夜桜の憂い2

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マインドコントロールからのより良い救出の為の考察

1.カルト団体のマインドコントロール性

2.反カルト拉致監禁のマインドコントロール性

3.救出の為の考察(new)


1.カルト団体のマインドコントロール性

まずは、カルトと呼ばれる団体におけるマインドコントロールの特徴の主なものを記して検証してみる。

1.本人は正しい側に立っているつもりでいる。
マインドコントロールに掛かった被害者(以下、カルト被害者と呼ぶ)は、カルト被害者の言動の根底に流れているのは、自らの命を犠牲にした、世界平和、人類の平和である。例え、本来とは道の外れた行為を行っていたとしても、根底の善なる行いに通じていると信じ、身を削って行動する。

2.従って罪の意識がない。罪を繰り返す。
全ての行いが他に対しての悪意は微塵もなく、善意から為している事で有る。例え他の被害、 マインドコントロールの功罪の一次的被害(カルト被害者本人の人権侵害) 、二次的被害(他者への精神的物品的被害の加害者になる事)であっても、「やましいと感じてはいけない。善意なのだと」自身で言い聞かせ、納得させる。更に、正しい善なる行いと信じているので、その行動に喜びさえ感じる。この為、おかしいと思ったその行動を、何度も繰り返す事ができる。

3.主従関係を重視し、主に当たる人物(以下アベルと呼ぶ)の言動には絶対的な忠誠心で応える。
アベルは、神の代弁者と考える。従って、アベルの言動がおかしいと感じても、神の言葉なのだから「何か特別な意味が込められている」と感じ取らなければならない。その為、アベルの言動に決してそむく事が出来ず、おかしいと感じても、神の心(全世界の平和)に背く事になるので、反対におかしいと思った自分を責める事になる。また、アベルと、毎日「報告連絡相談」を必ず行いアベルの指導下に絶えずある。

4.責任転嫁。
こうしたアベルからの絶対命令から引き起こされる事柄には、事件性を帯びる事がある。詐欺行為、人権侵害、物品のマルチ商法、等々。此れによってカルトと関わりの無い人から、トラブルが起きることがしばしばある。しかしそれは、主であるアベルがやっても良いと言って、従であるカルト被害者が行う代換行為である。この為、主であるカルト団体に責任が向けられると、従である末端のカルト被害者が勝手に行ったと責任転嫁する。そして、末端信者の修行の足りなさから出て来た事として、、罪を洗い流す為の一時的な修行を一定期間積むことによって清算されると、信じている。社会での一般的なトラブル全てが、カルト団体や命令したアベルの「責任」では無く、不信仰な末端信者の責任に摩り替えられる。団体やアベルの変わりに、罪を刷り返られた末端のカルト被害者は、一定期間の修行を積むことで罪を教義上での清算を強いられ、社会的にも清算を強いられる事となる。

5.自らの過ちは目にみえない。
以上の精神状況下に有るので、社会的な過ちは、過ちとは認められない。カルト被害者自身の教義での過ちのみが過ちである。しかし、それさえも、過ちを洗い流す修行を勝手に行う事で清算されてしまう。

6.事実の歪曲、嘘をつく。カルト被害者自身に都合の言いように事実を摩り替える。
教義以外の外界との接触では、教義と反する事が幾つも起こる。教義に忠実で在ろうとすると、社会に反する事となる。そこで仕方なく社会に反した行動を起こす事となる。しかし、カルト被害者自身では教義に対しては正しい事を行っているので、そのためには社会に対して嘘を言っても良しとされる。社会に不誠実であっても、嘘も方便として、教義に忠実であろうとする。
また、詐欺などの事件は法で認められないとなると、そうした事件があたかも無かったかのような事実の歪曲を行う。これらはカルト団体やアベルの指示で、末端信者をも、同じような事実の歪曲を行うように、組織的に行われる。

7.根拠のない断定。
教義や聖典自体、人間が書いたものであって、例え神の代弁者が書いたものでも神自身が書いたものではない。しかし、あたかも神の言葉として教義を引用し、カルト団体の動向ならず社会一般の事象までもを、神の摂理とする。全てが神の摂理の元に歴史は動いていると信じている為、社会の事象も神の摂理と断定する。

