01
「これ、正気?」
由香子は、プリントアウトされたメールの文面に目を通しながら吉井へと問い掛ける。
あまり穏当とは言えない由香子の発言にも、吉井は淡々と返していく。
「本気だが?」
「あ、そう、本気。本気なんだ、へーーー」
棒読みでわざと感情をのせない口調で揶揄する彼女は、それでも黙々と手は吉井の部屋を片付けている。
そもそも偶然からはじまった由香子の週一回のアルバイトは、一定期間の休止を経てそれでも現在に至っている。
その間、両者にとってみれば劇的な関係の変化がもたらされたものの、表面上は極平凡な、先生と学生、といった様相を呈している。
ただ、僅かでは有るが公の場で由香子が吉井のプライベートに触れることが多くなり、それを嫌がらずに踏み込ませたままにしている吉井の存在が確認されることも少なくはない。
そのような緩やかな変化の流れにおいて、由香子は珍しく吉井がプリントアウトをしたメールの文面が気になり、悪いと思いながらもそれを盗み見てしまった結果が、最初の暴言へとつながる。
「輝ける未来を考える若手研究者の会?」
「……口に出すな。頼むから」
「っていうか無理」
由香子が口にしたままのタイトルが印字されたA4の紙を、躊躇うことなく手にしながらつぶさにその文面をさらう。
恐らく同年代の研究者から送られてきたであろうその文章は、どこまでも砕けて、あげく顔文字まで配されており、大層なタイトルとはかけ離れたものとなっている。いや、どちらかといえば顔文字を使用するような友人がいる、という事の方が馬鹿馬鹿しくも怪しいタイトルよりも注目すべき点なのかもしれない。
「で、なんなわけ?」
「いや、ただの飲み会」
肩透かしをくらったような吉井の答えに、由香子はその紙を放りなげたくなった。
確かに、その文面は最後の最後まで眺めつづけても料理屋の名前と集合時間、幹事の連絡先、それとチェーンメールのように次々に回していったせいなのか、それぞれの発信人の近況報告が一行程度綴られていた。おそらく、吉井准教授もそこへ一行程度の当り障りの無い文章を載せ、次の人間へと回していくのだろう。
いや、そもそもこの人にこういう付き合いのある友人がいること自体が衝撃だ。
そのことに気がついた彼女は、素直にその弁を吉井へとぶつける。
「ちゅーか、友達いたんだ」
「おまえは俺をどういう風にみているんだ?」
「どういう風にもこういう風にもないっていうか、偏屈なオヤジ?」
眉間に皺ができるのを指先で押さえながら、吉井はその後の仕事を放棄したかのように右手のペンを置く。
時計はすでに午後9時を過ぎており、夕食にはすっかり遅い時間となってしまっている。
もっとも、そんなことは日常茶飯事であり、欠食児童の由香子が騒ぐ金曜日ですらそれを越すことがあたりまえとなっている。
「まあ、否定はしないが」
「否定できるわけないっちゅーか、わがままやし」
「おまえにそれを言われるとはおもわなかったがな」
距離を縮めた結果、由香子の思わぬところで頑固な性格、というものにぶちあたった経験のある吉井は、ため息をつきながら憎まれ口を叩く。
相変わらずこういう場所での二人のやり取りにはまるで変化はなく、よほど勘の鋭い人間がじっくりと観察しても二人の関係を正確に言い当てる事は不可能かもしれない。
「で?結局なんなの?これ」
ヒラヒラと紙を吉井へと滑らせながら、由香子が尋ねる。
「年会の時の飲み会だよ、同期の」
「同じがっこ?」
「いや、ばらばら、年もまあだいたい同じって程度で、上下に幅はある」
「どうやって知り合うん?やっぱ学会とか?」
「他大学は大抵若手の会で会ってるな、そこから紹介の紹介や、知っている先生のところの学生やらで、気がついたら大所帯だ」
「へーーーーーー、随分社交的やね。学校ではこんなのなのに」
「年が違いすぎるだろうが。それに学生と馴れ合うつもりはないね」
「ふーーーーーーーん、馴れ合うつもりはない、ねぇぇぇぇぇ」
揶揄するような視線にさらされ、吉井は一瞬視線をはずす。
由香子がわざと挑発するようなことを言っていることに気がついている吉井は、わざとらしくも咳払いを一つしたのち、話題をがらりと変える。
「メシは?」
「食べますよ」
吉井が決してはっきりと自分からは言い出さないことを知っていて、由香子があえて木で鼻をくくったような返答をする。
「……。そんなことはわかっている」
「で?」
なおも由香子はからかうように吉井の出方を待ったままでいる。
「その後どうするのか聞いている」
「どうして欲しい?」
来週は学会でせっかくの金曜日だというのに会えないせいなのか、由香子はどこか目の前の人に意地悪をしたくなる。
いつもならもっとあっさりと吉井が交わし、それを由香子がひどいと言い立てるものなのだが、さすがにどこか悪いと思っているのか吉井の受け答えが僅かに腰がひけている。
その事実だけで充分で、由香子はあっさりと意地悪な質問のループから彼を解放する。
「何時も通りで」
ほっとしたような顔をした吉井を見て、由香子が顔を綻ばせる。
こういう木偶の坊と付き合ったからには僅かな表情の変化や、言葉尻を捉えて喜びを感じなければやっていられない、と、由香子はいつもいつも自分自身に言い聞かせていることを復唱する。
「さてと、もう行く?」
「ああ」
表面上は何も変わらない二人は、何時も通りの距離感で廊下を揃って歩き出す。
大きな歩幅の吉井と、小さな歩幅の由香子が隣同士で歩きつづけるには双方の努力が必要だが、それも自然と苦もなくこなせるようになっていた。
「みやげは何がいい?」
「おいしいもん」
「どうしてそうおまえは色気がないかな」
「だーかーらー、ないものを無理やりどうこうするのはアホだって言ってるでしょ?」
「まあ、そう悲観するほどでもない、と、思うが」
憎まれ口以外の吉井の言動に、意図することが理解できてしまった由香子が顔を赤らめる。
「とりあえずメシだな」
「……とりあえずごはんで」
どこまでも何時も通りな二人の姿は、そのまま吉井の車の中へと吸い込まれていく。
まっすぐといつもの居酒屋へとハンドルを切った吉井は、隣に由香子の存在を確認して安堵する。
恐らく、明日も同じことをしてしまうであろう自分自身を自嘲しながら。