真っ暗な室内。壁に掛けられた大きな液晶パネルの眩しさに目を眇めながら、二人掛けのソファに身を沈ませていた僕は、組んでいた足をゆっくりと組みかえた。
『アヒ・・・・ッ!や、止めてくれ・・・止してくれ・・・!アアア―――ッ!!』
『止めろ止めろ言ってる癖に身体はエライ喜んでんじゃねぇか、エエ?まったく淫乱な先生だな』
画面には、コンクリートの台の上で両手両足を縛られ、足を大きく拡げられた格好の全裸の男が尻の穴に玩具やチューブを挿しこまれて泣き叫ぶ様子が映し出されていた。鼻水まで垂らして懇願を繰り返す男の周囲には、体躯の良いこれまた全裸の男達が幾人も居て、鼻息荒くその様子を見下ろしている。
『ヒィヒィ・・・・もうイヤだぁぁぁ!も、漏れるぅ―――ッ!』
『いいぜ、遠慮なくぶちまけちまいな。ほぅら、ムッキムキのお兄さん達が先生のケツの穴ガン見してるぜぇ?』
『見るな!見ないでくれ・・・・っあひぃぃぃ!!!』
至ってノーマルな性的嗜好の持ち主である僕は、ここまで観るのが限界だった。
再生を止めると画面が切り替わり、硬い口調のニュースキャスターが今日の株と為替の数字を読み上げ始める。
目の前のガラステーブルから取り上げたプラスチック製のパッケージには、目の部分に薄っすら申し訳程度のモザイク処理を施された長い黒髪の男が、筋肉隆々の複数の男達に凌辱されている様子を様々なアングルから撮影した写真がプリントされていて、その上には『エリート整形外科医凌辱』『スカトロ地獄』『24時間調教プレイ』『華麗なる包茎』などなど、下品で意味不明な文字達が躍っていた。
このゲイDVDの『制作責任者』の話によれば、内容はこのジャンルの他のどの作品と比較しても飛びぬけてハードで、およそ男優が金を積まれても敬遠するプレイをふんだんに盛り込んだ為、発売前から予約が殺到して現在大量に増版中とのことだった。
この作品がデビュー作となった主演男優の正体は言うまでもない。姉が医院長を務める病院で、整形外科医として現在も勤務しているキンブリー医師だ。
「まったく、リンの奴。相変わらずえげつない良い仕事をしてくれる・・・・」
わざとらしい溜息を吐きながらそう呟くも、僕の口元には抑えきれない笑みが浮かんでいた。
以前ホテルでエドワードを強姦しようとしたあの男共の時と同様、アンダーグラウンドな人脈を駆使して制裁をくわえようとした僕から獲物を横取りし、自分の営利を追求しつつ見事な報復をやってくれた友人の手腕と抜け目のなさには脱帽だ。
本人だと特定できそうで出来ないギリギリのモザイクワークのお陰で、キンブリーを脅す材料はまだまだ此方の手の内に残されていたから、僕はこれをネタに逃げるに逃げられないキンブリーを日々好き放題いたぶる事が出来る立場にあった。まぁ、今の僕はそんなに暇ではないからやらないが。
『お前ガこれ以上悪の道に手を染めタラ、坊ちゃんが悲しむダロ?代わりにボクが沢山続編を制作してやるカラ、お前の怒りはそれでおさめておけヨ』
そう言いつつホクホクと通帳の残額を確認する友人の真意がどこにあるか少々不審に思わないではなかったが、エドワードの為にこれ以上人を欺き傷つける行いは避けたい僕だったから、リン・ヤオの言葉に黙って頷いたのだった。
DVDをケースに納め、それを書架の自分用のスペースにさり気なく紛れ込ませたところで、玄関ドアの開く音がした。帰宅したその人が直ぐにリビングへとやってくるのが分かっていながら、それを待ち切れずに玄関まで走ってしまう自分の仔犬のような健気さはわりと嫌いじゃない。
「エド、お帰り。今日すごく寒かったでしょう?先にお風呂入る?」
季節外れの寒気団の到来の所為で、透き通る様に白い頬を赤くしたスーツ姿の恋人は、まだコートを脱いでいる途中だ。それさえ待ち切れずに抱きしめて冷たい唇に遠慮がちな、でも長いキスをした。
