比留間賢八年表1867〜1936)

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2007年10月部分改訂

             


1867(慶応3年) 3月15日(東京都麹町)7男1女の末っ子として生まれる
1879(明治12年) 小学尋常科卒業
1884(明治17年) 10月7日、父正春死去
1887(明治20年) 分家して戸主となる。
渡米ニューヨーク市絹織物業ヴァンタイン紹介で働きながらコンセルバトワールでセロを学ぶ(22年7月まで)
1889(明治22年) ドイツ・クレッフルドへ行き国立染色l区学校に入学。ベルギー、スイス、オランダ、フランスへ民族音楽発見の旅に出る。
1891(明治24年) 母の病状悪化のため急遽帰国。母の死に間に合わなかった
帰国の時「ハーモニカ」と「チター」を持ち帰る
1896(明治29年) 東京師範学校付属音楽学校のセロ講師を委嘱
1998(明治31年) 明治音楽会第一回演奏会が開催、セロで出演する
1999(明治32年) 海外実習訓練生としてドイツ・ベルリンへ渡る
1901(明治34年) マンドリンをイタリアから持ち帰る
神田錦町に転居、マンドリン教室を開く
7月・明治音楽会にてマンドリン独奏する
。10月・奏楽堂で慈善音楽会が開催されマンドリン・ギター二重奏をする
1905(明治36年) マンドリン教科書を共益商社より発行
1904(明治37年) 鈴木政吉・比留間賢八・共益商社の白井慶造の三人で日本最初のマンドリンを製作する(比留間賢八の生涯では36年8月となっている)
1905(明治38年) 学習院補仁会にマンドリン四重奏団を組織
高崎弓彦・菅田敏光・山内英夫(里見ク)・比留間賢八
1906(明治39年) マンドリンを製作発売開始
東京上野美術学校にマンドリン合奏団を組織
1907(明治40年) マンドリン音楽通信教授を計画、テキストの執筆開始
慶應義塾50周年記念音楽会に出演
1908(明治41年) マンドリン音楽通信教授を開始、マンドリン独習(共益商社)発行
1911(明治44年)
2月11日「マンドリン奏法の要訳」を機毛新聞に連載
1914(大正3年) 赤坂伝馬町へ転居、マンドリン教授に専念
11月24日、日本最初の蓄音器会社[ニッポノホン]にレコード吹き込み
1915(大正4年) 3月11日待望の長女「絹」誕生
体重2625g、身長47cm
1919(大正8年) 12月13日次男「友次」誕生
6月、YMCAマンドリンクラブ設立(賢八、顧問となる)
1923(大正12年) 関東大震災で赤坂の家は崩壊、次男急性脳膜炎を患い急死。世田谷松原へ転居
この頃
以来楽界を退き、マンドリン界の将来のために一人娘のきぬ子に技術を伝達することに専念 
1926(大正15年)
比留間マンドリンアンサンブル創立(きぬ子11歳)
1927(昭和2年) 絹はJOAK(現NHK)よりマンドリン独奏を初放送
1932(昭和7年) 絹、初のリサイタルを開催
1936(昭和11年) 4月11日賢八は日本橋の矢尾板胃腸病院へ入院、直腸癌を宣告される
4月15日 賢八 死去 享年70歳
4月17日自宅にて告別式。絹はお別れの曲として「別れの曲」、「前奏曲第二番」を演奏
21日多摩墓地納骨堂へ納骨。

参考文献 比留間賢八の生涯 飯島國男など   

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