉とともに。
そして、セリは呪術師としての第一歩を踏み出すこととなった。
第一王子はめでたく、きまぐれに咳き込むようになり、心配した忠臣たちによって別荘地へと送られていった。彼らの目には嬉し涙が流れていたとかいないとか。それはセリのあずかり知らぬ話である。