「んんん・・・・・っは、馬鹿アルッ!ちょっとくらい待てねぇのかお前・・・・オイ!」
片方の袖を抜いただけのコートをまとわりつかせたままの恋人を抱き上げ、ふわふわと幸せな気分でバスルームへと足を運ぶ僕に向けられる、ドスの効いた抗議の声。
ああ・・・今日もなんて素敵な声なんだろう、僕の恋人は。
「ふざけんな」とか「降ろせコノヤロウ」とか「脱がせながら触るんじゃねぇ変態!」とか・・・・・今この時はどんな言葉も甘く僕の耳を蕩かせるだけだ。
何のかんの言いながら、結局いつでも僕の好きなようにさせてくれるエドワードは瞬く間に一糸纏わぬ姿にされ、既にあたためてあったバスルームで優しく泡に包まれる。
まだ学生である僕は、社会人一年生のエドワードよりも帰宅が早い。だからいつも寄り道せずに真っすぐ帰宅し、食事の支度をして、部屋を暖め風呂の支度をし、新妻のように今か今かと彼の帰りを待ちわびる毎日だ。
この部屋で二人暮らし始めて、13日と20時間39分45秒。
僕はこれまでの灰色一色だった人生をまとめて取り戻すかのように、何をしても幸せで仕方ない日々を送っている。
感情というものをどこかに置き忘れたまま生まれてしまった僕は、エドワードに出逢うまで笑う事すら意識してやらなければ出来なかった。でも今の僕は、ほぼ24時間寝ても覚めても笑顔だ。こうなって最初の二、三日は流石に顔中が筋肉痛になったが、今ではもう笑顔が真顔として定着している。リンなどはそんな僕を気味悪がって、最近では用事があっても電話だけで済ませてしまい、以前は頻繁にこの部屋へやって来ていたのに、とうとう寄りつかなくなってしまった。もっともそれは、エドワードと二人きりで過ごす時間を満喫する為には好都合なのだけれど。
僕に体を洗われる事にすっかり慣れた恋人は、好きにさせながらも僕のシャツのボタンを外してくれる。ぶっきらぼうな仕草で僕の身体からシャツを脱がせると、今度はベルトに手をかけてズボンの前を寛げ・・・・・・そこでいつも、手が止まる。
俯き加減の表情をこっそりのぞき見れば、やはり今日もまた頬を薄っすらと赤く染め歯を食いしばった小さな顎をカタカタと震わせていた。
無理もない。以前の彼を思えば、僕の前で裸になって身体を洗わせてくれるだけでも奇跡といえる進歩なのだ。
エドワードという人は言動こそ荒っぽいけれど、一方でとても生真面目で繊細でストイックな性質の持ち主だ。ところが皮肉な事に、彼の両親は性風俗関連の事業を手広く展開していて、又彼らは性的なものに良くも悪くもオープン過ぎた為、エドワードは幼い頃から度々子供には刺激の強過ぎる性的なあれこれに遭遇しながら育った。その本質があまりにも純粋で人一倍不器用な上、まだ幼かった彼にとってこの状況は、彼に性的なものに対する嫌悪感を徹底的に植え付ける結果となってしまった。
しかし社会の中に身を置き、生身の身体を持っている限り、性と無関係に生きる事は不可能だ。やがて成長するにともない自身の中に矛盾という澱を生み出し続け、やがてそれが彼の心を蝕んだ。結果、彼は他者との性的な接触に病的な反応を示すまでに至った。
同じ男という性を持つ身として、多少の差はあれど、理解できる。自らの肉体が人として本能的に求める衝動を抑えつける為に、彼がどれだけ苦しんだのかが。それを求めてしまう自らの身体とそれを許す事が出来ない心の狭間で、きっと彼は日々自分を責め続けたに違いない。そして彼は、その方向が過ちなのだと言う誰の忠告すら頑なに受け入れなかった。
そんな彼が、ある日僕に言った。
性的なものを含めて誰かを求める自分を肯定する事が出来たのは、僕に出逢ったからだ・・・・と。
僕にしてみれば自分は彼から貰うばかりで、何も与えられずにいたというのに。それなのに彼は、そう言って幸せそうに・・・・・本当に幸せそうに笑った。