8.自らの理論が一貫していない。
アベルの言う言葉がその時々によって変わる事がある。昨日悪しき事とされていた事が今日は良き事とされても、信じなければならない。此れも神の摂理の一部と考えるため、論理がその時々によって変わっていく。その為に言葉を巧みに利用し、無関係なものを不当に結びつけ、超自分勝手な言い訳をする。

9.権威を借りて発言する。
アベルは、アベル自身を神の近くにいるように見せかけねばならない。 しかし実際に神は目に見えず、祈りの中で神に出会うか、人との出会いで神を見る以外に、神を見る手段は無い。そこで、神の栄光に近いものを自分の近くに置くようにする。社会で神の栄光に近いものと短絡的に考え出された者が、権力者、政治家、国家主席、他の宗教の長老、などである。それらの人々と近しい関係である事で、神と近い人物であると錯覚させる。

10.自から敵を作り出し、戦う事で正当化する。
カルト被害者は正義のために、日夜悪と戦っている。その為には実際に悪の枢軸たる敵が居なくてはならない。そこで、教義を批判するもの、教義から引き離すものを、まず悪とみなす事はもちろんである。そればかり教義とは全く関係の無いものを、悪とでっち上げる。敵をとにかくたくさん作る事で危機感を募らせ、正義の使者としての臨戦体制を作り上げる。

11.マインドコントロールにかかっている人は、自らのコントロールに気づかない。
カルト被害者は、自身の行動全てが、正義の宗教であり、理念であると心の根底から信じているので、マインドコントロールの被害者であるとは思わない。

此れを図式に簡単にまとめるとこうなる。
神は善なる者として人間を創った。
        ↓
しかし、人間は悪の道に堕落し、社会は悪にまみれている。
        ↓
だが、カルト被害者は、神の善なる意識と元の世界に戻す教義を知る。
        ↓
この社会を、善なる神の意思の下、元に戻すべく、立ちはだかる悪を倒さなければならない。
        ↓
それには、神に近いアベルの言葉を聞き実行しなければならない。
        ↓
だから、例え社会から反発があっても当然である。そうした社会にはびこる悪と、闘う事が望まれているのだと思う。
        ↓
だから自分が社会的に犯した罪でも神の前では正しき事となる。
        ↓
どんな社会的な犯罪でも、嘘をついてでもやりとおさねばならない。
        ↓
何が何でも私は正しい。と、神は言っている。と、アベルも言う。


2.反カルト拉致監禁のマインドコントロール性

此れが驚くほど、カルトと呼ばれる団体におけるマインドコントロールの特徴と似ている。同じように検証してみる。教祖を牧師、信者を脱会父母、教義を脱会させる為には拉致監禁が不可欠である、と当てはめると判り易い。

1.本人は正しい側に立っているつもりでいる。
脱会父兄は、自分の言動の根底に流れているのは、「カルトは悪である。カルトが悪なのだから、とにかくそこからカルト被害者を脱会させたい。」と言う思いである。「とにかくカルトから、カルト被害者を脱会させたい」と言う個人的な願望である。そこで、カルト救出の為の方法を探し始める。
そこで脱会父兄は、カルト脱会を行っている脱会屋や脱会牧師と出会う。すると父兄は、脱会牧師から、カルトの悪と、其処から脱会させる為には、自らの財産や職業を犠牲にしても、カルトと闘わなくてはならないと言う刷り込みが、毎週のように行われる。そして更に、例えカルト被害者には拉致監禁という人権侵害と判っていても、脱会させるにはこの方法しかないのだと、刷り込みが行われる。
父兄は牧師によって、「とにかく、脱会させる事は良い事で、それには拉致監禁しか方法が無いのだ、その為に身を削って行動しなければならない」と、言い聞かせられ、信じ込まされる。

2.従って罪の意識がない。罪を繰り返す。
拉致監禁がカルト被害者に対しての悪意は微塵もなく、善意から為している事で有る。例えカルト被害者が、
マインドコントロールの功罪の三次的被害(拉致監禁による人権侵害)であっても、「やましいと感じてはいけない。善意なのだと」自身で言い聞かせ、納得させる。更に、正しい善なる行いと信じているので、拉致監禁手順を行うときなどは、喜びさえ感じる。この為、拉致監禁を、何度も繰り返す事ができる。

