夜桜の苦悩1

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1.統一協会に入ったきっかけ

2.偽装脱会

3.監禁、PART1

4.半献身者時代(脱走後)


1.統一協会に入ったきっかけ

1991年12月
勤務先での知人の誘いで、自己啓発のセミナーのつもりで、統一協会とは知らず、ビデオセンターに行き始めました。
しかし最初は、特に深入りせずに、友人との友情にひびが入らない程度に、ある程度のところで辞めようと思っていました。
また、当初、統一原理も、私の考え方には反発する内容であり、受け入れられませんでした。

しかし、当時の私は、会社でも、家庭でも、誰も本来の私の姿、私の本音の部分を打ち明けられる人間が居ず、孤独な状況であった為に、原理は受け入れられなくても、ビデオセンターに通う事は、止められなくなっていきました。

と言うのも、私は子供の頃から、両親と心を通わせずに生きてきて、親からは、子供として、見捨てられていると感じていました。
親の存在は、物質的な援助をしてくれるだけの、他人だと感じていました。
事実、私が社会人として働き始めた時に、私は、親類の子供の居ない家庭に、養子に出されました。
そこでも、私が祝福で韓国人と結婚すると知るや、養子縁組を取り消されました。

そのような私には、ビデオセンターだけが、社会の中で私を認めてくれる、唯一の場所となり、精神の安らぎの場所として、通っていきました。

只それでも、原理にはなかなか馴染めず、研修生として籍を置いていました。


2.偽装脱会

1992年11月
一年ほど統一教会に入っていても、特に活動らしい事をせず、研修生として、通っていましたが、その事が両親に知られてしまいました。

私が統一教会に入っている事は、家族だけでなく親類縁者にも広まり、統一協会員が親族の中に居る事が、世間体が悪いという事で、親族の中で問題視されました。

両親でなく、叔父達が、私を統一教会からやめさせる為に話に来ました。
その時、具体的に親族から言われた内容は次のようなものでした。

・宗教に関わっている人はこれからに自分たちに金銭や財産を要求するだろう。
・宗教に入っている人は好きではない。
・特に、キリスト教や仏教のように日常的なものであればいいが、社会的に問題視されている創価学会や、統一協会は世間体が悪く、目障りである。
・韓国人も嫌いである。
・宗教に入ったら、親戚づきあいもできなくなり、親戚同士の和にひびが入る。
だから統一協会は止めてくれないか。ということでした。

私は、「親族の和」を理由に、自分の存在がないがしろにされている、と感じました。

私のことを心配するふりをして、本当は、自分の財産が大事なこと、そして親族の和を保つことが第一である事。その為には個人の自由な意思は犠牲にするべきだという観念、どれも親族全体の為には、私個人を尊重しようとはしない、勝手な内容に思いました。

いつも、その様な、「親族の和」からはみ出る行動は許されず、阻止され、親族の価値観に合う行動だけしか許されません。とても腹が立ち、悔しかったのです。

又、家族から献金させるだろうと勝手に決め付けているのも、腹が立ちました。
私は父の弟にあたる叔父が、やはり宗教に入っていて、度々祖父に無心に来ていた事を知っていましたし、その現場も見ていました。
その光景はとても嫌で、私も叔父に対して腹を立てていました。ですから、献金を自分の肉親や親族に献金させるということは考えてもいませんでした。

しかし、自分が全く信頼されていず、親族の財産をねらう者と見なされている事にがっかりしました。
特にいつも祖父に無心していた宗教家の叔父に、その様に言われたことに腹が立ちました。

また、宗教に入っただけで私が嫌いになるのかと聞いたところ、嫌いになれると、断言しました。そんな簡単に、私が、ただ宗教に入るというだけで嫌いになれることに唖然とし、今までの信頼関係は一体何だったのだろうと、呆れました。

過去子供の頃から、親族の為に、自分の存在はないがしろにされ、悔しい、苦しい、悲しい思いをしてきましたが、もうずっと、そんな感情は押し殺してしてきました。
心の中では不満が渦巻き、腹が立ちましたが、私の気持ちを理解してもらう事は、親族には無理であると思いました。
でも、親族の言いなりで、また自分の行動や意思、尊厳を奪われるのは、もう嫌でした。そんな風に、言いなりになる事には限界に来ていましたした。

