日本のマンドリンの原点

鈴木政吉(masakichi suzuki)

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2007年10月部分改訂

           


楽器作りの情熱 

鈴木政吉(鈴木バイオリンHPより)

マンドリンを多少練習したの者にとってはマンドリンといえば「ビナッチャ」や「カラーチェ」などのいわゆるビンテージ楽器を思い起こすでしょう。確かにマンドリンはビナッチャが開発し今日のような形に作り上げ、多くの銘器が残っています。また楽器をつくり、そして作曲、演奏家でもあったカラーチェを知らないマンドリニストはいないといっても過言ではないでしょう。

日本におけるマンドリン愛好家の数は今や世界一といわれています。 マンドリニストの増加は演奏機会の拡大、そして優秀な演奏者の出現に伴い音楽的な位置づけの向上にもつながりました。

日本のマンドリンの普及・発展の影には鈴木政吉の楽器作りの情熱があったのです。まさに鈴木政吉は日本におけるマンドリンの原点だと言っても過言ではないと思います。しかし今日、鈴木政吉の功績や作品を研究している人は殆どいないと思われます。「masakichi」ブランドのマンドリンを調べ、マンドリンの原点を見つめることから始めようと思います。

鈴木政吉は日本のバイオリンの草分けとして音楽界へ多大な功績を残しました。楽器製造に対する情熱,工夫,努力は,バイオリン製造における産業化への成功をもたらしています。その職人魂はバイオリンにとどまらず、新しいマンドリンという楽器の製造へも注がれ、西洋楽器であるバイオリン・マンドリンが日本で広く親しまれることを実現しました。今日の多くのマンドリニストの誕生の背景には、容易にマンドリンを入手できることが大きな要因であったと考えられます。

鈴木政吉年表

比留間賢八は明治32年(1899年)に農商務省の海外実習生として二度目ドイツ出張でイタリア人アッティレ・コルナーティにマンドリンとギターを学んでいます。

比留間賢八は日本でマンドリンを普及させるには舶来の楽器は高価であったため安く簡単で音程の確かな洋楽器を作ることが必要と考えた。

このときの白井練一は既にマンドリンの存在を知っていた。それは、四竈訥治が共益商社の白井社長と交友があり、白井は四竈訥治が音楽雑誌を出版したときも多くの助言をしている。、そのときに四竈訥治よりマンドリン及びその音楽について聴かされていたと考えられる。事前にマンドリンの知識を持っていた白井にとって比留間賢八の思いはすぐに伝わったようである。

白井は比留間賢八に鈴木政吉を紹介し明治36年(1903年)に比留間賢八がイタリアより持ち帰ったマンドリンを見本として、比留間賢八、共益商社の社長白井練一と鈴木政吉とで協力して国産マンドリンの試作を試みている。(比留間賢八の生涯、飯島國男 下図 参照)

『MANUFACTURED BY MASAKICHI.SUZUKI』として三年後の明治39年に発売にこぎつけた。

最初のマンドリンはバイオリンと同様に「MANYUFACTURED BY MASAKICHI SUZUKI」のラベルであった。これは輸出を意識した表記であった。時代によりラベルは多少変わっている。 

MASAKICHI.SUZUKI.モデルのマンドリンには製作年表記がありません。 したがってその楽器の製作年度を特定することは不可能と思われます。 そこで製作年は楽器に貼られたラベルの種類から推測するしかないと思われています。 さらに年代推定はラベル種類と楽器のモデルから行えると思われます。

年代順に

MANYUFACTURED BY MASAKICHI SUZUKI NAGOYA NIPPON
MANYUFACTURED BY MASAKICHI SUZUKI NAGOYA JAPAN
SUZUKI VIOLIN KOJO MASAKICHI SUZUKI NAGOYA JAPAN

となっている。ここまではラベルにマンドリンという表記はない。

MASAKICHI.SUZUKI とかかれたラベルはマンドリンでは4種類しかありません。
(バイオリンでは11種類あるようです)従って、推測するにもバイオリンのように細かい年代推定はできません。

