韓国の教科書から 番外編
日本の教科書から

現在、韓国と日本の政府との間で、教科書問題が

両国間にかかわる重要な問題へと発展しています。

日本の教育現場に立つ者として、また一人の韓国好きとして

大変遺憾なことだと感じています。

韓国では教科書が国定であるので、日本の教科書問題は

日本の政府に問題があると考えるのも分かります。

しかし、日本の場合は言論の自由に基づいていくつかのグループが

教科書を編集しており、約20社から出版されています。

その中から教科書を選択するのは現場の教師の仕事であり、

問題となっている教科書に対して「ノー」と主張しています。

この問題が両国のあらゆる面で壁とならないことを心から祈ります。



そこでこのページでは、現在日本の教科書で「韓国史」「朝鮮史」が

どのように記されているかを知ってもらいたいと思います。

引用は現在最も利用している高校が多いと思われる

山川出版社の『新世界史<改訂版>』(1999年)を利用します。

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1,古代 東アジア文化圏の動向

 武帝のとき、漢は西域をおさえて敦煌などの4郡をおき、南では南越を滅ぼして南海などの9郡をたて、東北では衛氏朝鮮を滅ぼして東北南部から朝鮮半島にかけて楽浪など4郡を設けた(*1)。(p.68)

 漢の武帝が東アジアの国際秩序をきずいてまもなく、紀元前後には中国東北部に高句麗がおこり、4世紀初めには楽浪郡を滅ぼして、朝鮮半島の北部を支配した。南部には三韓(馬韓・辰韓・弁韓)に分かれていたが、4世紀なかごろに百済が馬韓を統一して帯方郡を倒し、新羅が辰韓を統一した。当時、日本の勢力下にあった弁韓(加羅、または伽耶・任那ともよぶ)は(*2)、やがてその北西部を百済に併合され、残る地域も6世紀なかばに新羅に征服され、ここに高句麗・新羅・百済がならぶ三国時代となった。

 日本は3世紀ころ小国に分かれていたが、やがて邪馬台国がおこり、女王の卑弥呼が魏に朝貢した。4世紀には大和政権による統一が進み、また加羅に侵出して百済と結び、高句麗に対抗した。5世紀になると倭国の諸王は中国の南朝に朝貢の使いを送った。6世紀以後、日本が送った遣隋使・遣唐使には学者や僧侶が加わり、中国文化の輸入につとめた。やがて日本は大化の改新によって律令国家の体制をととのえ、天平文化を開花させたが、こうした唐文化の受容は新羅・渤海・南詔などにもみられた。

 この間に新羅が強大になり、唐の助けをかりて百済と高句麗を滅ぼし、唐の勢力をもしりぞけて朝鮮半島をはじめて統一した。新羅は唐の制度や仏教文化をうけいれて栄えた。その社会には出身氏族によって身分の高下が定まる骨品制がおこなわれ、貴族の力が強かった。一方、高句麗の民は東北地方に拠って渤海国をたてた(*3)。(p.83〜p.84)

☆解説☆

*1 日本における世界史の柱は、中国・インド・中央アジア・西アジア・ヨーロッパ・アメリカが中心である。なので、日本の世界史教科書における韓国の記述は、中華圏の一つとして語られているに過ぎない。

*2 日本が加羅を勢力下に置いていたというのは、『日本書紀』という日本の大和政権が作った歴史書に見られる記述であり、史実ではないと考えられている。しかし、これは日本史学の成果であり、山川の世界史教科書にはその成果が反映されていない。

*3 ここまでの記述を見て既にお気付きだろうが、山川の教科書では、古代韓国史の部分に全く年号が出ておらず、おおざっぱな流れを紹介するにとどまっている。

(2001 07/21 up)

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