3.主従関係を重視し、主に当たる人物(主に脱会屋、牧師)の言動には絶対的な忠誠心で応える。
脱会父兄にとっては脱会牧師とは、人間として対等ではなく、脱会のスペシャリスト、人間としては聖人君子のような存在と考える。従って、牧師(主)父兄(従)の関係が出来上がる。脱会父兄は、脱会牧師しか、カルト被害者を脱会させる人はこの世には居ないのだと思う。また、牧師の言う事は全て正しい事なのだと思う。
従って、牧師が「法的に間違っても拉致監禁は正義なのです。」と言っても、おかしいと感じてはならない。おかしいと感じても、「拉致監禁しなければ絶対にマインドコントロールは解けない。」と言われれば、素直にその通りだと思ってしまう。牧師の気にそぐわない行動をすると、「貴方はもう此処に来なくていい。」と言われ、脱会させて貰えなくなるので、牧師の言動に決してそむく事が出来ない。
おかしいと感じても、聖人君子様の牧師様が言った事に背く事は厳禁で、反対におかしいと思った自分が間違っていると思い自分を責める事になる。また監禁中は、牧師と、毎日「報告連絡相談」を必ず行い牧師の指導下に絶えずある。

4.責任転嫁。
こうした脱会牧師から、主従関係にある脱会父母は、牧師から拉致監禁の「今やっても良い」という命令が下されると、その通りに拉致監禁行為を行う。
しかしそれは、主である牧師がやっても良いと言って、従である父母が行う代換行為である。この為、主である牧師に責任が向けられると、従である父母が勝手に行ったと責任転嫁する。監禁被害者が拉致監禁の被害が在っても、命令を下した牧師には、「責任」は無く、親子関係の良くなかった脱会父母の責任に摩り替えられる。
牧師の変わりに、罪を刷り返られた脱会父母は、牧師の言うと通り、「親子関係が悪かった」、あるいは「未だマインドコントロールが抜けていない」という言葉を信じている。拉致監禁を指示したためのPTSDが、牧師の「責任」では無く、「出来そこないの親せいだ」のと責任転嫁する。
従って、カリスマ化した牧師の拉致監禁を正当化し、実際に脱会父兄に行わせているという、悪質的な罪の清算は、脱会牧師達は全く考えていない。
また、脱会父兄も拉致監禁した事を、家族の過去の歴史から全く封印して、拉致監禁された痛みを見ようとはしていない。何故なら、自分は良い事をしてやったのだから感謝して当たり前だろうという思いがある。また、痛みを掘り起こさせるのが怖いと言う恐怖で、目をふさいでいる。此れも責任転嫁の一つである。
赤の他人ではなく、家族に拉致監禁された者は、家族に対し吐き気を催すような嫌悪感を持っていること、恐怖と怒りと絶望と不信感、他人への対人恐怖、閉塞した空間の恐怖など、このような拉致被害者の苦悩に、脱会父母は目を向けようとしない。

5.自らの過ちは目にみえない。
脱会牧師も脱会父母も以上の精神状況下に有るので、拉致監禁は社会的な過ちではあるが、感情的には過ちとは認めない。何故なら、カルトは悪で、そこからカルト被害者を救い出す事は善なる行いである。例え拉致監禁を行ってもそれは善なる行いと見なす。牧師もそう言っている。牧師先生の言う事にやった事には間違いはない。牧師先生の言う正義の元で行った事である。キリスト教自体でも、異端者を異端で無くす事は、神への忠誠の証である。法律がどうあろうと人権を踏みにじる事であろうと正しき事である。

6.事実の歪曲、嘘をつく。自分に都合の言いように事実を摩り替える。
脱会活動における拉致監禁は善であると確信している。しかし法ではそうとは認められない。法と反する事が幾つも起こる。しかし、自分では自らの正義に対しては正しい事を行っているので、そのためには社会や法に対して嘘を言っても良しとされる。そこで拉致監禁と言う違法な行為も、善なる活動としてを正当化する必要性がでてくる。社会に法的に不誠実であっても、嘘も方便として、拉致監禁が正義であろうとし、嘘の証言をする。
また、拉致監禁が法で認められないとなると、拉致監禁があたかも無かったかのような事実の歪曲を行う。これらは牧師の指示で、脱会父兄をも、同じような事実の歪曲を行うように、組織的に行われる。