ラベルは楕円形で「MANUFACTURED BY」    とゴシックで書かれています。
その下に(2種類 MASAKICHI。SUZUKI。/ MASAKICHI SUZUKI。).とブロック文字で書かれています。
さらにその下には NAGOYA.NIPPON./NAGOYA.JAPAN..とかかれています。一番上にはまるいマークがあり、そのうえに「TRADE MARK」と書いています。

「NIPPON」と「JAPAN」の違いは日米の貿易表記の違いによるものです。明治中期にアメリカはすべての輸出品には原産国を表示するよう義務づけました。そこで日本政府は「NIPPON」と表記するようにしました。その後アメリカは英語表記にするよう要請してきました。1918(大正7)に「JAPAN」表記としたようです。しかし表記の変更には時間差が生じ昭和5年頃まで混在表記となっていたようです。

昭和5年には社名変更(鈴木バイオリン製造株式会社)に伴いMASAKICHIラベルからSUZUKI VIOLIN KOJOラベルに変更されました。

年代ごとの製造種類を当時の音楽雑誌等の広告や価格表によると次のようになります。(知り得る資料より)

年代別型番と価格

明治40年〜大正2年の定価表(VIOLIN  ショパン出版  P202)
NO 1  7.00
NO 2
NO 3 12.00

大正7年(1918)
(マンドリン博物館 南谷氏)
NO 602  8.25  
NO 604 12.75 
NO 605 18.00

大正11年(1922)
(マンドリン博物館 南谷氏)          
NO 602 12.00  
NO 604 19.00 
NO 605 25.00

 

大正13年8月(マンドリン独りまなび/十字屋楽器店出版・最終ページ広告)

少なくとも7種類を製作販売

(タイプは不明)
9円、12円、14円、19円、25円、30円、50円

昭和4年3月(4月1日発行)(1929)
          (単位 円、銭)
 70号   7.50
701号  13.50
  2号  15.00
702号  17.00
  3号  19.00
703号  21.00
  4号  25.00
  5号  29.00
  6号  36.00
704号  50.00
  7号  55.00
  8号  60.00
  9号  65.00

 

となっています。

大正後期から昭和に入るとマンドリンのバリエーションが多くなってきました。


● ラベル形状の違いについて

しかしながら、鈴木はマンドリンに限らずバイオリン等すべてに製造年の記載がない。これは楽器の製造年が分からないきわめて大きな欠点となっている。したがってカタログと僅かなラベルの変化で製造年を推定するしかないと考えられます。

NIPPON 型番表示なし
明治36年〜大正14年頃

形状;細長い
NIPPON NO印刷 型番4印押し 
(明治36年〜大正14年ごろ)

No印刷部分だけ幅が広くなっている


(NO4モデルだから大正11年〜昭和5年)

 

NIPPON NO印刷 型番4印押し 
(明治36年〜大正14年ごろ)
MASAKICHIの後にドットなし
(MASAKICHIとSUZUKIの間の間隔が広い)

 
(NO4だから大正11年〜昭和5年)

 

JAPANラベル 大正14年頃〜昭和5年(1930)
しかし大正7年〜昭和5年の間はJAPANラベルと混在期

 

 

最初のラベルは「NAGOYA. NIPPON.」であります。そしてラベルに「JAPAN」と表記が変更されるのは大正時代後期から末期の間にアメリカの要請(と言うより抗議)によって変更されます。しかし確実に「JAPAN」と表記が変わるにはタイムラグがありました。ある一時期は「NIPPON」と「JAPAN」が混在しているのです。[JAPAN」は大正時代は14年までです。

 

ラベル上のメダル

中央のメダルの表記は
JAPAN-BRITISH EXHIBITION・LONDON・1910
明治43年(1910)日英博名誉大賞受賞メダル

 

 

「SUZUKI VIOLIN KOJO」ラベル。
昭和5年(1930)〜昭和29年ごろ。

これも上記と同様にTRADE MARKが最上部にあり、SUZUKI VIOLIN KOJOの下にMasakichi Suzuki と筆記体でかかれ、その下にNAGOYA JAPAN とゴシック体でかかれている。また楽器のタイプをを表すナンバーも印で押されている。

 

