06

 澤田由香子という人間は、良くわからない人間だ。
吉井は、ここのところ毎週のように来る事が当たり前になってしまった人間について考える。
元来、吉井自身は学生個人に対して深入りをしない。もちろん向こうがプライベートな事を相談してくるのならばのらないでもないが、基本的に無愛想な吉井にそのような事を持ちかける度胸の有る学生は今のところ存在しない。教職員同士にしても同じ事で、当り障りのない関係を保ったままである。その吉井のスタンスからいうと、由香子の存在は異色だ。ただの雇用主と雇用者だと言い切れないのは、その利益の授受が金銭ではなく、飲食を共にする、というひどくプライベートな関係を介して行なわれているからである。飲食代のみを渡して、自分はいなかければよい。チラリとよぎったその考えは、別のところから即座に却下され、唯々諾々と彼女のペースに乗せられたまま。だが、それでもいいとすら思ってしまっている自分の考えそのものが、今もっとも理解できないでいる。
 月曜日の居室は、由香子が綺麗にした後だけはあり、8割ほど現状維持されたままである。そんな誰かの存在を強烈に感じ取ってしまうその場所で、吉井はすっかりぬるくなってしまったコーヒーを片手に仕事を片付ける。
由香子は吉井にとって、プライベートゾーンを難なく飛び越え、ひどく間近まで迫ってきてしまった人間だ。戸惑いこそすれ、それ以外の感情が生まれてくるはずもない。だが、ああもやすやすと他人に近づいておきながら、ひどく自分のことを話さない性格も、馴れ馴れしい口は聞くものの、冷静に見てみればアウトラインを沿うように対象物に触れないように話している、その大人びた線の引き方も不可解だ。
結局のところ、由香子の存在は吉井にとってはひどく理解不能な生物そのものである、と、そう結論付けたところで、ここのところずっとある一定の割合で由香子のことばかりを考えていた自分に驚く。
―――あんな小娘に俺は何を期待しているんだ。
コーヒーを入れなおしながら、事務仕事ばかりでなまっている体をほぐす。
再び吉井がパソコンの前へと座りなおす。腕時計が示す現在時刻にうんざりしながら、何かを思い切るように仕事へと没頭していった。



「メシ、食うか?」
「あたりまえ」

何度交わしても元気良くかわらない返事を与えてくれる由香子に、吉井は安心をして、けれども少しつまらないような気分を抱く。そういう契約になっているのだから、彼女がそう答えるのは当たり前の事で、それを今さらどうこう言える立場にはない。そんなことは重々承知で、だけれども、彼女からそれ以外の返事を聞きだしたいと思う気持ちがよぎる。

「しかし、色気ないよな、おまえ」
「存在しないものを無理やりどうこうしたらかーなーりー、滑稽っすよ?」

気持ちの持って行き場がないものの、憎まれ口を叩くしかない吉井は、相変わらず気楽に彼女へと話し掛けているふりをする。内心は、どこまで踏み込んでよいのか、どこまで踏み込ませるのかを考えあぐねているというのに。

「そういえば、おまえの家って結構近くだよな、俺んちから」
「そうなの?知らないし、おうち」
「ああ、あのファミレスの近くだとすると、結構近い」
「ここってド田舎だから、住む場所限られているから。って、あれ?官舎は?」
「残念ながら独身は不可。入れたとしても上下左右に同業者がうじゃうじゃいるようなところ、願い下げだけどな」
「ああ、お金よりプライバシーをとるタイプだよね、確かに」
「そういうこと。ゴミの中身まで把握されるようなところに、誰が住むものか」
「社宅の100倍濃いやつってかんじだもんね、噂によると」
「学生にまでそんな噂が広まっているのか。しかも、あながち間違いじゃないところが、なんというか」
「そういう面白くってプライベートど真ん中の噂ってものすごく広まりやすいんだよねぇ。先生の愚痴からあっという間に学年中、大学中って広がってくもの」
「・・・・・・俺もせいぜい気をつけるとするか」
「あ!大丈夫、私は口堅いし」
「その年頃の女のその言葉は信用できん」
「失礼な、こうみえて私ってそう言う意味じゃあ、信用できる方だし」
「どうだか」
「って、いい加減おなかすきました」

すっかり日が落ちきり、夏だというのに真っ暗になった窓の外を眺めて、心底情ない口ぶりで由香子が訴える。相変わらず空腹には勝てない由香子の様子に、喉の奥で笑いを噛み殺す。

「少し時間があるなら、酒でもどうだ?家の近所で悪いけれど、結構いい居酒屋がある」

食事を共にする以上に、平常時の吉井ならば決してしないであろう誘いを掛ける。本人は、そのことを自覚しつつも、どうしてさらに一歩踏み込んだ行動をしているのかまでは理解していない。いや、理解を拒む、と言った方が正解なのかもしれない。
だが、今までの吉井を知らない由香子は、それが普段の吉井が取るべき行動であるのだと受け取っている。あたりまえだが、由香子は吉井を知る学生とも、教職員とも接触を計ってはいないのだから。当然、このやや緊張感を持ってなされた提案も、思った以上にあっさりと由香子は承諾をする。

「でもいいの?私すっごい食べるけど?」
「そんなことはもう知っている」
「居酒屋系の食事ってムチャクチャ高くない?」
「大丈夫だ、俺が行くような店がそんなに高いはずはない。それにそこはどちらかというと料理が上手いから、期待していいぞ。あそこの豚の角煮は絶品だ」
「うわ!貧乏学生には眩しい肉の塊」
「その表現はなんとかならんのか。仮にも言語コースだろ」
「英語だし」
「減らず口」
「ありがとう」
「・・・・・・まあいい、とりあえず俺の家に車を置いてから、そのまま歩いていくぞ」
「了解」

 実験室の明かりはまだチラホラとついたままで、それでも昼間とはどこか雰囲気の違う暗い廊下を二人そろって歩く。そんな状況も今日で何度目なのかと、すっかり隣にいることが慣れきってしまった状態に少し驚く。だが、二人の物理的な距離は、職員と学生の間としては、極適切なものであり、唯一それが縮まるのは車に乗った時だけである。だから、吉井は車に乗った瞬間、少しだけ緊張する。そんなものお構いなしに、隣で平常心を保ちつづけている由香子に舌打ちしたいような気持ちを隠しながら。





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11.22.2007

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