注意)登場人物の会話の中で多少下世話な話題がかわされます。注意して下へ進んでください。
「もう1ヶ月だけどだいぶ慣れた?」
嫌々ながら、早季子さんの家へお邪魔する。もちろん香織ちゃんも連れて。
この人が自分をからかうことを生きがいにしていることを嫌と言うほど理解しているため、本当は嫌だったけど、究極の撒き餌、香織ちゃん大好物のお取り寄せチーズケーキ、に負けてのこのこ上がりこんでしまう。
「はい、もうだいぶ」
大好きなチーズケーキを前に蕩けるような笑顔で答える香織ちゃん。その百分の一でもいいから分けて欲しいなんて思っている自分はわがままだろうか。
「あんたは?」
ちらっとこちらを一瞥して、興味津々といった表情を隠しもせずに訊ねてくる。
毎回意気込んではいるものの、どうもこの人を前にすると萎縮してしまう。本能に刷り込まれた何かが反応しているのか。
「まあ、慣れたといえば、慣れたかもしれない」
本人から見ても煮え切らない態度の自分に対してわずかに眉根がよるのがわかる。
「なにそれ、はっきりしないわね」
早季子さんの隣ではおもしろそうに自分の、つまるところ早季子さんにとってもそうなのだが、後輩、現夫がこちらを眺めている。
「はっきりしないと言われても、ここのところ忙しくてあまり一緒にいられないし」
今日だってせっかく手に入れた休日なのに、こんなところにいるだなんて。無性にやるせなくなってくる。
「若、俊也さんは忙しくてあまりお家にいられないんです。このままだと身体が心配で」
本当に一点の曇りもなく心配そうにこちらを見る香織ちゃんに思わず見惚れてしまう。
彼女の笑顔は癒し効果もあるらしい。
「香織ちゃんこそ、受験の準備が忙しそうだし」
決定的なすれ違いは自分の仕事以外にも、彼女の受験生という立場にもよる。
医療短期大学といっても彼女の狙っているところは国立(※)なので、きちんとセンター試験から受けなくちゃならないらしい。もうその辺のことは霞がかかって忘れきってしまった自分はよくわからないんだけど。
「いえ、そんなことはないですよ」
早季子さんが入れてくれた紅茶に口をつけながら微笑む。
「家事はどう分担してるの?」
共働き夫婦としてはそのあたりが気になるのか前のめりになっている。
彼女の肩越しに見える、ほとんど使われていないであろう台所をぼんやりと眺める。この夫婦は医者カップルだから分担するどころか家を通常の状態に保つだけでも大変なんじゃないかな、と思う。以前短いなりにも早季子さんと暮らしていた頃に得た経験から来る推理ってやつだけど。
「いや、悪いとは思うんだけど、ほとんど香織ちゃんにやってもらってる」
そう、実質家を管理し運営しているのは彼女だ。部屋も綺麗に掃除されているし、ごはんだって三食用意されている。昼間はお弁当だし、夜帰って来れない時には差し入れがあったりもする。そこまでしなくていいよ、って言うのだけれど、頑として彼女はそれを受け入れてはくれない。
「それぐらい、当然です」
香織ちゃんの今の言葉に続く意味合いを理解しているモノとしては多少複雑な思いを抱く。きっと彼女は未だに居候の気分でいるんだろう。どれほど言葉を尽くしてもなかなかその思いを捨て去ってはくれない。
「でも、香織ちゃんだって勉強があるし」
心配そうに香織ちゃんを見つめる早季子さんは本来持つ優しい雰囲気を纏っている。
「いえ、今までも家事はやっていましたし、一人分ぐらい増えてもどうってことないですよ」
事も無げに言ってのける彼女を大の大人3人が何ともいえない表情で見つめている。
彼女自身の生育環境を考えると、安易に頷くわけにもいかない。一高校生として過分に身についた様様な能力が皮肉なことに今現在の生活に役に立っているだなんて。
「友達と遊ばないの?花の女子高生だし」
心底羨ましそうな顔をする早季子さんの夫は、脳裏に浮かんだイメージが余りにも邪なのがばれてしまったのか、コンマ数秒と言う速さでつっこまれている。もちろん隣に座っている早季子さんにだ。
「あまり、そういったことは」
言葉尻を濁すように複雑な表情を形作る。
こういった顔をする彼女は珍しいことで、案の定早季子さんが食いつく。
「ええ!遊ばないの?」
「えっと。その。暇がないというのか」
「そんなの、こんなやつにはコンビニ弁当でも与えとけばいいのよ、っていうかそれすらも自分で買え!」
「そんなわけには」
「香織ちゃん、十代は二度と巡ってはこないのよ!!」
