事務所のロッカーに入っていた黒のスーツとワイシャツは、ここで働き出してすぐにアルフォンスから『仕事で予備が必要になることもあるだろうから』と貰ったものだ。アルフォンスがいつも着ているものとサイズ違いのそれは見るからに上質で、俺が普段事務所で着ているスーツとは、もしかしたら値段にしてゼロ一個分は違うんじゃないかと思えるシロモノだ。
現物給与だと言われたから素直に受け取ったのだが、まだ俺の給与明細に制服代の文字を見た事はない。
とにかく、血まみれになってしまった服からそれに着替えた俺は、目を覚まさないアルフォンスのせめて上着だけでも替えられないか挑戦してみる事にした。
掌で触れた額は相変わらず熱く、ベッドの横でゴソゴソやってもまったく目を覚ます気配がない。
アルフォンスのワイシャツはこれでもかと言うくらい血が染み込んでしまっていて、これが再び真っ白になるのかどうか甚だ疑問であり、何より犬に咬まれた肩の部分には数ヵ所無残な穴が開いていた。よってこれはもう自分が新品を買ってやるしかないと、遠慮なくハサミを入れて、体の下から布切れになったシャツを抜く。
「すげ・・・・・」
こんな時だというのに、アルフォンスの裸の上半身を見て思わず感嘆の声を上げてしまった。
スーツの上からでもそうだろうとは思っていたが、これだけ無駄なく鍛え上げられた筋肉というのを間近で見るのは中々圧巻だ。さっき俺を庇った時の身のこなしと言い、屋敷内での作業時に垣間見えた余裕もすべて、アルフォンスが危険な場面に十分対処できるだけの能力を持っているという証明だ。
手早く汗を拭いた後、どうにか着せられないかと思った上着は結局着せる事を断念し、綿の毛布をもう一枚追加してやり、熱を測る。
「・・・・・・39.2℃・・・・・またちょっと上がったな・・・・」
ここに体を横たえてから、アルフォンスはまだ一度も目を覚まさない。熱はじわじわとではあるが上がる一方だし、できればそろそろ汗で湿ってしまっているシーツを替え、アルフォンス本人にも水分補給をさせてやらないと不味いだろう。しかしアルフォンスは鎖骨を骨折している上に肩の数か所に深い咬み傷を負っていて、本人の意識の無い状態で動かすのは極力避けたいところだ。俺はアルフォンスの耳元に近寄って、頬を控え目に叩きながら奴の名を呼んでみた。
「アル、おい・・・・アルフォンス?聞こえるか?アル?」
「・・・・・ん・・・・」
かすかに反応があり、瞼が少し動いてアルフォンスが小さな声で言葉を発した。目を覚ましたのかとホッとしながらアルフォンスの上に覆いかぶさるようにして顔を覗き込み・・・・・瞠目した。
アルフォンスが、泣いていたからだ。
泣きながら何事か呟いているアルフォンスに動揺した俺は、ただそれをオロオロと見下ろすばかりだ。
「・・・・・ごめん・・・・・ごめんよキャッシー・・・・・ごめん・・・・・ごめん・・・・」
詳しい歳は知らないが恐らく俺と似たり寄ったりの年頃の大人であるアルフォンスが、まるで子供のようにしゃくり上げながら『ごめん』と繰り返す。
「お前、キャッシーに詫びてんのか・・・・そうやって、ずっと・・・・・・・」
恐らく、その時から10年は経過しているだろう犬一匹の死に捕らわれ続けているのだ、こいつは。それを愚かだと笑う人間だっているだろう。でも俺は、こうやって泣きながら眠るアルフォンスに『馬鹿だな』という言葉を吐く事は出来なかった。
かく言う俺もまた、かつて兄弟同然に長年共に生きた犬を失くして以来、再び犬と暮らす事を避けていたからだ。
とはいえ、アルフォンスと俺の苦しみの質や程度が同じであるとは考えない。アルフォンスも俺も別の人間であり、犬だってまた其々で、取り巻く状況も全てが違うのだ。そもそも喪失によって受けた傷の度合いなど、受けた本人にしか分からないのは当たり前の事だ。
人は生きている以上、いつも大切な何かを失い続けるものだ。時に残酷に。時に無慈悲に。
アルフォンスや俺が特別な訳ではない。誰にもそれぞれ、その人なりの悲しみがある。その時受けた傷がどうなるのかもまた、人それぞれだ。
俺は犬を二度とは飼おうと思わなくなった。そして、アルフォンスは犬を怖がるようになった。
けれど、それはそれでいい・・・・と、俺はそう思うのだ。
眠りながらも、まだ流れ続ける涙を拭ってやりながら、この胸を締め付けるような痛みはなんだろうと、また考える。
しかし。
「・・・・分からん!まぁいいか。分からんことを考えても仕方ねぇ。とにかく水分入れてやんねぇとヤベェんだよ、今は」
