25・棘


「達也先輩」

ちょっと高い甘えたような呼び声が聞こえる。振り向かなくてもわかる、彼女だ。純粋に俺のことが好きだと告白されたにもかかわらず、今もって友達以上の関係には発展していない。躊躇っているのは俺のほう。わけも聞かされず宙ぶらりんのままにされていても、彼女はずっと俺の側にいてくれる。

 あまり愉快とはいえない日常生活において、唯一希望ともいえるものは彼女の存在だろう。子犬のように俺の周りをチョロチョロする彼女に一瞬の愛おしさと、手を触れてはいけない切なさが同居する。そんな俺の複雑な思いなどわかるはずもなく彼女はずっと無邪気なまま。
こんな思いも後少しだと、自分自身に言い聞かせる。

彼女と別れた後、ほんの数歩の自宅までの道のりが遠い。
鉛を仕込まれたみたいな足取りを引きずり、一歩一歩近づいていく。
いつのもように鍵の開いた玄関を開け、扉を開ける。

「おかえりなさい、達也さん」

当たり前のように満面の笑みで俺の帰りを待つその人は、生物学的には確実に俺の母親。
けれども、精神的には限りなくそれとは遠ざかっている。
スルリと俺の腕をとり、さりげなく身体を密着させる。たぶん、中身の確認をするのであろう、俺のかばんを奪い取る。
なすがままにされ、一切の拒否を示さないのは、その方が楽だからだ。一度全てを拒んだ瞬間あてつけのようにリストカットし、家の中がひっくり返ったような騒ぎを引き起こしてくれた。それ以来、心情的には一線を引いているものの、彼女の行為そのものを否定することはしていない。
それが根本的な解決にならないことはよくわかっている。
だけど、まだ高校生の俺が全てを背負うには重すぎて、投げ出す事もできなくて。息苦しさを感じないわけじゃない、ただ時が過ぎていくのをじっと待つだけの生活は囚人のそれだ。
後少し、もう少し。家を出る事ができるまで。



 当然のように俺の隣に座ってあれこれと世話を焼く。夕食の当たり前の風景だ。俺の前に座っている親父は、異常な事態にも関わらず積極的に介入してくる気配はまるでない。
そもそも、こうなった要因は彼女の資質とともにこの人にあるといっていい。
よく言えば仕事熱心、悪く言えば家庭放棄した親父は、家の中の出来事に煩わされる事を嫌う。必然的に孤立していったお袋は、俺たち、姉と俺の養育に情熱を傾き始めた。最初はそれでもうまくいっていた。そんな家庭は珍しくないし、子育ての忙しさに気も紛れていただろうし。ただ、俺たちは人形じゃない。成長もするし自分の意志だって持っている。
俺たちが何でも言う事を聞く子供だった時代が終わった時、すでに彼女は俺たち以外の人生の目的を見失っていた。
気がついた時には遅かった。彼女は徐々に精神を病んでいった。
ぎりぎりの危ういところで成り立っていた家族関係は、姉貴の大学進学とともに崩れていった。
今でも覚えているのはまるで男女が繰り広げるような愛憎劇。

「私を捨てるっていうの?」
「捨てるって言うか、親だし。それに大学進学で下宿するなんて良くある話じゃないの」
「だって、お家から近いところにしてってあれほど言ったじゃない」
「獣医になりたいって言ってるでしょ、国立で獣医学部があるところは少ないんだから仕方ないじゃん」
「私立でいいところがあるじゃない、近くに」
「お金かかるでしょ」
「いやよ、お家から出て行くんならお金だしてあげないから!」
「いいわよ、別に。奨学金ももらえることになってるし、今まで少しずつでもお金貯めてたし、なんとかなるから」

激しい言い争うののち、過呼吸を起こして救急車を呼ぶ騒ぎとなった。
その後姉貴は自殺未遂を繰り返してまでひきとめようとする彼女を置いて、さっさと出て行った。
それから先は今の現実が待っている。
執着する先が俺一人となった彼女は、その執着心をますます異常なものとしていった。
まるで恋人か妻のように振舞う彼女は、俺が全てを受け入れる事で精神の均衡を保っている。
だけど、それももう限界だ。
お袋が風呂に入っている隙を狙って、親父に告げる。

「俺も出てくから」
「・・・・・・そうか」
「いいかげん旦那らしいことをしたらどうだ」
「おまえにはわからん」
「ああ、わからないね、お袋の事を俺ら兄弟に丸投げして対岸の火事を気取ってやがった奴の気持ちなんか」
「仕事をしたことがないやつには理解できん」
「出来なくて結構、悪いけど家族ごっこももううんざりだ」

風呂場のドアが閉まる音が聞こえる。現実に戻される。
後少し、もうすこしだけの均衡。これ以上は無理なのかもしれない。





「そういえば、先輩って大学どこいくんですか?」

心配そうにこちらを覗き込んでいる。

「んーー、のんきかもしれないけど、まだ決めてない。ま、たぶん地元だろうなぁ」
「やっぱり、地元ですよね。ここ大学も多いし」

軽く息をついて安心した顔をする。

小さな小さな棘がささる。

地元に残る気などありもしないくせに。
何の痕跡もなくここから逃げさるつもりのくせに。
良心からくる心の声が頭の中をリフレインしていく。
なんの躊躇いもなく笑っている彼女の顔をまともに見る事ができない。
指先に刺さったままの棘はもどかしくて、でもそれを取り除こうともしない俺は偽善者なのかもしれない。





「達也さん、あの子誰?」

薄氷の上にいるかのような危うい均衡はあっさりと崩れ去る。
消し忘れた携帯メールの送信記録。

「あなたまで私を捨てるの?」

まるで愛人ができた妻のようなセリフ。
何年か前の姉とのやりとりが繰り返される。

「捨てるって、子供が巣立つのはあたりまえだろう」
「なによそれ!!!!!許さないから」
「お袋には親父がいるだろう、いいかげんに俺達を縛るのはやめてくれ」

ヒステリーを起こして、手当たり次第に回りの物を投げつけてくる。それを交わしながら、母親の姿を見つめる。今まで目をそらしてきた現実に押しつぶされそうになる。

「許さない!!!」

白濁する記憶。
何度目かの発作を起こした母親が床に崩れ落ちる。
もう、嫌だ。
お袋の体の心配など微塵もしていない自分に寒気がする。



幾度かの入退院を繰り返し、徐々に母親の心がうつろなものとなっていく。
火の粉の降りかからない位置にいる親戚からくる雑言を適当に振り払い、やはり俺も姉と同様に家を出る。
結局、後輩には嘘を突き通した。
地元から離れた大学へと進学することになった。何かと俺のことを心配してくれた姉貴と同じ大学というのが、まだ家族が恋しい子供のようで情けないことだけど。



じっと指先を見つめる。
あの時刺さった棘は未だ抜けていない。
これからもずっと、痛みを伴ったまま。

07.14.2005
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暑さにやられたのか、身も蓋もないお話。
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