変な持論をぶちまけつつ握りこぶしまで握っている彼女は、確かに真剣なんだろう。でも、その主張に素直に賛同できないのはなぜだろうか。
「や、でも、香織ちゃんも無理せず遊びたい時には行ってくればいいし。お金がいるんなら言ってくれればいつでも出せるし」
困り果ててこちらへ縋りつくような視線を送ってくる香織ちゃんの頭を撫でながら諭す。
それでも彼女は困った顔のまま固まってしまっている。
「ちょっと待て!その言ってくれればっての何?」
両手を支えにしてテーブルに置き、立ち上がった彼女がこちらを睨みつける。
自分としてもどうして早季子さんがそんなところに疑問を持ったのかわからないので、真っ正直に答える。
「うちは申告制にしてるんです。じゃないと香織ちゃん受け取ってくれないし」
一定のお小遣いを渡すという提案を即座に却下されたこちらとしては苦肉の策だったんだけど、そういえば今までに一度も彼女から申告されたことはなかったな、と今更気が付く。
学費は彼女の父親が払うということになっている。その提案があったときには彼女の生活費も一緒にということだった。だけど、好きな人、将来の妻の生活費すら払えないだなんて結婚を申し込む資格すらないから、と説得して、学費は実家、生活費は自分といいった形に落ち着いた経緯がある。向こうとしても変なところにプライドというか意地があるらしく、今までほったらかしていた娘にしても行き成り他人に丸投げすることにひどく抵抗があったらしい。
早季子さんはこちらをじっと睨みつけ、おもむろにこちらの胸倉を掴みかかる。
急な行動にもかかわらず、彼女の夫は素早くテーブルの上のものを隅によせ、被害の拡大を防いでいる。
「あんたなに考えてんのよ!」
胸倉をつかまれたまま呆然としてしまう。昔から怒られてばかりだな、なんてのんきなことを思い出しながら。
「あの、えっと…。早季子さん?」
彼女の怒りの理由がわからず、本当に途方にくれる。現夫君に視線を向けるも彼の方もいまいち理由がわからないらしい。
「いい、その腐った脳みそにわかりやすいように説明してあげるから、きっちり聞きなさい」
その宣言とともに自由になった自分は胸元を整え、あらためて座りなおす。
腰に手を当てて、怒りのマークを貼り付け立ったままの彼女が続ける。
「あんたね、女の子がいちいち理由を言ってお金がもらえると思うの?」
「えっと、正当な理由なら別にこちらとしても」
立場が弱いせいなのか段段と小声になってしまう。
「ばっかじゃないの。男のあんたに向って下着を買うからお金頂戴なんて言えると思ってんの?」
言われて初めて気がつかされる別の視点。思わず香織ちゃんの方へ振り返ると赤くなって俯いていた。
「言えると思うんなら、今から大先生のところにいって、コン○ーム買うからお金くれって言ってきなさい!」
下着に対比するのに何もそれをもってこなくても、とは思ったけど、自分のデリカシーの無さには嫌と言うほど気がつかされた。
「香織ちゃん、あの、ごめん」
未だに俯いたままの彼女に謝る。
「いえ、あの」
早季子さんの例え話が効きすぎたのか、言葉が巧く出てこないみたいだ。
「そういえば香織ちゃん、今まではどうしてたの?色々と」
色々の中に何が含まれているのか男の自分にはわからないけれど、すっかり落ち着いた早季子さんはきちんと座りなおしてのほほんと紅茶を飲んでいる。
彼女が座りなおした途端、目の前に紅茶とケーキが再セッティングされるなんて、ぼけっと座っている風の後輩も侮れない。
「特にいるものもないですし、それに無事に大学に入れたらバイトするつもりでしたし」
前方に戻した視線を再び彼女の方へと90度曲げる。少し首筋が痛くなるぐらい急いで。
「バイトって、別にそんなことしなくても」
なんとかなるぐらいの稼ぎはあるつもりなんだけど。そんな言葉は申し訳なさそうにしている香織ちゃんを目にしたら飲み込んでしまった。
彼女はどこまでも自分自身の存在に自信がないらしい。
「悪いけど、これで帰ります。もっと話さなきゃいけないことがあるし」
そう言って、帰り支度を始める。
「そうね、ちゃーーーんと香織ちゃんと話し合いなさい。あんたはただでさえも言葉が足りないんだから」
最後の最後まで皮肉の矢を忘れない彼女に念を押されてしまった。“強引に口座に振り込めば?”なんていうアドバイスも添えられて。
※現在は純粋な意味の国立ではなく、独立行政法人化されたため国立大学法人となっている。
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