そうやって梨月の知らない間に桐吾と楓月が会っている頃。

『ハヤノ』を出たはいいが、まっすぐ家に帰る気にもならず、梨月は駅前をぶらぶらと歩いていた。

女の子の好きそうな雑貨屋などの店の並ぶこの通りは、普段あまり通らないのだが、家に帰るまでの時間を少し潰すにはちょうどいいくらいの遠回りだった。

 あいかわらずちらちらと送られる視線には無頓着にぼうっと歩いていると、

「ちょっと君!」

 と声をかけられる。

 何気なく振り向くと、そこには知った顔があった。

「あ……」

「やっぱり!あなた、桐吾のマンションの前で会った子よね?」

 そこにいたのは、前に桐吾と車で出かけていった女性だった。

(なんでこんなところに?)

 疑問が顔に出ていたのか、その女性、さやかは雑貨屋らしい店を指差すと

「あれ、私の店なの。ねえ、今ヒマ?」

 とにっこりと言った。

「え……と、ひま、ですけど」

「じゃ、ちょっといらっしゃい」

 なんとなく逆らえないような雰囲気で、忙しいと言ってさっさと帰ることができなかった梨月は、ぐいぐいと引っ張られるようにして店に連れて行かれた。

 店内に入ると途端に、店の雰囲気からして若い女性客しかいないのだが、その客から一斉に注目を浴びる。

 その様子にさやかはくすりと笑うと、

「なんだか有名人みたいね?」

 とからかうように言った。

「……」

 黙ったままの梨月に構わずに、さやかは店の奥まで進むとドアを開ける。どうやら事務所らしいその中に通された梨月が手持ち無沙汰に立っていると、

「そこ座ってて」

 とソファを勧められたのでおとなしく座る事にした。

 しばらくしてコーヒーを手に戻ってくると

「どうぞ」

 と手渡される。

「ありがとうございます……」

 ここにきて、梨月は自分の行動に後悔していた。

(なんでついてきちゃったんだろう)

 それに、一体俺に何の用があるというのだろう。

 手渡されたカップをじっと見つめて考えていると、その様子を黙って見ていたさやかが口を開いた。

「ええと、まずは自己紹介ね。あたしは、ここの店のオーナーの中浪(なかなみ)さやかです」

「小瀬梨月です……」

「で、単刀直入に聞くわね。梨月君、桐吾とはどういう関係?」

 言葉通りの単刀直入な質問にどきりとする。

 これは、どういう意味で取ればいいのだろう。

桐吾との関係を勘繰って邪魔をするな、という釘刺しなのだろうか?だとしたら、

「あなたが、気にするような関係じゃないです。あの人は、俺のバイト先に来る客で…」

「ちょっと待って、気にする、ってどういうことかしら?」

「だって…つきあってるんじゃ?」

「は?誰が?……って、あたしと桐吾が?!」

 それ以外に誰がいるというのだろう、と訝しげに見ていると、突然さやかが笑い出した。

「あはははっやめて、もうやめてよーっ」

 驚いた様子で見ている梨月の横で、さやかはおなかを抱える勢いで笑っている。

「え、だって……」

 あの時の二人は、どう見ても恋人同士というのがしっくりくる雰囲気だった。

「あいつは、えっと、高校の頃の桐吾の彼女とあたしが部活で先輩後輩の仲だったのね。それでなんとなく顔合わせるようになって。まあようするに気が合っただけのただの友達。ちなみにあたしが先輩ね」

「そう、ですか」

「そうなのよ。で、今あいつは仕事の取引先の営業マン」

「取引……?」

 そういえば、桐吾の仕事のことなど、プライベートを殆どしらない。

 社会人だということだけ知っているが、その仕事がどんなものなのかなど、そういった話をしたことは一度もなかった。

「桐吾の仕事、何してるか知らない?」

「はい」

「あいつはね、輸入雑貨扱ってる会社にいるのよ。大きな家具から小物まで色々ね。その中でうちには、ちょっとした家具……ほら、あの辺に置いてあるアンティークっぽい椅子なんかもそうなんだけど、友達のよしみでちょっとお安く仕入れさせていただいてるってわけ」

さやかがドアの窓から見える店内の椅子を指差して言った。

「へえ」

 桐吾とそこにあるアンティークな椅子とのイメージが繋がらず、不思議な気分になる。

「あいつ、結構使えるのよ。こっちが希望するイメージを掴むのがうまくて、ぴったりのものを探し出してくれるの。うちのお客様の希望で急に連絡してもいつでも来てくれて、要求に応えてくれるような、やり手の営業マン、だったんだけど」