だからその時、僕は決めたのだった。
自分ひとりで暮らしていたこの部屋で、これからは彼と共に生活しようと。
本当は、自分が親からの援助を一切受けない身になってから改めて彼に申し出ようと思っていた。けれどエドワードのその言葉を聞いてしまえば、僕の中にあったそんな決意は簡単に砕け散った。意志の弱いだらしない男だと、笑うなら笑えばいい。初めて誰かを心から求めるという事を覚えた僕は、やっと得る事のできたその衝動をこれ以上無駄にするなんて、勿体なくて出来なかった。
そして、いざ彼との生活をスタートさせた僕を待ち受けていたのは、妄想を遥かに凌駕する幸せと、予想を遥かに凌駕する苦悶が交差する、先の予測がまったく出来ない日々だった。
病院の小さなベッドで、エドワードと想いを通わせ、初めて肌を触れ合わせて快感を分かち合った、あの夢のような時間。あの日から、もうすでに三カ月を数える今日まで、共に暮らしていながら僕とエドワードはまだ身体を繋げる行為にまでは至っていなかった。
彼が僕の前でその肌をあらわにしてくれた事、そして決して他人には許さないような場所までも僕の手で触れさせてくれた事、それだけで僕の中にある幸せの許容量が限界を超えてしまい、その後にあるステージに到達するまで思いのほか時間を要したからだ。けれど、やはりその時はやってきた。
無意味な仮定だけれど、もしこの身体が生身でなければ、僕はただひたすら甘いだけの日々の中で彼を大切に慈しんでいられただろう。けれど、哀しくも当たり前に、僕はいたって若く正常な生身の身体を有している訳で・・・・つまり、性的な衝動との闘いは避けられないのだった。
彼ともっと深く繋がりたい、一つになりたいという猛烈に生々しく、そして切実な欲求を自分の中にひとたび見つけてしまってから、僕は無意識の内に自分の身体が彼との性的な接触を求める様に動いてしまわないかと彼の前で身構えるようになった。ありていに言えば、僕はそれほどまでに飢えていた。
エドワードと出逢う以前の自分は、性的な事にこれほどまでガツガツした欲求を持っていなかった筈なのに。
そんな物騒極まりない欲望を身の内に育てる日々が続き、ある時ふと、僕は怖くなった。
この凄まじい欲望を、果たして自分は抑える事ができるのだろうか――――と。何よりも大切な彼に、どんな酷い事をしてしまうか知れない。抑えられる自信がない。
それを思った瞬間から、僕は恐怖のあまり、彼とある一定以上の触れ合いが出来なくなってしまった。
「後は自分で脱げよな」
そっけなく言いながら、僕の手からスポンジをひったくるとガシガシと乱暴に自らの身体を洗う。その無体な扱いにせっかくの白い肌が真っ赤になるのをオロオロと横目に見ながらも、彼の横顔には『もうこれ以上俺に触るんじゃねぇ』と書いてあるようで、大人しく服を脱いで自分の身体を洗い始めた。ふと下げた目線の先には、僅かに頭をもたげ始めている節操のない自分自身があって、僕はまたニポン国憲法前文を頭の中で諳んじる。
ガシガシと男前に身体を洗う彼と、その横でニポン国憲法前文を脳内再生しながらノロノロと身体を洗う僕。会話は、ない。
彼に触れたくて触れたくて、抑えきれない衝動のままこうして一緒に風呂に入ってしまう毎日だけど、いざ互いの素肌をさらけ出せば今度は自分の欲望が暴走して彼を傷つけてしまうのではという恐れに縮こまってしまう。一歩も踏み出せない。踏み出せないどころか日を追うごとに後退している。
彼を愛しているから大事にしたい。大事だから怖がらせたくない。怖がらせて嫌われてしまうのが、何よりも恐ろしい。だから、これ以上は出来ない。
それならば玄関先からバスルームへと強制連行して一緒に入浴なんてしなければいいのに、恋に浮かれた馬鹿な男は飽きもせずに毎日同じ過ちを繰り返している。
