夜桜の憂い

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カルトとマインドコントロール

マインドコントロールについては、数々の書物でその定義や、特徴、主な功罪などが述べられていますが、ここでは、私自身が実際に体験したものを中心に、その特徴を述べていきます。

従ってこれがこの世にある全てのマインドコントロールを網羅するものではありません。但し、眼に見える社会的現象は違っていても、本質的な功罪は似ているように思います。

1.マインドコントロ−ルの定義

2.マインドコントロールと洗脳の違い

3.マインドコントロールの功罪

4.マインドコントロールからの救済

5.私自身の見解


1.マインドコントロールの定義

人間は、それを取り巻く様々な環境、数々の情報や、人の意見、或いは自分の心境など、に左右されながら自らの意思決定を行い、行動しています。

しかし、その個人の意思決定を、他者が利益の為に操作する事によって、操作された個人に、何らかの被害を与えていく事を、悪質なマインドコントロール、狭義の意味でのマインドコントロールと言います。

マインドコントロールは、本来個人が深く意識している事柄を、摩り替えることで人間を支配し、個人の、金銭、物品、生命、という物質的なものから、人権、意識、知識、意思、という精神的なものまで、奪っていきます。

こうした支配による略奪を行っている団体、組織を、カルトと呼びます。


2.マインドコントロールと洗脳の違い

私なりに、簡単にまとめてみました。
詳しくは、専門の本が多数出版されていますので、そちらをお読みください。

○洗脳

まず、被害者は、感覚や情報を遮断した拘禁状態に長く置かれ、その中で、尋問や、非難や否定などの精神的苦痛、場合によっては肉体的苦痛も与えられます。

被害者が、その環境でいくら、自らの意見や価値観を表現しようとも、受け入れられず、精神的、肉体的苦痛を伴う状態が長く続くと、被害者は苦痛を回避する為に、拘禁し支配する者の、価値観、考え方、感じ方、善悪の判断など、を受け入れていくようになります。

こうして洗脳は、主に、被害者に精神的或いは肉体的に苦痛を与えることで、意思や考え方を従わせていくと言うものです。

しかし、この苦痛の状態から解放されると、被害者は徐々に元の自分の状態に戻っていくようです。

○マインドコントロール

被害者は、どちらかと言うと、精神的にも肉体的にも、苦痛も拘束も感じさせない状況で行われます。
恐怖よりは喜び、不安よりは安心、を感じ、意思や感情も、否定されるのではなく肯定されます。

そのような安心感の中で、被害者が心に深く思っている願いや本質的な内容、(例えば、世界平和、家庭家族の安泰、病気の回復、或いは個人の生き方の指針など)内容は様様ですが、支配しようとする者の考え方、(以降、教義と呼ぶ)に共鳴して行動すれば、被害者のこれらの内容が、現実になるのではないかと錯覚させます。

そして、被害者が少しずつ、教義を行動で実践したり、精神的な考えの中心に置くことで、被害者の願いが実現しているように感じさせ、その体験を、喜びの中で増やしていきます。

こうして、被害者の心に深く思っている内容は、徐々に教義の内容に摩り替えらていきます。この摩り替えに、気づかせないように、被害者への安心感を保たせる配慮がたえず行われ、疑問を抱いても、容認しても良いのではないか、と思わせられます。

最終的に、行動だけでなく、価値観、意思、考え方も、全て教義に摩り替えていくことで、被害者の本質的な願いは、根本的に解決されるように錯覚させます。

被害者が、教義によって、自らの願いが成就し、本質的に精神が救われた、精神の安住の地を見出せた、と思えれば、教義による個人の意思の支配(マインドコントロール)はほぼ完成したと言えるでしょう。

従って、マインドコントロールの被害者は、あたかも、自分の願いを達成する為に、自らの意志で、教義を選び取っていると、思い込みます。カルトの教義によって、意図的に、他者に、意思や行動を支配されているとは思っていません。

こうした状況に置かれた被害者は、新たなマインドコントロールに掛かりやすく、その度に深く支配されてしまいます。

 

被害者は、マインドコントロールから解放された後になって、自分の意識を根底の部分で摩り替えられ、自らの精神の大事な部分をカルトの利益の為に、利用されていた事に気づくのです。

しかし、マインドコントロールは、被害者の意識の根底にある信念に、深く入り込んでいる為、この教義の否定をする事は、被害者自身の信念の否定、被害者個人の否定をされている感覚を受けるため、精神的な苦痛と恐怖を伴います。

従って、被害者が、自らの意識の根底が蝕まれている事実を、自ら認め、具体的に何が摩り替えられたのかを見出すのは、とても困難な作業となります。


3.マインドコントロールの被害

@.(1次的被害)
  