 一旦言葉を切ると、さやかは梨月に向き直って、

「ここ最近は、何故か定時になったらとっとと退社しちゃって、まったく連絡がつかなくなる、とっても使えない男になっちゃったのよね」

 とため息をついた。

「……はあ」

 それを俺に言われても、と梨月は少し眉根を寄せる。

 何故そんな話になったのか。ここで、他人から桐吾の話を聞いている事に胸がもやもやとする。

「あいつ、仕入れのために自分で海外に足を運ぶのなんてしょっちゅうだったのに、それもどうやら誰かに押し付けちゃってるみたいでね。あ、あいつあんなでも結構立場的には上の方なのよね。だから下の子たちなんて、急に海外に行かされたりして、大変だったと思うのよねぇ……って、まあこの話はどうでもいいんだけど、ようするに」

 そしてまた言葉を区切った後、今度はじっと梨月を検分するように見つめた。

 あからさまな視線に居心地が悪くなって、梨月は顔を背けるようにして俯けた。

「うーーん。こうしてみると、ほんっときれいよねぇ。まさかとは思ったけど……いや、もう……ほんとびっくり」

「は?」

 話がまったく見えなくなって、外した視線を元に戻した。

 さやかは感心したようにしみじみと梨月の顔を見つめた後、ふと笑みを漏らす。

「ああごめんなさいね。いや、実はね、この前みたいな桐吾を見るのって初めてだったから、ずっとあなたのこと気になってたのよね」

「この前って……」

 マンション前で初めてさやかと桐吾がいるのを見かけたときの事だろうか。

「梨月君を追いかけて行って戻ってきた桐吾、盛大なため息ばっかりついちゃってね。もうほんとうっとおしくて、すっごく……おもしろかったわー」

「おもしろい……って」

 この人の話の内容のどこにおもしろみがあるのか理解できずに呆気にとられてしまう。

「だってあいつ、女に不自由したことないうえに、自分から行動したことすらないすんごい嫌味なやつなのよ」

「はあ……」

他人から語られる桐吾の過去に、梨月はそんな権利もないのに静かに傷ついてしまう。

「それなのに、考え込むように何度もため息ついちゃって……あの日は仕事の呼び出しを何回か後回しにしたお詫びに奢らせてたんだけど、こっちの話にも上の空って感じで。いやもう、おかげであの日はめずらしい桐吾を肴にして、いつにも増しておいしいお酒だったわ」

 とにっこり言うさやかは、かなりの、桐吾の上をいくすばらしい性格をしているらしかった。

 語られる内容は梨月の心を波立たせるけれど、だけどさやか自身はなんだか嫌味がなくて、梨月はこの人のパワフルさに自然と好感を持った。

「過去を知ってるからこそ、余計にあんな桐吾がめずらしいってのがわかるのよね。その理由が何かな〜って気になってて……そこにたまたま店の前にあなたがいるのを見かけちゃったから、ついついナンパしちゃったの」

 ごめんね。とおどけた様子で言うのに思わず笑ってしまう。

そんな梨月の笑顔を見たさやかは、

「あら……ちょっともう」

 と梨月の両肩をがしっと掴むと「ああもう、なんて可愛いの!」とそのままぎゅうっと抱きしめられてしまった。

「ちょっ……あ、あの」

 急な展開についていけず、避け損ねてしまった梨月はそのままどうする事も出来ずにさやかの胸の中で硬直する。店の方で黄色い声が聞こえたような気がするが、それどころではなかった。

 さやかは思う存分梨月を堪能した後、固まったままの梨月を名残惜しげに離した。

「桐吾がそっちもいけるとはまったく知らなかったけど、うん、梨月君ならありよね」

「?」

 また話が見えなくなってしまった。

「あ、言っておくけど、桐吾とあたしは今も過去もまったく何の関係もないからね」

「はあ……俺もまったく関係ないですけど……」

 まったく、は本当は嘘だが。

そんなことを念を押して言われても……と首をかしげていると、

「ねえ、ちょっとなんか、反応が鈍いわね。それに関係ないって、ええと、どういう事かしら?」

「いや、どういうもなにも……」

 さっきからさやかが言うことの意味がいまいちわからない梨月には、なんと応えていいのかすらわからない。

「あたしね、最初梨月君みたいな子が、あいつの毒牙にかかって迷惑してるなら、どうにかしてあげようかと思ったのよね。でもあの夜の桐吾の様子だとそうでもないみたいだったし。かといって知らないまま放置しておくこともできない性分なもんだから、ついつい声なんかかけちゃったんだけど……」