そこで、私の自由を奪おうとするならば、意地でも統一教会を続けようと思いました。
原理の内容は矛盾していても、どうでもよくなりました。自分の意思や決めた事を意地でもやり通す事、その為の妨害には、決して負けない、という気持ちでした。
そこで、統一協会を辞めたふりをして、続けていこうと決心しました。
親族間に波風立てない、私が標準的な良い子を演じれば、親族は満足なのです。

そこで、叔父と父と共にビデオセンターに行き、統一教会を辞めるとアベルに伝えました。ただ、アベルには事前に偽装脱会である事を伝えました。
これらの行動は、アベルからの指示ではなく、全て自分の判断で行いました。

『注:「アベル」とは、神の代理人と名乗る教祖や協会の指示のもとに、「カイン」(受講生や管理される立場にある者)をコントロールし、行動や意識を監督し命令を指示する立場にある者である。』
そして、それからは、ビデオセンターに行けなくなりましたが、日々の電話連絡でアベルと気持ちを繋げました。彼女だけが、私の自由な心の理解者に感じたのです。

自分が自分としてある事は、たとえそれが多少世間一般の常識から外れ、問題視されているものであろうと、自分がやりたいと思った事をやり通す事でした。

特に、本来ならば差別され否定されるべき所に、隠れて身を置くという事は、親族の間では裏切り行為でしたが、敢えてその様な所に身を置いたのは、その様な人々への反発心からです。
「その様な社会的に最低の人間の私を人として存在を認められるか、こんな最低の人間を愛せるか。そんな者は人間じゃないと言うなら、私はそこに行く。」という挑戦状を、内心、親族達に叩き付けていたのです。


3.監禁、PART1

1994年5月中旬
偽装脱会から2年半、人とのぬくもりだけを求めて、統一協会に居ました。
特に活動らしい活動はせず、電話連絡と、たまに研修に通うくらいでしたが、親族達は、私がまた統一協会に入っていることを知った途端、私の知らない間に私の処遇をどうするか、という親族会議を裏でしていたようです。

当時私は自宅から協会に通い、家で話し合う機会も十分に有ったので、いつも通りに家に帰宅しました。

帰宅したとたん、突然親戚家族から、両腕を抱え込まれました。そして、話し合いをするという名目で、強制的に車に乗せられました。無論私は嫌だと言いました。しかし、強引に私の知らない、人目につかない山の別荘に、無理やり連れていかれました。

当然会社にも、連絡すら出来ず、行方不明状態となり、解雇されました。

そこに加わった親類縁者は15名ほど居て、常に私を取り囲み、私一人の力では、その部屋から出る事は出来ず、全く太刀打ちできない事を悟りました。
その場所から自分の意志では外出することも、他の人と接触することも、全て否定されました。まさに拉致監禁です。

まともに話をしても、自分の意志をきちんと聞いてもらうこともできず、何を話しても否定され、コントロールに掛かっている人間として馬鹿にされます。
監禁された人間としての根源的な怒りを表しても、コントロールに掛かっている人間はこういう顔をするんだと笑われました。屈辱的な思いでした。
原理に入っても、そのような人間としての侮蔑された根源的な怒りや悲しみ、屈辱と恐怖は感じることができたのです。

説得の内容は、前回の偽装脱会の時と全くそっくりです。結局のところ、私の精神の保護というよりも、親族の中に統一協会員が居るのは困る、自分達と同じ意識と考え方に取り戻したい、という事なのです。
無理やり自分達の意識に合わせるために、拘束されているだけで、対等な話し合いにもならず、私も、恐怖と怒りで考える余裕も有りません。

この時点で、親と親戚は完全に自分の存在を破壊する者でしかないことが、更に明らかになり、再び彼らの価値観と違う事をした時に、自分の人権を奪われる情況にされるだろうという恐怖で、親も親類たちも信じることはできなくなりました。

また、偽装脱会の時に出した「社会的に厄介者である最低の人間となった私を、人間として愛せるか」という挑戦状にたいして、
「たとえ親子親族であっても、人間扱いなどしない。また、『愛』などとは決してとても呼べない、とてもエゴイストで愚かな意識、また人権を蹂躙をすることを平気でする意識」、それらを答えとして返された様に感じられました。

もしここで脱出せずに、親戚や家族の言うなりに、統一協会を止めていら、一生、親戚や親の価値観の通りに行動する事を強いられる。
つまり親のコントロールの下に生きる、そんな自分の精神の自由の無い生涯を送ることになると思いました。