本人の自由な意志決定権を奪う、人権的被害

被害者は、故意に支配者の管理下、支配下に置かれ、こうした他者へ従属させられる事は、人間としての個人の尊厳を犯すものです。

これは、個人の人間として本質的な価値を、他者が取り上げる事であり、憎むべき行為であり、基本的人権を侵す犯罪であると思います。

また、被害者がこの様な立場に置かれ、被害者個人の本来の自由な特性や特技を、人為的に悪意に用いられることは、社会的にも大きな損失であると思います。

A.(2次的被害)
  支配者の指示のもと、支配者の代理人として、他者に危害を加える実行者として、新たな被害を生み出してしまう事

被害者は、もともと持っていた罪悪観念を、教義によって掏り変えられています。他人に危害を加える事などにも、一般的な罪悪感が消され、反対に教義に沿う行為は全て、良心でその行為に当たるように、心の根底から支配を受けています。

従って、もともと良心的で、愛情深く、正義感に溢れ、他人の為に命をかけて、責任を持って、物事にあたるような人物がコントロールに掛かった場合、カルトの指示に対して、熱心に忠実に指示を遂行しようとします。

この為、支配している組織の何らかの利益となる行いが、他人を傷つける行為になろうとも、悪意ではなく、善意を持って、積極的にその行為を行う事になります。

ここで、支配する側が指示する内容によって、被害者は、関係の無い多くの人に、支配者の代わりに危害を加える実行者となっていきます。

具体的には、他人への詐欺行為による、金品略奪。物品略奪などの物的危害。最悪の場合、監禁、暴行、殺人など、人の生死に関わる指示を受けることも有ります。また、他人を更にマインドコントロールにかけるという、人権的危害です。

B.(3次的被害)
  社会の無知により、加害者としてのみ扱われる事

マインドコントロール被害者は、加害者として、社会からの差別と侮蔑により、本質的な心の救済の機会を与えられない場合が有り、これにより更に心に傷を受け、監禁のトラウマに苦しみます。

また、新たに、反カルトのマインドコントロールに掛かかる場合もあります。


4.マインドコントロールからの救済

 (3次的被害の実態)

社会の認知が少ない為、自らの意思決定を行えるような人間性の回復をする環境、心の整理を行えるような、一次的被害からの救済の機会を与えられる事は少ない様に感じます。また、その様な一時的な被害の救済など、必要ないと考える人たちも居る事も事実です。

本質的な心の救済の必要性を知った人間が、援助に当たった場合は、その個人には本当の意味での助けとなり得ます。

しかし、その様な援助が得られなかった場合、加害者としての責任だけを問われ、侮蔑され、更に心に深い傷を残すのみとなります。いわゆる、3次的な被害です。

そして、加害者として侮蔑され、人間として扱われないんだ、という深く傷つい心は、そのまま封印され、それらを癒す場所もなく、止む無く社会復帰していく事になります。そうした無意識の心の苦しみを抱えながら過ごしているカルト脱会者も、数多く見受けられます。

また、その様な状態の場合、そうした情況からの回避から、新たに他のコントロールの支配に身を委ねることにもなり易いと言えます。事実、救出牧師の考え方や意識に迎合する、いわゆる「反カルトのマインドコントロール」に掛かっている方も居ます。

 

いち早く、本質的な、人権と人格を取り戻す為の救済をして欲しい願っていますが、今現在、救済と言う名目の上で、更にその人の人格を奪う『監禁』という行為で、精神的被害を与えたり、「反カルトのマインドコントロール」にかかる以上、救済とは呼べないと感じています。それ以上に、法的な罪にあたる行為だとも感じています。

なぜなら、刑法第220条「逮捕監禁罪」に、十分触れる事柄だと感じるからです。

今の社会の現状では、マインドコントロール被害者は、加害者としてのみ扱われ、いわゆる心と人権の被害者としての本質的な救済ができるだけの、人権を尊重した上での社会的な救済措置は、まだまだ発展途上である事を痛感しています。


5.私自身の見解

私自身がマインドコントロールを受けた一次的な被害者であり、たとえ、マインドコントロールの上で、更に他の人に二次的な、被害を与えてしまうような加害者になったとしても、それがマインドコントロールの害悪なのでしょう。

しかし、救出しようとする側が、マインドコントロールについてよく知らなかったり、或いはカルトへの恨みで凝り固まり、「反カルトのマインドコントロールに」係った場合、どうしてもこの二次的被害だけがクローズアップされて、カルトに入っている者は、救出側から侮蔑の意識を持って扱われ、加害者としての非難や制裁を受けやすいのです。それも、法的にではなく、個人的にです。

私自身は、家族と親戚に何度か拉致され、監禁を余儀なくされました。名目は、私の本心を取り戻すためであったと思いますが、実際の状況は私の自由と未来とを奪った上で、それと引き換えに脱会させるというものでした。

説得に来た日本基督教団群馬県の太田八幡教会(現在、名古屋)の清水与志雄牧師の話により、実際に統一協会の欺瞞に気付いたので、幸いにも、私は統一協会を辞めることができました。

清水牧師の説得は、統一協会の内部での内容と、実際に行っている内容の違いでした。この話はでたらめであるとは感じられず、統一協会の行いの方が嘘の上塗りで、教義自体も、嘘のたびに変化している事も知りました。また、この教義では、自分の理想とする未来は実際に実現できないだろうと判断しました。そこで、私は統一協会の偽りに気付き、統一協会を完全に辞める事にしました。これは96年5月です。