昭和5年・鈴木バイオリン製造株式会社へ社名変更 資本金50万円

この時プレス加工機導入
1930年との根拠は、@製造国表記がJAPANAMASAKICHI.SUZUKIの筆記体文字が入っている、  BSUZUKI VIOLIN KOJYOとなっているからです。


(参考)
バイオリンでは製造国表記は最初はNIPONで、第一次世界大戦で世界  にバイオリンが不足して鈴木バイオリンに注文が殺到したころ、JAPANに変わりました。その後第二次世界 大戦の戦時色が強くなってきた頃に、またNIPONに戻ってます。MASAKICHI.SUZUKIの文字は戦前の物 しか 明記されていません。(マンドリンではNIPON表記はまだ見たことがありません)

ocupied japan model

「masakichi suzuki」 と書かれたラベルはバイオリンでは11種類あると言われています。
@「M.SUZUKI」(最古のものと思われます)
A最上部にあるメダルの絵柄で中央の丸の中に人が二人。「made in nippon」
B最上部にあるメダルの絵柄で中央の丸の中に人が二人。「made in japan」
C最上部にあるメダルの絵柄で中央の丸の中に人が二人。「made in nippon」・「特」ラベル
D最上部にあるメダルの絵柄で中央の丸の中に人が二人。「made in japan」・「特」ラベル 
E最上部にあるメダルの絵柄で中央の丸の中に人が一人。「made in nippon」
F最上部にあるメダルの絵柄で中央の丸の中に人が一人。「made in japan」
G最上部にあるメダルの絵柄で中央の丸の中に人が一人。「made in nippon」・「特」ラベル
H最上部にあるメダルの絵柄で中央の丸の中に人が一人。「made in japan」・「特」ラベル
I角ゴシックで「SUZUKI VIOLIN KOJO masakichi suzuki」
J政吉本人による手工型でコイン無し、丸ゴシックで MASAKICHI SUZUKI と 手書きのNO と手書きの製作年 にサインのみの表示で晩年に造られたものです。 


MADE IN OCCUPIED JAPAN


ヤフーオークションでの出品者の説明文です

前略  〜   かなりの珍品ではないでしょうか!。1945〜1951年の6年間、戦後日本が占領下にあった時期に製作されました『メイド イン オキュパイド・ジャパン!』とても貴重な鈴木バイオリン『ストラディバリウスmodel No.20』を出品致します。(全長約56センチ) 
敗戦後日本はアメリカを主体とする占領軍の支配下となり、昭和20年〜26年(1945〜51年)の約6年間、日本国内で生産する食器や玩具、輸出品に『MADE IN JAPAN』とではなく『MADE IN OCCUPIED JAPAN』と表記しなければならない事を義務づけられていた辛い時代がありました。今回出品しております本機はそのたった6年間の短い貴重な時期に『輸出品』として海外向けに
製造されていた個体ではないかと思われます。(ラベルには一番下に記された『MADE IN OCCUPIED JAPAN』のほかに『Suzuki Violin Musical Co Ltd』その下に『COPY OF ANTONIO STRADIVARIUS』と最後に『No.18』と鈴木の『S』マークが入ってます。) 本機は当時のモデルとして決して高級機種という訳ではありませんが、戦後の占領下の短い期間に生産された事や(生産本数もかなり少なかったと思われます。)、当時の輸出品という事なども考えますと 高額で取引されるわりに意外と玉数の多い『鈴木政吉バイオリン』よりも遥かにレアな逸品ではないでしょうか。状態ですが…製造後60年以上経過していると思えない程状態は良く、割れや剥がれの無いなかなかのグッドコンディションを保っております。   〜 後略

 


第二次世界大戦終了後、1945年より日本はアメリカの占領下となりました。この状態は1952年まで続きます。 この間にやはり外貨獲得と復興に一役買ったのが、日本の陶器及び玩具などでした。 この占領下に日本より輸出された品々は占領下ということで原産地証明がMade in OCCUPIED JAPANと記載されました。これがオキュパイドジャパンと呼ばれるアイテムです。陶器類では 絵付けの技術等は、やはりその当時ですから決してクォリティの高いものとはいえませんが、NIPPONと同様、日本の復興に寄与した品々を日本人として見逃す事ができません。


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