7.根拠のない断定。
マインドコントロールの被害者は、それぞれ独自の観念、心情でマインドコントロールにかけられている。しかし、マインドコントロールに掛かった人間を、さも自己意識の無いロボット人間のように見下している。マインドコントロールはそんな表層的にロボット化する物ではない。深層心理に深く入り込み、それによってカルト被害者は、感情、感覚、言動、などを表現でき、深層心理は犯されては居るが、一己の人間として自覚を持って生きている。
しかし、脱会牧師や父兄は、そうした多様性を見出す事が出来ず、脱会させるための書籍などから、一つのカルト人物像を描き、その色眼鏡だけで、カルト被害者を見る。それゆえ、マインドコントロールに掛かっている人はこういう反応をするとか、心が凍りのように固まっているとか、ある人物像を作り上げて、それがカルト被害者全員に当てはめる。そして、彼らは特定の決まった思想をもっている、特定の行動を取ると、勝手に決め付ける。
しかし前述した通り、例え脱カルトのスペシャリストたる牧師の言葉でも、カルト被害者の反応は様々なのである。

8.自らの理論が一貫していない。
拉致監禁に携わる牧師が脱会父兄に言う言葉がその時々によって変わる事がある。牧師が突然、「明日其処に次の監禁者が入っていくから出て行きなさい」と言わ理不尽だと感じても、耐えなければならない。此れも脱会の為に、牧師に全て頼るしかないからである。脱会の為とは言いつつ、脱会活動と言うコンベアーにマニュアルどおりに載せられていくような感じを受けても、従うしかないのである。
従って、本来気持ちよくカルト被害者の心を解きほぐす場所を確保する。と言う本来の目的から外れてしまう。牧師は、その為に言葉を巧みに利用し、無関係な他の脱会者の確保の為と、不当に理屈を結びつけ、金銭面でのトラブル等などがあると超自分勝手な言い訳をする。
また、脱会カウンセラーと牧師は自身は宣伝しているが、マインドコントロールに付いては一切何も知らなかったりする。

9.権威を借りて発言する。
牧師はは、牧師自身を神の近くにいるように見せかけねばならない。 しかし実際に神は目に見えず、祈りの中で神に出会うか、人との出会いで神を見る以外に、神を見る手段は無い。そこで、神の栄光に近いものを自分の近くに置くようにする。社会で神の栄光に近いものと短絡的に考え出された者が、日本基督教団という組織である。日本基督教団自体は、此処の牧師の活動を把握しているわけではない。しかしその組織の人物として、また脱会カウンセラーとしてどれだけ多く脱会させたかと言う事で、脱会父兄から高い地位に居ると錯覚させる。

10.自から敵を作り出し、戦う事で正当化する。
自分は正義のために、日夜悪と戦っている。その為には実際に悪の枢軸たる敵が居なくてはならない。そこで、拉致監禁を批判するものを、まず悪とみなす事はもちろんである。個人の拉致監禁とは関係の無い、カルト団体を悪に上げる。カルト団体の動向をの悪行の数々をとにかくたくさん情報収集する事で危機感を募らせ、正義の使者としての臨戦体制を作り上げる。此れにより、更に拉致監禁の正当性を高める。

11.マインドコントロールにかかっている人は、自らのコントロールに気づかない。
キリスト教は正義の宗教であり、理念であると心の根底から信じているので、キリスト教を少しでも語る異端者は、悪である。その異端教義を広める事も悪である。また、法的に悪と見なされる行為も悪である。そうした悪を根絶する戦いに日夜励んでいるので、反カルトのマインドコントロールに掛かっているとは思わない。

此れを図式に簡単にまとめるとこうなる。
脱会父兄は社会で善なる者として自分の子供(カルト被害者)を育てた。
        ↓
しかし、子供はカルトに捕まった。カルト団体は悪にまみれている。
        ↓
だが、脱会父兄は、カルト脱会の為の組織、脱会屋や脱会牧師の存在を知る。
        ↓
この子供を、世間体の元、一般社会に戻すべく、子供を脱会させなければならない。
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それには、脱会スペシャリストの牧師の言葉を聞き実行しなければならない。
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だから、例え脱会したくない子供から反発があっても当然である。そうした悪に染まっている子供と、闘う事が望まれているのだと思う。
        ↓
だから自分が拉致監禁を行っても正しき事となる。
        ↓
どんな社会的な犯罪でも、嘘をついてでもやりとおさねばならない。
        ↓
何が何でも私は正しいと思う。牧師もそうだと言っている。


