3・二人暮し/後編


 所在なさげにソファーに座る彼女を見下ろして、そっとその隣に腰掛ける。
一瞬緊張が走った彼女はわずかに身体を強ばらせる。

「香織ちゃん。香織ちゃんは私にとって何だと思う?」

彼女の両手をそれぞれの手で握り締めながら漆黒の瞳を覗き込む。その瞳が自信の無さからなのか微妙に揺らぐのがわかる。

「……こいびと?」

自信なさそうに答える彼女の頬はその言葉で瞬時に朱に染まる。

「そう、恋人。で、来年には奥さんになる」

赤い頬をますます赤くして、こちらに視線を合わせることすらできなくなって俯いてしまう。いつもならかわいいとほほえましく見える仕草も、今日はそのままにしておくわけにはいかない。

「香織ちゃん、こっち見て」

左手を彼女の頬にあてこちらを向かせる。恥ずかしさからなのか潤んだ瞳がこちらをぼんやりとだけど見つめ返してくれる。

「私は妻一人養えないほど甲斐性のない人間に見えるの?」

少しイジワルな言い方をする。案の定彼女は頭を振って否定する。

「じゃあ、どうしてそういうところも頼ろうとしてくれない」

目に溜まった涙が堪えきれず零れ落ちそうになる。
こんなにも近くで彼女と会話を交わすのは初めてで、本当は自分自身も舞い上がってしまいそうになるのを押さえつけるのに大変だった。

「だって…、置いてもらえるだけでも申し訳ないのに」
「置いてって、どうしてそんなことを考えるの!ここにいて欲しいから、一緒にいたいから二人で暮らしてるんじゃないか」
「でも、私は若先生になにもしてあげられない」

昔の呼び方に戻ったことすらわからないぐらい、自分自身が混乱していた。
彼女がまだそんなことを気にしていただなんて。
自分の見通しの甘さにほとほと愛想がつきそうだ。
彼女の心の傷がこんなにも深いだなんて。

自分が傍にいた、ただそれだけなのに、彼女の心が癒されていただなんて勘違いしていた。
私は親じゃない、兄でもない。その立場では得られなかったであろう現在の立場に満足していたけれど、今更ながらに肉親ではないというハンディを歯がゆく思う。
早季子さんでも父親でも私ですら補えない何かが足りない。圧倒的な喪失感。それを見つづけてこなかった自分に腹が立つ。
落ち着かせるように彼女の髪を撫で、自分の混乱を整理しながら口を開く。

「香織ちゃんにとって私は血のつながった家族じゃない」

不安で揺らぐ瞳を覗き込むようにして続ける。

「でも、人生でただ一人自分の意志で選ぶことができる掛け替えのない“新しい家族”であることには間違いないから」
「若先生」
「だから、香織ちゃん。もう少し信用して欲しい」

キラキラと涙が零れ落ちていく。意外にも彼女の涙を見たのはこれで2度目だ。いかにして彼女が自分自身の感情を内に隠してしまっていたかわかる結果かもしれない。

「君の両親のことはあれだし、きっとずっとわだかまりを持つかもしれない。だけど、ただ一つ香織ちゃんを生んでくれたことだけは感謝するよ」

そっと涙をふき取るように頬に口づける。

「だから、ずっと傍にいて欲しい。これは自分自身のためだね」

それが彼女の望みでもあればもっと嬉しい。
彼女の頭を胸に引き寄せ抱えるようにして抱きしめる。

「あの、あの…。私いても迷惑じゃないんですか?」
「迷惑じゃない、いてくれなくちゃ困る」

リビングはいつのまにか柔らかな西日が差し込んでいる。
二人で選んだカーテンが網戸越しの風に運ばれ揺れている。

「香織ちゃん」

不意に名前を呼ばれ、そのまま彼女はこちらを見上げる。

「ずっと一緒にいたい。だから結婚してください」

いつも丸い瞳を精一杯見開いて数回瞬きを繰り返す。
数拍置いて言葉の意味がわかったのか、耳まで赤くして視線をはずす。

「香織ちゃん、返事は?」

2度目のプロポーズに、実のところ無茶苦茶緊張しているのを隠すように 返事を促す。まさかとは思うけど、ここで拒否されたらさすがに立ち直れない。

「はい」

彼女の返事を聞いた瞬間嬉しさの余り強く抱きしめてしまう。ずっとこの腕に閉じ込めてどこにもいかせたくない、だなんてことまで想像してしまう。
彼女の苦しそうな声に、少しだけ拘束を緩める。まだ彼女を開放する気にはなれない。

「遠慮なんてしないで」
「香織ちゃんがいることが私の幸せだから」

後になって思い返してみると、赤面して地面を掘って隠れたくなるようなセリフをポンポン紡ぎだす。
静寂につつまれたリビングで彼女といる幸せをかみ締める。
これまでもこれからも、ずっと一緒だから。

二人で歩いていこう。


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2.25.2005
修正:7.12.2007
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