 どうやらさやかは、梨月と付き合っている桐吾が、過去見たことのない様子なのが気になったので相手の梨月に興味が湧いた、ということらしい。

 だがそれはとんだ勘違いだ。

「毒牙も何も、そもそも俺とあいつってそんな関係じゃないですし」

 少しだけ垣間見えた桐吾の過去。経験豊富そうな感じはしたが、本当に梨月もそのうちの一人にすぎないだろうことがわかって少なからずショックを受けていた。

「そうなの?えーでも……うーん」

さやかは少し考え込むようにしていたが、

「ねえ、梨月君は、桐吾のこと嫌い?」

と確かめるように聞いた。

嫌いか……?そう考えて、むしろその逆の感情が浮かぶ。

「別に、嫌いってわけじゃないですけど」

「じゃあ好き?」

「……」

 心の言葉が聞こえてしまったのかと思いどきりとする。

 好き、だ。

 そう思うと、心をぎゅと鷲掴みにされたように痛くなる。

 忘れるどころか、まだこんなに、前よりもっと好きになっている。

 考えれば考えるほど、胸が痛くてどんどん切なくなってくる。

 そんな梨月を黙ってしばらく見ていたさやかは、

「あーんもう。そんな顔されちゃったら、ついつい構いたくなっちゃうじゃないのよ」

と眉を寄せて言った。

「なに言って…」

「ねえ、なんだかとっても複雑そうだから、あたしなんかが横から口を出しちゃだめなんだろうけど……」

そう言って、梨月の目をじっと覗き込む。

「そんな思いつめた顔してるくらいなら、いっそ吐き出しちゃいなさいよ。部外者のあたしにだからこそ言えるってこともあるでしょ?」

「別に思いつめてなんか……」

「好きかって聞かれてあれだけ考えちゃうのって、それだけ相手のこと想ってるってことの現われだと思うのよね……違ったらごめんね」

パワフルで強者なイメージだったのに、そう話すさやかの言葉は慈愛に満ちていて、今までさんざん周りには認めずにいたことなのに、素直に言葉が心に入ってくる。

そして、思わず言葉がするりとあふれ出していた。

「俺なんて、相手にされてないっていうか……」

「そう、かしら?」

「ほんとに、俺なんかあいつの過去の相手の中の一人に過ぎないっていうか……」

(なんでこんなこともまで話しちゃってるんだろう)

楓月や涼平にすら話さなかった事を、会って間もない相手に吐き出してしまっている。

「俺とあいつは、ほんと全然そんなんじゃないし」

「……」

 その告白を、さやかは違う意味で少し驚いて聞いていた。

(過去の相手と比較してるってことは……もう手を出されちゃってるってことよね)

「とにかく、もういいんです」

そう言って静かに納得したように話す梨月は、自分で自覚していないのだろうか。自分がどんなに痛々しい顔で笑っているのかを。

(ったく、桐吾のやつ……)

桐吾の過去や性格を知ってはいたが、まさか梨月相手に既に手を出しているとは正直思ってもみなかったので、さやかは呆れる一方で、しかし桐吾の気持ちもわからなくはないと思ってしまう。

(こんな子目の前にして、桐吾が黙ってられるわけないわよね)

でも……ちょっとコレ犯罪ものよ。

あの夜のいつもと違う桐吾の様子はこれでなんとなく納得できたのだが、だが何が梨月をここまで頑なにさせているのだろう。

 桐吾と関係があったのなら、お互い一応意思の疎通があったはずだろう。桐吾の様子からは、遊びで相手をした感じはまったくなかった。遊びの相手に対して、あそこまで気にかけることはないだろう。だとしたら、一体なにが梨月をこんなにも否定的な考えにさせているのだろうか。