3.救出の為の考察

反カルト拉致監禁のマインドコントロールによる脱会者の被害

@Aの考察により、カルト団体のマインドコントロールと、拉致監禁のマインドコントロールの特徴が、いかに同一性の高いものであるかは、お気づきになっただろうか。次にこうした拉致監禁での脱会者の被害をまとめてみる。只、全ての脱会者が同じような発症をするとは限らない。独自で、カルトや反カルトの両方のマインドコントロールから抜け出た方も居ると考える。

1.脱会させただけではマインドコントロールは解けない。

拉致監禁は、こうした同一性の高い反カルトのマインドコントロールに、再び掛けていくだけである。従って脱会した者は、監禁した親や牧師や脱会屋に主従関係を持たせる事で、隷属させ、拉致監禁が正しい事だと思い込ませられる。
つまり、カルトの教義や隷属関係が、親、牧師への隷属関係に摩り替わっただけである。従って、自分が何によってカルトのコントロールのままに働いてきたのかが思考、と判断できない。
自分にとって恐怖だった拉致監禁体験を、自分でもそれが正しい事なのだと植え付けられてしまう。それにより、脱会しても尚、カルトは恐怖だ感じても、それが何故なのか判らない。そのため未だにカルトで言われた、「地獄に落ちる。」などと言う恐怖の言葉に苦しめられる。

また、拉致監禁の恐怖から、親や牧師の言うなりにしか言動できない。親や牧師の望む、一般的な社会人像を目指そうとする。
まず、脱会する事。→脱会者→悩み苦しむ期間を経る→社会人となる(結婚する)→嫌いだった家族とも仲良くなる、という救出ではお決まりの過程を踏んで、一人前の社会人となる事(脱会者と言う肩書きが消える)が求められ、それを行おうとする。
関わった牧師によっては、キリスト教者になる事を求められる事もある。
それを行わなければ、「あの子は未だ駄目だ(コントロールから抜けていない)」と言われ、その恐怖に怯える。これはカルトの路程(順序良く取るべき方向に進み一人前になる事)とそっくりである。自らの考えや情緒から生活するのではなく、一人前の社会人になるという反カルトのコントロールに掛かったままの状態は、本来の「魂の束縛を破る為の」救出とは呼べないと考える。
もしお決まりのコースを踏んだとしても、反カルトのマインドコントロールに掛かっていると言う事ではない。脱会者が自然と社会に溶け込めて行く人も勿論居る事は確かである。 只し、お決まりのコースを踏まなければ認められないと信じている人は、反カルトマインドコントロールの影響である。
この為、カルトが社会悪を生む悪いところだと感じても、拉致監禁から逃れるために、カルトに逃げ込む人が居るのである。

2.脱会者が拉致監禁の加害者になりえる事。

その為に牧師の言うなりになり、更に拉致監禁を手伝わせられたりという悪循環を生んでいる。
例えば、拉致監禁の手伝いとしてのドライバー役、拉致する役、警察を言い含める役、脱会しているかどうかの判断役、等々である。此れは明らかにカルト マインドコントロールの功罪の二次的被害(他者への精神的物品的被害の加害者になる事)と同一のものであると考える。

またそうした被害での、拉致監禁裁判の証言で、牧師只一人が有利なように、親や自分が加害者になろうとも、嘘の証言をする。
牧師は何も指示していない、主従関係もない連絡報告は一切していない等の証言をする。これも、カルト団体が(暗黙のうちにでも)指示した事でも、信者が勝手にやった事として、カルト団体そのものは罰されないようにする手法と変わりはない。
牧師の言いなりに、新たな拉致監禁の加害者となってしまった者は、その為に新たな心の痛みを生んでしまう事も十分考えられる。

3.拉致監禁のPTSDを発症する事

勿論全ての人が、拉致監禁のマインドコントロールに掛かり、PTSDを発症するわけではない。しかし、もし自分の心の中に以下に記す項目を感じる事が有り、生活に何らかの支障をきたすのであれば、PTSDの可能性を疑うべきである。
PTSDの病を背負った者は、毎日生き延びるのが精一杯なほどの鬱や、パニック障害に陥る。こうしたリスクを背負ってまで、拉致監禁をすべきではないと考える。