しかし、その清水牧師は「統一協会に入っているものは一生座敷牢に入れてもいいんだ。」「統一協会に入っている者は、侮蔑の意識を持たれても当たり前なんだ。」と断言し、その意識を持って、私に関わりました。私が統一協会を辞めなければ、実際に監禁状態は、ずっと続いた事でしょう。

また、私の自由と、監禁からの解放の権限を持っていたのも、その清水牧師が日本基督教団の神奈川県戸塚教会の黒鳥伝道師注:3 自称牧師)でありました。その事実によって、私の個人の人権は確実に奪われていると、強く認識しました。
(注:3 2001日本基督教年鑑の408ページ、K氏は1983年に補教師の准充を受け、伝道師と表記されている。
また日本基督教団教憲教規及び書規則2001年改定版43ページ、第103条教会担任教師が正教師であるときは牧師、補教師であるときは伝道師という。)

私は、未だに、清水牧師や黒鳥伝道師の意識に反する言動が見られた場合、いつでも監禁される身であり、人権を奪われたままの感覚が抜けません。未だに見張られているような恐怖に怯えています。

その清水牧師や黒鳥伝道師の意識と監禁の論理は、「統一協会に入っているものは、社会的に悪い事をしている、そのようなものは、社会的に抹殺してもよい。そして、社会的に正しいと世間が認める者には、制裁を与える権利がある。特に、聖書によって正しいと神からお墨付きをもらった者はなおさらである。」と言う物だと感じました。

私は、今でも、清水牧師や黒鳥伝道師のそうした人権を奪う事への正当化の論理は、カルトのマインドコントロールの正当化の論理と変わない意識であると、感じています。

家族も親族もそのような考え方のもと、監禁しました。
一人の人間がカルトに入っていれば、その人の人権を奪ってまで、監禁しても良い、と言う考え方でした。親として子を監禁するのは当然の権利であるということです。

私には、そのように監禁される状態がとても辛かったのです。一人の人間としても扱われない、自由と未来の全てを奪われた状態がとても辛かったのです。

悲しいと苦しいと叫んでも、辛い状況は決して好転せず、法も社会も警察も、誰一人、私の人権を守る為に救出してくれる者は居ないという、強い無力感に襲われました。未来に希望も何も見出せず、このまま社会の片隅で誰にも悟られずに、「永久に抹殺されていくんだ」、と毎日思っていました。

社会もそのような監禁を肯定しています。監禁中に、私自身が警察に保護願いを出したところ、統一協会救出での監禁は問題無いと言う事で、私自身んの叫びは、その場ですげなく却下されました。民意がそのような方向にあれば、それに従うのでしょう。警察も、私刑・リンチを肯定している、と感じました。

そのようなことが有ったので、私は「加害者として抹殺しても良い人間であった」という意識が、強く残ってしまい、今現在もその思いが、私を苦しめています。私が統一協会の加害者として償いをしようと意地になっているのは、そのレッテルに対する、ささやかな抵抗です。



しかしその後、私は自分が、清水牧師や黒鳥伝道師が「反カルトのマインドコントロール」にかかって居る事に気づきました。

説得に来た清水牧師や黒鳥伝道師及び救出関係者(両親)に迎合する様に振舞ってしまう事、それらの人々に反対の意見をいえない事、心の奥底で、それらの人々に恐怖と怒りを感じつつも、何も言えないのです。私の心は未だに縛り付けられている、何かがおかしいと思いました。

そこで監禁中のことを振り返ってみると、監禁の中の精神状態は、いわゆる「洗脳」であった事に気づきました。監禁中の恐怖から、それらの人々の意見や意識に、私は無意識のうちに迎合する様になっていたのです。

そしてまた、その心の監禁の恐怖感は、5年経た今でも、続いてままで、心は縛り付けられたままの状態になっています。

何故なら、私の人権を完全に奪ったという監禁の恐怖が、監禁した側が全く理解していず、監禁を肯定しているからです。その為に、監禁後に、監禁のPTSDは、更に悪化していきました。

 

また、統一協会から娘を救うと言う名目で、実際に清水牧師や黒鳥伝道師の指示どおりに監禁の準備をし、自身の意思でないまま、指示に従っている、親達の姿を客観的に、目の当たりに見る機会がありました。皮肉にもその様な牧師の意のままに、自分の子供の人権を踏みにじることに疑問を感じず、黙々と従う救出関係者の姿から、(反カルトの)マインドコントロールにかかるとは、どういう事か、理解しました。

監禁を肯定し実行していこうとする彼らは、人間として対等に人と関わりを持つ事が出来ず、相手の罪や弱点を突く事で、自分の監禁される側の人間性を踏みにじる事を正当化します。

救うと言う善意の言葉の上で、他人の人間性を奪い、傷つける事は何も感じないばかりか、正しい行為であると言う意識です。

これは、カルトのマインドコントロールの意識と、変わらないと、私は思うのです。これは、「反カルトのマインドコントロール」だと感じました。


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