事実、私がこうした監禁に腹を立てて怒りの表情をすると、監禁者は「まだマインドコントロールに掛かっている。」と、思いったようです。
私は、それならば笑ってみようと、引きつりながら、にやけ笑いをし、「私、何だか間違っていた気がする。」と心にもない事を言うと、監禁者達は「マインドコントロールが取れてきた」、と思ったのか態度が急変し、監禁も緩やかになりました。バカみたいな話です。

こんな状況で、私の心は、一方的に自分の自由な意志、自由に考える力を、完全に無理やり拘束されていました。そして、私の心にも無い事をすると、初めて人間扱いされる、この事で、このまま多重人格を続けさせられたら、発狂するのではないかと、自分でも思いました。

自分の存在が全く無き者にされ、このままでは精神が殺されてしまうと感じました。そこで、精神の崩壊を防ぎ、精神的に生き残るために、脱出する決意をしました。
このため、親族の監視の目が緩んだところで12日目に脱出しました。

また、私が「より自分らしく生きる」ためには、原理を信じることが条件であっても、それによって、私の存在を保護し認めてくれる統一教会だけが、精神的にも、物理的にも、唯一の拠り所になったことを、実感しました。

その監禁場所から逃れて、唯一まともに自分を人間として扱ってくれる場所は、家族親族、社会の中には無く、もはや統一協会しか、残されていなかったのです。


4.半献身者時代(脱走後)

一回目の監禁の逃亡後、暫くは統一協会でかくまわれていました。
しかし、それまでトレーニング生で信仰も低かった為、半献身者として、籍を置きました。

匿われている間、外に出る事が危険だったので、協会活動は殆ど出来ませんでした。外に出ると恐怖で怖かった為、誰かが絶えず寄り添ってくれました。

また、その場所も危ないと思われると、いろいろな支部を転々としましたが、何も活動できない私を暖かく迎え入れてくれました。
今でも、ある支部の支部長さんが「この子は、何も出来ないけれど、ずっとここに置いてあげようね。」と副支部長のマザーと話していた光景が、胸に染みます。こんな働く部署で、働けない私を、とても人間的に扱ってくれる、その言葉は今でも忘れません。統一協会に入っていても、お金目的のロボットの様な人間では無いのです。

○マイクロ

その後、身元を隠す為、マイクロ(マイクロ車に乗って全国を巡り、車の中で生活しながら、ハンカチ売りをして、その代金を献金する)に2ヶ月間行きました。

でも、マイクロの思い出は、肉体的には苦しかったけれど、楽しかった思い出として、今でもくっきりと心の奥底から、浮かび上がります。

天の川が見える程、満天の星空のもと、「世界中の人が神の元に一人一人の人間として尊厳を持って関わり合う事で、本当の真の平和な世界が訪れるように」、と心から祈ったこと。
バケツをひっくり返したような、どしゃ降りの雨、雷が近くで、バシーンガキーンと唸っている。そんな、田んぼのまん真中を歩き、これで感電死したら殉教者に成れるんだろうかと思いつつ、それでも無我夢中で歩を進めたこと。

山形、新潟、秋田、青森と、東北の農業者の、土と共に生活している人々の純朴な暖かさに触れ、都会で育った私自身の心が洗われる様な驚きに、触れたこと。
例えば、夏の真っ盛り、淀みの無い映えた緑の山々に囲まれた、広大な田んぼの真中を、「この地球上で私達の祈りの届かない場所が無い様に」との願いを持って、ずっと向こうにあるたった一軒の家に向かって、ひたすら歩く。こんな自然に満ち溢れた道のりを妹と共に歩めたら、どれほど幸せだろうと思いました。
そして、そこに辿り着くと、その家の方が、「こんな遠くまで良く来てくれたねえ。」と本当に嬉しそうに喜んで迎え入れてくれ、冷たい麦茶とお茶菓子やら果物を何のためらいも無く、良い物を差し出してくれた事。
その中には、私を待ちわびていたかの様に、抱きしめてくれた人も居たこと。

マイクロのキャプテンが、「私たちが祈りながら歩いた足跡は、宇宙から見る地上の電気の光のように、神には光り輝いて見えるんだ。」と語り、その言葉を、私を含めメンバー皆が信じて歩き通したこと。
だから、どんなに暑い蒸し風呂のような(実際に40度近くは有ったと思う)車中で寿司詰め状態の就寝も出来たのだと思います。