・拉致監禁の恐怖から、無意識の内に、親や牧師と極力仲良くしようとする。或いは恐怖があらわになり、拒絶する。
・いつ、誰に(特に身内に)何をされるか判らない恐怖の為、人間関係が破綻する。人間不信に陥る。あるいは、人間不信を隠すように振舞う。
・拉致監禁はまるで無かった事のように、振舞う。忘れようとする。
・拉致監禁は正しかったんだと思い込もうとする。このため心は拒絶し感情がなくなる。
・拉致監禁の話が家族で怖くて、家族の中で誰ともその話が出来ない。
・拉致監禁が悪いのではなく、親子問題が悪いのだと摩り替える。
・拉致監禁のトラウマがあることを認めるのが怖い。これは、拉致監禁が誤りの行為である事を公に示す事に繋がるからである。

・その他、私の場合には PTSDの発症に記した項目を発症している。PTSD度チェック PTSD.info

総論

何が人の人間性を剥奪し傷つけるものなのか、心を研ぎ澄ませていると、社会の中でも、いろいろなマインドコントロールが見えてきます。 こうした過去の経過と、社会の嫌な部分を見ていると、社会がカルトのマインドコントロールにだけ罪を追求し謝罪を要求するのは、とても馬鹿馬鹿しく思えます。日常の中で、堂々とコントロールの上で個人の人権を奪う様な事が、他にも多々行われています。

カルトを含め、救出という名目による監禁も、同じようにそうした個人の人権を奪う事であり、個人の精神を深く傷つけます。そうした人権を奪う全ての物事に、多くの人々が、より鋭く、気付き、そういった物事が無くなるように、願って止みません。

そしてまた、カルトからの救出が救出でなく、監禁とならないように、「反カルトのマインドコントロール」の無い、本人の人間性を否定しない・侮蔑しないと言う、本質的なカルトからの救出を、救済する側の意識の変革を望みます。

万が一監禁によって、マインドコントロールの痛みと共に、更に、監禁のPTSDと言う心の病をも抱えてしまった者への配慮も忘れないで欲しいと思うのです。

実際に、監禁中にカルトの間違いに気が付いたとしても、監禁により非人間的な扱いを受ける以上、その状況よりカルトの方が、よほど人道的だと判断し、カルトに帰っている方も居ます。

なぜなら、本来親が、親として子供の人権を最優先に考えることを全くしない事で、非人道的な扱いをする「家庭」というものに、愛を感じないからです。これにより親兄弟の愛情を感じないばかりか、信頼さえも奪われます。そして、過去の家族との過去の記憶も全て否定された様に感じ、懐かしい記憶も全て粉々に砕け散ります。これほど悲しい事が有るでしょうか。
そして最悪にも、カルトが悪い組織だと知っていても、社会、家族、親友知人、或いは職場で、それらの何処にも、帰ることが出来ませんません。

もう、この社会の中で自分の人格を尊重して扱ってくれ、生きていける場所は、間違いだと分かっていても、カルト以外に自分の身の安全を確保してくれるところが、現実的に存在しないのです。そこまで監禁から逃れた人々は、苦しみ続け、カルトにしか拠り所を無くしている現状が存在します。明らかに悪循環です。

私は、彼らも私と同じく拉致監禁のPTSDで傷つき病んでいると感じます。

その様な者達を、脱会関係者や救出牧師は、侮蔑し蔑んだ目で、馬鹿にし、罵倒し、ろくでも無い奴等だと称しています。でも、その様に帰るべき場所がカルトしかないという、悲惨な現状を生み出しているのは、肉親からの拉致監禁という、カルトに入っている者への侮蔑と否定、人権蹂躙によるものです。

私は、その様に、社会に認められない存在に追いやった、カルト脱会という名目で拉致監禁を行った者達には、責任が有ると感じています。

PTSDと言う病を持たずにカルトから救出できた人も居ますが、そうでない者も実際に存在する事を忘れないで下さい。PTSDに掛かって苦しんでいる者へ、その苦痛を与えてしまった者が、せめて責任逃れをせずに、その事実を認めて欲しいと思います。

監禁された者(カルトに身を置かざるを得なかった者も含めて)が、その被害に苦しんでいる以上、(カルトからの保護だと善意で思っている)監禁者も、その苦しみに対して理解し、それに対しての責任を負う必要が有ると思います。特に拉致監禁を指示した、日本督教団の清水牧師、黒鳥伝道師、及びそれらと同じ様な行動・発言・実行・指示をしている、カルト救出関係者に理解を求めるものです。


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