「じゃあな」と言葉を交わしてそれで縁が切れたと思っていたのに、その翌朝7時30分、バイト先の中華そば屋の脂でくもったテーブルの赤い天坂に、優雅に置いた両手を組んでその男は俺にニッコリ笑いかけた。
余りの衝撃に、伝票を持つ手が一瞬震えた。そう、色々な意味で衝撃的過ぎた。
「昨日はどうもありがとう、エドワード君。ええと・・・じゃあ、アームストロング丼を得盛りセットで・・・・」
「なんでアンタこんなトコに居るんだよ?そんでどうして俺の名前知ってんだよ!?つーか、ウチはただでさえ盛りが良いんだぜ!?しかもアームストロング丼は肉と飯の割合が1:1の一度喰ったら当分勘弁したくなるボリュームの肉丼だし、得盛りセットつったらフツーサイズのチャーシュー麺に餃子1枚とデザートにモンブラン風のパフェまでついてくんだけど。そこら辺のコト、ちゃんと分かってんのか?」
「僕、大食いなんで大丈夫。あ、店長さん、三番テーブルにアム丼得盛りセット一人前入りまーす!」
「あいよ!アム丼トクモリいち〜!」
「ちょ・・・・何勝手に注文してんだよ!?俺がいるだろうが!この俺の手にある伝票が目に入らねぇのかお前は!?店長もフツーに客から直にオーダー受けてんじゃねぇよ!」
昨日初対面で、互いに名乗り合ってさえいないのに、どうして翌日バイト先に現れて厚かましく俺の名前を呼ぶ?
こんなゴミゴミした商店街にある安っぽい店に慣れている人間とはとても思えないのに、常連中の常連のような気安さでいきなり厨房にオーダーをかます図々しさは何事だ?
しかも、盛りの良さでは同業他店と一線を画しているウチは胃袋の大きさを誇るツワモノ共の間では名が知れている。そのウチにあるメニューの中でもボリューム最凶とされている(店内のポップでもそう警告している)アム丼の得盛りセットなんぞを注文する無謀な輩は、常連の中にもそう多くはいない。
ウチの店長はオーナーも兼ねているから、そこらの雇われ店長とは店の売上アップにかける意気込みがそもそも違う。だからこんな中華そば屋なんぞはせいぜい昼前からのんびり暖簾を出していればいいのに、大通り沿いのファミレスやフランチャイズの定食屋に要らん対抗意識を燃やし、今月に入ってから『中華そば屋の朝ごはんセット』なんてのを始めて7時から頑張っている。店は店長とバイトの俺二人だけで切り盛りしているから、俺の負担は半端ない。
とにかく、どのテーブルもほぼ埋まった満席状態の店内を見回しても、朝っぱらからアム丼得盛りセットを食っている恐竜のような無敵の胃袋を持った人間は居ない。ヤツ以外には。
「わぁ美味しそうだな!いただきます」
日々オカモチで鍛え上げている俺でも重いと感じる、動物園の餌みたいな量のセットをテーブルに置いてやっても、男は全く動じることなく相変わらずニコニコと嬉しそうに箸を取り、品良くおっとりとそれにとりかかる。
他の客たちも、朝の忙しい時間にも関わらず男の動向が気になるのか、チラチラと目線を送っていた。
そして十数分後、中華そば屋アームストロング軒の店内は拍手と歓声のるつぼと化していた。
「イケメン兄ちゃんすげぇぞ!何者だ!?」
「ありえねぇ!」
「おいオヤジ!次の替え玉そろそろ準備した方が良くねぇか?」
「いけいけ!俺が奢ったる。もっと食え!」
超超ロングとか超超超ロングとか穿いた鳶職らしき男達がそいつのテーブルを取り囲み、ヤンヤヤンヤと好き勝手に応援している。
もう8時回るんだけど、皆仕事行かなくていいんだろうか?
そいつはスーツの上を脱いで椅子の背もたれにかける時とネクタイを緩める時だけ手を止めたが、後はまったく同じペースで美味しそうにニコニコとアム丼得盛りセットを平らげ、信じがたい事に替え玉まで注文しやがった。それも二回。
「ああ美味しかった。ごちそうさまでした」
心底満たされた表情でそう言われてしまえば、ついつい此方もつられて笑顔になってしまう。
「おう、水飲むか?」
「ありがとう、エドワード君。ところでこれ、僕の名刺ね。昨日の御礼させてもらいたいな」
手にしたトレイにポンと名刺を置かれた。
フラメルデータサーチ・・・・・信用調査他各種調査・盗聴器探査・債権回収代行他・・・・代表 アルフォンス・エルリック――― とあった。会社は官公庁諸々がひしめきあうセントラルのど真ん中にあるようだ。HPのアドレスとフリーダイヤルの電話番号の下に携帯ナンバーだけが手書きで記されている。まるで『君とお近づきになりたいんだ』と熱っぽく言われているような気になってしまう俺は自意識過剰野郎だろうか。しかし俺を見上げてくる男の目の輝きがちょっと普通ではなさそうだ。冗談ではない。俺はこんな得体の知れない人間とお友達になんかなりたくない。
しかし一度受け取ったものを突き返すのも大人げないから仕方なくそれを尻のポケットにつっこんで、伝票の端に税込み合計額をサラサラと書いて男の目の前に置いた。
「なんだ、てっきり君の携帯ナンバーを書いてくれたのかと期待してしまったよ。残念だな」
「誰がそんなもんホイホイ教えるか!礼なんかいいから、懐くんじゃねぇ!」
俺が毛を逆立ててフーフー言い返すのにも全く気にしない様子で、男は最後までニコニコしながら丁度の金額をテーブルに置いて店を後にした。スープまで綺麗に平らげてある食器を見て、スープ作りに半端ない情熱を注いでいる店長は感動していたが、俺は考えるだけで胸やけを起こしそうだった。
「あれだけ食っといてスープまで飲み干していくとは・・・あいつアホだな。多分ウンザリしてもう二度とこの店には来ねぇだろう。は―・・・ウザかった」
礼云々というのは口先だけの挨拶で、あのアルフォンスという男は、昨日俺が手にしていた岡持ちにこの店の名が入っているのを見て単に興味を持っただけなのだろう。しかしこの店は盛りこそべらぼうで値段も安いからそこそこ流行っているが、味はたいして旨くない。安い金で量が欲しいブルーカラーなら分かるが、奴のような人間が好き好んで来るような店ではないのだ。
だからまた再びアイツがここに来るとは考えにくかった。
今度こそ、その男とはそれっきりの筈だったのだ。少なくとも、その時の俺はそう思っていた。
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