性行為の経験だけなら山ほどあっても、そこに心が伴っていないのならばノーカウントだとしみじみ思う。身体だけはしっかり穢れている癖に、僕の心は童貞のそれだった。その上、呆れるほどに臆病だった。
だからまったく余裕を失くしていて、彼の気持ちに気付けなかった。
いつもながら気まずい雰囲気で風呂を済ませた後、それでも夕食のテーブルではそれが無かった事のようにリラックスして笑いながら言葉を交わす彼と僕。
大手の法律事務所に就職したばかりのエドワードから貰う目まぐるしい一日の報告に興味深く聞き入っては、相槌を打ち時に笑い、時に眉をひそめ、また笑う。そして僕も大学での他愛ないあれこれを話して聞かせ、それに彼がくるくると表情を変えながら相槌を打つ。
こうして僕は彼との安全な距離を測る。
そうか。エドワードが安心できる僕との物理的な距離は、このテーブルをはさんで向かい合う分だけ必要なのだな・・・・・・と。
いつでも彼に触れていられたら、そんなに幸せな事はない。でもそれが彼に苦痛を与えてしまうのならば、僕は一生涯でも耐えられる。耐えてみせる。
人と心を通わせる経験がなかった自分の精神の未熟さを、僕は充分過ぎるほど自覚していたつもりだった。しかしその自覚は、あまりにも甘すぎた。彼の事を慮るつもりで、いつしか僕は自分の臆病さに心を乗っ取られていたのだ。
ぎくしゃくとした空気が二人の間を遠ざけるのは、最初は帰宅後唐突になだれ込む入浴中だけだった。それが次第に、日々のどうという事のない場面の端々に飛び火するように侵食していき、いつしか僕達の間で交わされるのは日常生活を共に営むただの同居人としての最低限のやりとりのみになりつつあった。
ただ気持ちだけが、現実と反比例するように加速度的に空回りを繰り返す。
それによって更に彼との距離が遠のくようで、また僕は輪をかけて臆病になる。
――――なんという悪循環。
老若男女問わず、どんな相手だろうと自在に手玉にとって利用してきたこの僕が。
彼を相手にした途端感情ばかりが自分の中で駆け巡って、挙げ句恐れるあまり逃げ腰になり、ついには唯一無二の愛する人を遠ざけようとすらしている。
ようやく奇跡のように出逢う事のできた彼が、自分の許から緩慢に離れていく。そのさまを、ただ手をこまねいて傍観するしか出来ない無力で臆病な僕。
彼を傷つけたくない。自分が傷つきたくない。ただひたすら恐怖に身を縮こませ、まるで殻にもぐり込む蝸牛のようになっていた。
そして・・・・・・・
そんな脆弱過ぎた僕に、当然の如く報いはやってきた。
「あのな、事後承諾でなんだけど、会社の最寄駅からふた駅のトコに掘り出し物の物件見つけてさ、来月からソッチに移ろうと思ってるんだ」
彼がわざと慌ただしい朝の時間帯にそれを言ったのは、きっと僕と向かい合って言うには大仰になりすぎるとの想いからだ。
彼は、そっと静かに、さりげなく僕との距離を開けようとしている。極力僕を傷つけることなく、僕と彼の関係を清算しようとしている。そう感じた。
朝食のテーブルで、トーストにバターナイフを滑らせていた僕の手が止まると、彼は付け足しのように慌てて言った。
「別にお前と住むのが嫌だとかそういうんじゃ全然ないんだ!ただここからだと職場まで二回乗り換えないといけなくて、やっぱ朝が厳しいし・・・・・お前だって夜遅くまで卒論やなんかで大変で朝はゆっくり眠ってたいのを俺の為に起きなきゃいけないし・・・・・」
まるで死刑宣告のようなそれを聞いても、僕に出来るのはわざと何でもないように穏やかに振舞う事だけだ。
「そう。エド、いつも朝起きるの辛そうだったもんね。会社からふた駅なら、今までより一時間は余裕できるかな。引っ越しはいつ?もし車が必要なら当てがあるよ」
何故こんな時ばかり、僕の口は滑らかに言葉を吐き出すのだろう。
僕の許を去って行くと言う彼をとても直視するのは辛くて目線を逸らした僕は、涙を堪える彼の表情を見落とした。
