マンドリンの普及 

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2007年10月部分改訂

             


比留間賢八の夢〜マンドリンの普及
比留間賢八の生涯より

元来マンドリンは大変入門の楽な楽器です。その容易さゆえに多くの愛好家が誕生したわけです。そのマンドリンの普及の背景には比留間賢八の功績無くしてありえません。
マンドリンを広く普及させること、多くのマンドリニストを誕生させること、これが賢八の夢』だったと思う。


明治32年10月11日、「海外実業練習生ヲ命ジ、練習補助費月額、金六十円給与ス」の辞令を受け、十一月二日、海外実業練習生として、単身ドイツのベルリンに出発、実習のかたわらふたたび、音楽の研究に没頭することとなった。
  彼は常日頃から、当時の日本人に洋楽を普及するのには「安価に買え、音程が確かで容易に弾け、親しみやすい楽器がなければ」 と思っていたので、イタリア人アッティレ・コルナディ氏にマンドリンを学んだとき、「これこそ自分の日頃から求めていた楽器だ」と考え、あわせて、ギターをも学んだのである。
          (中略)

  イタリアに赴いたときには、マンドリンの本場を見学してますます愛好の念を増し、 いろいろな収穫を得た後、ふたたびドイツに帰ってきた。
  明治三十四年帰国することになり、そのときはじめてマンドリンを持ち帰り、 日本に紹介したのである(ギターはこれより以前、平岡大尽の名をもって知られた平岡煕が持ち帰っている)。
 帰国してからは、神田錦町に居を構え、わが国にはじめてマンドリン及びギターの奏法を教えはじめ、門下生を募り、 その普及に努めることとなった。

    出典 比留間賢八の生涯 飯島國男 著 全音楽譜出版社 発行 P69〜


1867年比留間賢八は東京麹町で生まれた。音楽取調掛のごく初期の伝習生の一人とし音楽取調掛卒業後、1887(明治20)年渡米してチェロを学んだ。 ドイツにも渡り1891年ハーモニカとチターを持ち帰った。1899(明治32)年 10月、農商務省海外実業練習生(貿易商)として単身ドイツのベルリンへ行く。実習の傍ら音楽の研究に没頭、同地にてイタリア人アッティーレ コルナティにマンドリンを学び、1901(明治34)年に帰国する際、はじめてマンドリンを持ち帰り、日本に紹介したのである。 

日本で最初のハーモニカ演奏会を行ったのも比留間で、義親邸のマンドリンと同じ1901年のことだった。ハーモニカは 1827年ドイツのクリスチャン・メスネルによって発明された。日本に輸入されたのは、明治24年という説もあるが、記録に確認できる最初のものは明治31829日の『読売新聞』の広告で、「横笛(ハーモニカ)」と記されているそうだ。比留間の演奏会はこの広告からわずか三年後だ。


マンドリンの
普及には専門技術の伝承以前にまず練習に使うマンドリンが必要である。
そこで、ヨーロッパから持ち帰ったマンドリンを基本に安価で演奏しやすいマンドリンの製作へ熱意を注ぐこととなった。
賢八は鈴木政吉、白井練一とともに国産マンドリンの開発に成功させた。
 
そして多くの愛好家を育て、マンドリンを普及させることに熱意を注いだ。
まずは自宅でマンドリン教室を開き、同時に教則本を発行により多くの愛好家を生む土壌を築いた。

なにより、賢八のすばらしい着目点は、当時の著名人にマンドリンの素晴らしさを広めたことにある。この著名人は所謂「マンドリンの広告塔」としての役割を果たしていたと思われる。萩原朔太郎は詩を通じ文壇から国民にマンドリンを大正ロマンの象徴的存在と感じさせた。また竹久夢二はその人気画家として多くのファンへマンドリンを広めた。

 このような多くの大正時代を代表する著名人がマンドリンへ関心を持ったことはその後のマンドリンのを普及に大きな影響を与えたといっても過言ではないと思います。

最後に専門技術の伝承は自分の愛娘「絹子」へ行われた。そして「絹子」はその賢八の意志を継いで日本を代表する演奏者となり多くのマンドリン奏者を排出した。その貢献は現在のマンドリンの繁栄の礎となっている。

比留間賢八年表


比留間賢八の主な活動

《マンドリン・ギター教室》の開始
明治34年(1901年)に帰国する。自宅(神田)にて念願のマンドリンとギターの教室を開く。まず集まったのが名家の子女であった。最初の公開演奏は同年7月11日明治音楽会にてチェッシーニの「セレナーデ」を独奏している。
まずは、マンドリンを教えるあたって教則本が必要となる。

国立国会図書館より
《マンドリン教科書》の出版
明治36年(1903年)11月に日本初のマンドリンの教科書を出版している。

《マンドリン独習》の出版
明治43年(1910年)には独習用のマンドリンの教科書「マンドリン独習」を出版している。
明治38年(1905年)に学習院のOB会にマンドリン四重奏団を組織する。メンバーに里見淳がいた。

《通信教育 好楽会》の開始
翌年東京美術学校にマンドリン合奏団を作った。秋に慶応ワグネルソサイエティで演奏を披露している。
明治40年(1907年)には「好楽会」という通信教育を開始。

《多くのマンドリン愛好家》の輩出
以後その普及に尽力し、日本のマンドリン音楽・クラシックギター音楽の源流となっている。その門下には萩原朔太郎、藤田嗣治、音楽家の斉藤秀雄、華族の徳川義親・武井守成・土方与志、作家の里見淳、詩人の萩原朔太郎、画家の藤田嗣治、陶芸家の富本憲吉がいます。

《マンドリニスト 比留間きぬ子》の誕生
賢八はマンドリン技術の伝承として愛娘に幼児期より厳しい練習を行った。そしてマンドリン奏者として活躍をするに至った。

このマンドリンは大正時代に急速に普及しその傾向は第二次世界大戦前まで続きました。戦後は昭和30年ごろからまた徐々に演奏されだし、今日のブームにつながっています。マンドリンの黎明期といえる大正時代を見ると、その時代背景もマンドリンを国民的楽器として普及させるきっかけとなっていると言える。

日本におけるマンドリンの発展は「比留間賢八」の夢の実現によることを忘れてはならないと思う。

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