1998(明治31年) |
明治音楽会第一回演奏会が開催、セロで出演する |
1999(明治32年) |
海外実習訓練生としてドイツ・ベルリンへ渡る |
1901(明治34年) |
マンドリンをイタリアから持ち帰る
神田錦町に転居、マンドリン教室を開く
7月・明治音楽会にてマンドリン独奏する。10月・奏楽堂で慈善音楽会が開催されマンドリン・ギター二重奏をする・ |
1905(明治36年) |
マンドリン教科書を共益商社より発行 |
1904(明治37年) |
鈴木政吉・比留間賢八・共益商社の白井慶造の三人で日本最初のマンドリンを製作する(比留間賢八の生涯では36年8月となっている) |
1905(明治38年) |
学習院補仁会にマンドリン四重奏団を組織
高崎弓彦・菅田敏光・山内英夫(里見ク)・比留間賢八 |
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1906(明治39年) |
マンドリンを製作発売開始
東京上野美術学校にマンドリン合奏団を組織 |
1907(明治40年) |
マンドリン音楽通信教授を計画、テキストの執筆開始
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1908(明治41年) |
マンドリン音楽通信教授を開始、マンドリン独習(共益商社)発行 |
1911(明治44年) |
2月11日「マンドリン奏法の要訳」を機毛新聞に連載 |
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1914(大正3年) |
赤坂伝馬町へ転居、マンドリン教授に専念
11月24日、日本最初の蓄音器会社[ニッポノホン]にレコード吹き込み |
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1915(大正4年) |
3月11日待望の長女「絹」誕生
体重2625g、身長47cm |
1919(大正8年) |
12月13日次男「友次」誕生
6月、YMCAマンドリンクラブ設立(賢八、顧問となる) |
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1923(大正12年) |
関東大震災で赤坂の家は崩壊、次男急性脳膜炎を患い急死。世田谷松原へ転居 |
この頃 |
以来楽界を退き、マンドリン界の将来のために一人娘のきぬ子に技術を伝達することに専念 |
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