僕から離れたがっている彼を、これ以上煩わせてはいけない。今以上、彼に疎んじられるなんて、耐えられない。彼の望むまま綺麗に距離をとって、せめて出来得る限り彼の心の傍に居られる場所を確保しなくてはならない。
あまりにも自分本位な考えだった。そう、僕は・・・・・・・自分の事しか考えていなかったのだ。彼の気持ちを安易に決めつけて、あとは自分の立ち位置を得る事ばかりに腐心していた。
だから、またしても気付けなかった。
僕の出した朝食を綺麗に平らげてくれた彼が席を立つ時、その顔が哀しみに歪んでいた事に。
奇跡とも言える出逢い。そんな相手と過ごす日々は、困難がありはしても途方もない甘美な幸福に彩られているのだろう。僕はこれまでそんなふうに、まるで恋に恋する乙女のように漠然と考えていた。
けれど実際は、もっともっと遥かに衝撃的で、ただ暴風雨に弄ばれる小枝のごとく翻弄されるだけだった。後から後から際限なく湧き出でる生々しい欲望とどうにか折り合いをつけねばいけなくて、相手の一挙手一投足に一喜一憂し、死にそうなほどの絶頂を体験したその次の瞬間には地獄の底へとのめり込み、そしてまた些細な事で世界一幸福な男になり・・・・・・・とにかく、忙しいの一言に尽きた。
恋とは衝動。恋とは思いこみ。恋とは人生を彩る刹那の嵐。
ただのデータとして記憶していた先人達のアドバイスになるほどと納得する一方で、自分が彼に抱く気持ちはそんな薄っぺらでありきたりな言葉だけで表現できるものではないのだと、駄々をこねる自分がいる。
本当は、僕は分かっている。
この気持ちは、きっと誰もが経験するものなのだと。
ただこれだけは確信をもって言えた。この心にあるものはけっして『刹那』ではないのだ・・・・・・・と。
けれどそれは、彼を傷つけてしまうに違いない僕が、継続的に彼の傍に居ていい理由にはなりえない。
彼に触れる事への恐怖心がまた更に恐怖心を呼び、とうとうその肩に手を置く事すら出来なくなった頃、エドワードが部屋を移る日がやってきた。
僕は、最近のエドワードが僕の手をじっと見ているのを知っていた。僕が何かをする為手を動かすたびに、ビクリと身を竦ませては此方に気付かれないようそっと僕の手の動く先を窺っているのを。
彼は、切羽詰まった僕が数年前のあの日と同じく何かするのではと恐れているに違いなかった。
だから、今彼が部屋を移り住むというのは、きっと良い事なのだ。
元々彼の私物は僅かばかりで、彼の持ち物の大部分である大量の書籍はここに住むと決めた時に全てトランクルームに預けていたから、ちょっと旅行に行く程度の鞄ひとつで引っ越しは済んでしまう。
その日の朝、年季の入った革製のボストンバッグを肩に掛けたエドワードは、まるで斜向かいのコンビニに買い物に行くみたいにあっさりと部屋を出て行った。
「じゃあな」とにこやかに言いながら彼が開けた扉が・・・・・閉まる。
扉の向こうからは、遠ざかる靴音がまだ聞こえていた。
壁に寄りかかり、そのままずるずると膝を折り、座りこむ。
「これで・・・・良かったんだ・・・・・良かったんだ・・・・・」
エドワードを傷つけてしまうのなら、これで・・・・・。
―――――違う。
僕は本当は、彼を傷つける事が怖かったんじゃない。
彼に嫌われて、彼が僕の許から去ってしまうのが怖かったんだ。ただ、それだけだったんだ。
その結果、どうだろう。今まさに彼は僕の許から去って行くではないか。
これ以上怖いものなんて、何もない。ある筈がない。
立ち上がり、ぶつかるようにドアを開け、裸足のまま駆けだした。
ヘタレ過ぎですね・・・・il||li_○/ ̄|_il||li 嗚呼・・・・。
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