「ねえ、ちょっと聞いてもいいかしら?」

「なんですか?」

「あいつ、一体なにをやらかしたの?」

さやかは回りくどい言い方は性に合わないので、はっきりと聞く。その潔さがなんだか好ましく感じて、梨月は素直に答えた。

「……別に何も、ただ、後悔してるって言われただけで……」

 そう、その一言を言われただけなのだが、それこそが梨月を頑なな心に縛ってしまっているのだ。

「後悔って、やだあいつ、そんな事言ったの?」

「はい…」

 つくづく失礼な男だわ。

でも、後悔してるのだったら、桐吾のあの様子はなんなのだろう。後悔して落ち込んでいるというのとは、少し違う気がするのだ。

あれは、なんというか、相手にどう切り出せばいいのかわからないような。もっとこう、初恋に思い悩む中学生、みたいな見てるこっちが恥ずかしくなるような……。

でもそれだと梨月の言うことと、桐吾の様子がかみ合わない。

「ねえ、それ本当にそう言ったの?なんかいまいち納得いかないっていうか……桐吾とちゃんと話したの?」

事細かに聞かれて、さすがに梨月もだんだんと口が重くなっていく。

「いえ。あの……もういいんです」

 少しだけ吐き出した後はまた殻に閉じこもったような梨月の様子に、さやかはこれ以上立ち入れないものを感じた。でもそれはあまりにも悲しすぎる。

 どこかで絡まってしまっているだけの糸は、ちょっとほぐれたら直ぐにうまく繋がるはずなのだ。だが、

「そうね…あなたたちの問題に部外者のあたしが変に口出して、余計かきまわしちゃったら大変だもの……」

 深い知り合いでもない自分に、これ以上関わる権利はない。

さやかは気分を変えるように立ち上がると、机の引き出しから一枚の写真を取り出した。

「これね、あたしの愛する大切な人」

 いきなり手渡された写真を受け取って見ると、そこには桐吾より少し年上らしい男の人と、その人に抱えられた3才くらいの可愛い女の子が写っていた。

「これ……」

「そ、あたしの旦那と娘。今は旦那よりも娘の方に愛を注いじゃってるけどね」

 と軽くウインクして言った。

 なんだか、女の人なのにすごくかっこいい。

 この人のパワーの源は、母親だから、というのもあるのかもしれない。

「でね、梨月君を見て、あなたみたいな子供だったらもう一人欲しいわ、って思っちゃったのよね今」

「えっと……」

 話しの脈略が辿れず、どう答えればいいか迷っていると。

「あたしすっごく梨月君気に入っちゃったの。だからもあなたは私にとって大切な存在よ。だから、たとえ梨月君自身でも、その存在を苦しめたらゆるさないわ」

めっ、と梨月の額を軽く小突く。

「桐吾の事はどうでもいいってのが本音だけど……」

小突いた手をそのまま梨月の頭に乗せ、ゆっくりと撫でながら言った。

「ちゃんと、本当の心に素直になってあげないと、自分がかわいそうよ」

そうやって優しく触れられる部分から温かいものがじわりと浸透していく。

梨月はふいに、胸が熱くなって唇を噛んだ。

「……何かあったらいつでもいらっしゃい。誰にも言えない相談でもなんでも聞いてあげる。もちろん、桐吾がなんかしたらあたしがとっちめてやるわ」

 おどけたように言うさやかの姿を見て、梨月の心はすこしだけ軽くなり、力が湧いてきた。

 

 

 

 

 

なんだかすごい人だったな。

 たった今出会った人の強烈さにまだ少しあてられぎみな梨月は、今起きた出来事を反芻していた。

 さやかとは携帯ナンバーとアドレスを交換して別れた。

 もうどうせ相手にされていない、と口にした事で自覚してしまった自分の想い。

 後悔されたことに固執したようにこだわってしまう自分。好きだから、だからこそ会うのが怖い。話をするのが怖い。

 臆病な自分があまりにも情けなくて笑ってしまう。

 でも。そんな自分でも。さやかのように大切だと言ってくれる人がいる。

 なんかそれって、すごく嬉しい。

 店を出てとぼとぼと歩きながら考えていると、後ろから「りっちゅ」と声をかけられた。

振り返ると、用があると分かれたはずの楓月だった。

「あれ楓月。用は終わったのか?」

楓月は梨月の横に来ると、にっこりと笑って言った。

「うん。りっちゅはこんな時間まで何してたの?」

「別に、ぶらぶらしてただけ」

「ふぅん」

ちょっと首を傾げて不思議そうにしていたが、すぐに梨月の腕を掴むと、

「一緒にかえろ」

と歩き出す。

並んで歩きながら何気ない話をしていたが、楓月がふと思い出したように梨月を見た。

「そうだりっちゅ、明日は学校終わったら寄り道しないでまっすぐ帰ってきてね」

「は?なんでだよ」

「いいから!『ハヤノ』にも寄らないんだよ、すぐ帰って来ること。わかった?」

「……わかったけど」

 どうせ嫌だと言っても聞かないのだこの兄は。

 梨月が頷くと、楓月は小指を絡ませる。

「よし。約束ね」

 そんな子供っぽい事をしても、妙に似合ってしまう楓月に、梨月は苦笑するのだった。






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