俺は考えても答えの出ない問題をいつまでも考え続ける性分ではなかった。答えが存在するのなら、いずれはおのずと出てくるものだというのが持論だからだ。
それよりも問題は、これ以上の体液の減少を食い止めなければならないアルフォンスだ。ノックスの見立てが悪いとは言わないが、せめて生理食塩水の予備くらい余分に置いていって欲しかった。
・・・・・仕方がない。
ベッドの横に置いてある引き出し付きの小さなテーブルに用意していたスポーツ飲料のボトルをあおり、まずは口内を濯ぐ為にゴクゴクと飲んだ後、口に含んだ。アルフォンスの頭の下に差し入れた手で少しだけ持ち上げて角度を変え、もう片方の手で下唇を押し開いて、その隙間から液体を少しづつ流し込んでやる。
やはり相当水分を求めていたらしく眠ったままゴクリゴクリと飲みこむアルフォンスに、親鳥が雛に餌を与えるように繰り返し飲ませてやる。500ml入りのペットボトルは瞬く間に残り少なくなり、あとひと口で終わりかというところでアルフォンスの口から唇を離そうとした時、インカムに繋いでおいた壁掛けのスピーカーにハボックの声が入った。
『あー・・ターゲット宅前。ようやく動きがあった。聞いてるか?』
別にやましい事をしていた訳ではないのに、俺は馬鹿馬鹿しいくらい飛びあがってアルフォンスから身を離し、できるだけ平静を装い応じた。このアホのようにバクバクと騒ぎ立てる心臓は、どうにかならんものだろうか。
「・・・お疲れ。聞こえてるよ、ハボ」
『ターゲット宅に例の情婦と思われる女が入った。今撮った写真を解析中だが、ほぼ間違いねぇだろ。そっちの具合はどうだ?』
と、その問いかけに俺が答える前に、地獄の底から響く様な恐ろしい声が先に応えた。
「・・・・具合だと?お前のお陰で、たった今最悪になったところだよ、ハボック」
俺は再び飛び退った。
「アアアアアアアアアアアアアル!?」
ベッドに横になったまま、枕元にあったインカムを掴んでマイクを口許にあてているアルフォンスの形相は、まさしく・・・・・そう、悪魔のそれだった。これまでいくら声をかけても目を覚まさなかった男が、ギラリと眼光鋭くしっかりとスピーカーを睨みつけている。
『アチャ〜!空気読んでたつもりだったんだけどなぁ・・・・悪ィな、ボス』
「一体何年の付き合いになると思ってる?そこら辺は読んで然るべきだろ?僕の青春を返せ」
『ゴメン!だからゴメンって。でも、仕方ねぇだろーが。会話は聞こえねぇし、ベッドが軋む音とかアヤシイ息遣いとかもしねぇんだぞ?やるなら派手にやってくれねぇと分かんねぇっつの』
「・・・・シャイなもんでね。そこは悪かった。次からは派手にやるよう気をつけるよ」
そんな良く分からないやりとりに俺が首を傾げていると、いきなり完全仕事モードの顔になったアルフォンスが指示を出した。
「ハボ。タイミングからして、恐らくその女である可能性が高い。受信したデータをリアルタイムで此方にも回してくれ。そっちは怪しまれずに電波を拾う事だけに専念して。画像と音声の分析は極力此方でやる」
『了解ボス』
それから事務所内はにわかにあわただしくなった。身動きの取れないアルフォンスのかわりに、仮眠室に受信機器やパソコンや諸々を運び込みケーブルを繋げてセッティングし、ハボックと常に通信しながら送られてきたデータを処理して解析しやすい状態に変換していく。
盗聴した音声はスピーカーを通して部屋中に響き渡り、ベッド横のテーブルに置いたノートパソコンの画面にはターゲットと思しき女と先ほどの家の主人がなにやら怪しからん事を始める様子が映し出された。いや・・・・それを撮るのが目的なのだから、むしろ計画通りに順調に仕事が進んでいることを喜ぶべきなのだが。
しかし、肌を吸う生々しい音、荒い息遣い、布がこすれる音・・・・・・俺はどうにか平静を装いながらも頬が熱くなるのを抑えきれない。アルフォンスの方を覗き見れば、背中にクッションを当てて少しだけ上半身を起こした状態のまま、相変わらず仕事モードの顔で画面を注視している。
「ハボ、3番のマイクの感度を上げて。4番5番は落としていい」
「了解」
「エド、処理が終わったデータのバックアップとって」
「わ・・・・かった・・・・!」
画面に目をやったまま指示をしてくれて良かった。今の自分の顔を見られるのは勘弁して欲しい。きっと真っ赤で脳天から湯気が出てるに違いないだろうから。
俺は今度こそヘマはすまいと、どうにか気持ちを切り替えて仕事モードに持って行き、作業に没頭した。
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