マイクロ車内

人気の無くなった深夜の公園での食事や鍋洗い。公園のトイレでの歯磨き。田舎では深夜に営業している銭湯など無いので、公共の銭湯利用し(このため他のマイクロの部隊と出くわすことも有った。)それでも二日に一度しか入れなかった。
そんな普通の人から見れば過酷な生活でも、とても楽しく、ほのぼのと純粋で懐かしいのです。

ハンカチ売り自体は詐欺まがいの法に触れる行為で、今でも、ボランティアだと思って買ってくれた人々には、申し訳なく思っています。いつか何かの折に、私はこの人々の心を踏みにじった事を償いたいと思っています。
でも、私が歩いた道、訪ねた家、買ってくれた人々全てに、私はこの世界と人々に幸せ訪れることを、只純粋にそう祈り続けて居た事は確かな事です。

こうしたマイクロ生活全てが、私の生涯の経験の中では、本当に心温まる、涙が滲むように懐かしい、思い出でになりました。
しかし、私には体力的に厳しく辛い作業で、絶えられない事を訴えると、あっさりと降ろさせて貰う事になり、また、トレーニング生となりました。

○半献身者時代

私は、原理の信仰や教義の実践よりも、家庭の中で味わってこなかった、協会の中での人のぬくもりが欲しかったのです。
私は、どちらかと言うと、教祖である文鮮明ではなく、私と言う人間を、一個の幼い人間として、その存在を認め、守ってくれる神を信じていました。
神を信じる家庭生活にこそ、本当に信頼し、個人の尊厳を守れるような、家族を作り直す事が出来る、と思っていました。
原理には、変だと思える部分は沢山有るけれど、原理のその部分だけは信じていました。

私の場合、そうした部分が、マインドコントロールによって摩り替えらました。
神を信じる家庭や個人が世界中に増えれば、世界中の人々とみんな信じあえる。
個人を尊重した家庭や世界が築ける。
その為には、献金や伝道が必要だと思い込んだのです。

そして、祝福で神の名によって結婚すれば、今まで家庭で味わえなかった、幸せな家庭が必ず築けると信じ、それだけが私の希望でした。

研修で筍堀

しかし、伝道やハンカチ売りは、統一協会を名乗らずに行われている事に、いつも疑問をもち、どうしても馴染めませんでした。
したがって、統一協会に居た4年半のうち、実践活動(伝道、献金)は10ヶ月ほどしか出来ず、殆ど、トレーニング生として過ごしていました。

 

一回目の監禁後、しばらくは家族との連絡を絶っていましたが、私の家族も伝道する事で、幸せにしたいという思いから、私の方から、家族に連絡を取り、協会に居る事を伝えました。また、協会で度々会って、私の気持ちや学んでいる内容を伝えていました。

そして、家から、協会に私の必要な荷物を郵送してもらいましたが、そこで、届けてもらった、私の日記やメモ帳アドレス帖を見て驚きました。

私の日記には、勝手に「ここが重要」と書き込まれ、アンダーラインが引かれ、付箋紙が沢山貼られていました。家人親族みんなで、私の日記を回し読みしたのです。
メモ帳アドレス帖も同様でした。余りの侮辱に、怒りで震える思いでした。

また、墓守として子供が欲しいと言う親族に、私は養子に出されたのですが、私が祝福で韓国人と結婚すると知るや、韓国人は嫌いだし、どうせ土地やお金を狙っているのだろう。と勝手に決め付け、その親族から、養子縁組を破棄されました。

余りにも、自分個人の利益の為だけに、子供を貰ったり手放したり出来るその神経に、唖然とし、一個人として大事にされていない悔しさで一杯でした。

協会では、そうした家族親族の仕打ちの悲しみで、よく泣いていました。そして、協会活動にも参加できない程、落ち込んでいる私に、統一協会は、活動を無理強いする事無く、休ませてくれ、衣類も買い与えて、眼鏡まで作って貰い、居食住を全てを保障してくれました。

更に、あちこち体の悪かった私の医療費まで出してくれ、協会活動を休んで、医療に週3日も通うなどという、会社では問題視されるだろう事も、何の問題もなく受け入れてくれました。
その他に、お小遣いとして、月に1万円貰う事が出来ました。

私には、家族親族よりも、統一協会のほうが、ずっと人間的な扱いをしてくれている、と実感しました。


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