不機嫌な恋情 第1話
「そこ、邪魔なんだけど」
その声に振り返ると、出勤前らしいスーツ姿の男が半透明のゴミ袋をさげ、憮然とした様子で俺たちの前に立っていた。突然のことで何も言えずにいると、男はほれどけ、とでもいう様に俺の胸に掴みかかったままのそいつと俺の間をすり抜けると、後ろにあったゴミ収集所にぽん、とそのゴミを置いた。そして振り返りもせずに、用は終わったとばかりにさっさとその場を離れて行こうとした。
俺は、そんな場合では全くなかったのだが、今の自分の立場も忘れその男の横顔をぼーっと見ていた。すっと通った目鼻立ち、色も何もいじってなさそうな黒い髪はゆるく後ろになでつけてあって、いかにもサラリーマン風。顔を見上げる形になるので、170pそこそこの俺よりきっと10p以上は高い身長。年は30代前半くらい。
(きっとすごいモテるんだろうな〜)と呑気なことを考えていたのを、
「ちょっと待てよおっさん」
不愉快そうな声で現実に戻された。
* * *
そもそもの事の起こりは、30分ほど前。
まだはっきりしない眠い目をこすりながら、市内の高校に通う
「ちょっと待てよ」
毎日通るマンションの前で呼び止められて振り向くと、他校の制服を着た男が立っていた。
いつもと変わらない朝のはずが、剣呑なその男の雰囲気でまた余計な事に巻き込まれたのを知る。そういえば何度か、
(ああ、またか…)
うんざりとそいつを見た。
こういった事は実際今回が初めてではなく、名前すら知らないそいつ相手にいい加減にしてくれ、と怒鳴りつけたくなってしまう。
同じ遺伝子を持つ兄の、同じ顔をしていながらさっぱり違うその趣味嗜好にはいつも悩まされる。
こんなヤツのどこがいいんだか。制服を着ているので年は俺と多分変わらないくらいだろう。背はまあまあ高いけど、なんだかひょろひょろしてて、ガラも悪い。あんまり友達にもなりたくないタイプだ。梨月は心の中でそう分析していた。
そいつはイライラした様子で腕を組み、睨み付けるように見ていたが、ただ見返すだけで一向に言葉を発さない梨月に、焦れたようにずかずかと向かってきた。乱暴に腕を掴んで引っ張り寄せると声を荒げてまくし立てる。
「一体どういうつもりだよ!あれっきり顔も見せなくなりやがって。携帯に連絡しようとても一切繋がんねえし、何考えてんだよ!」
一体どういう付き合いをしていたのか知らないが、いつも何故トラブルになるような事をしでかすんだ。しかもそれにかなりの確立で巻き込まれなきゃならない俺ってかなり不幸だよな。自分で撒いた種はしっかり自分で処理しろってんだ。
梨月は心の中で毒づくが、言葉には出さない。黙ったままでいるのが気に入らないのか、そいつはますます声を荒げた。
「あんだけ良くしてやっただろ!おまえだって十分たのしんでたじゃねーかっ、一体何が不満だったってんだよ!」
(うわあ……)
今の言葉でどんな付き合いか解ってしまった。
でもそれを、人目も気にせず大声で言うのもどうかと……咄嗟に廻りを見回したが、たまたま今は人通りがなくほっとした。
「何黙ってんだよ、何とか言ったらどうなんだよ!」
(めんどくせえなあ)
梨月はまるで他人事のように思った。
そもそも自分に身に覚えのない事だし、朝から余分なエネルギーを使うのも面倒だったので黙って過ごせればと思っていたが……。
どうせちょっとやそっとじゃ諦めなさそうなカンジだし。と俺はおもむろに口をあけた。
「あのさあ」
毎回巻き込まれる事の苛立ちがピークに達していて、声も態度も不遜なものになる。
「こっちが黙ってたらごちゃごちゃと、うるっせえんだよ!そんなんだから見限られたんじゃねーの? 大体、男に逃げられましたっつうのを大声でわめいてて、自分で恥ずかしくねえ?」
「な……っ」
驚いて目を見張ったそいつから、掴まれた腕を振りほどく。
楓月の事だから、随分大きな猫を被っていたのだろう。砂を吐くような甘ったるいセリフを聞き慣れているだろうそいつは、まさかこんな口汚く返されるとは夢にも思わなかったようだ。
「っんと、楓月の趣味疑うわ俺。なんだってこんなヤツ相手にしてたんだか」
「な……なんだよおまえ……っ何言ってんだよ」
「うるせーな、待ち伏せしてんのもキモイんだよ。つうか相手をよく見てから言え。ばーか」
言うだけ言って、もう話は終わったとばかりにさっさと行こうとした。
「ご、誤魔化そうとしたってそうはいくか!絶対別れねえからな!」
そう言って、力任せに右腕を掴まれ引き戻される。
やれやれ、と思いながら振り返ると、梨月を見るそいつの目はなんだか血走っていて、ますますうっとうしくなる。
「誤魔化すも何も、あんたさ、自分が付き合ってた相手くらい、ちゃんと覚えてねえの?」「なに言ってやがんだてめえ」
「なにって……俺、あんたみたいなやつと付き合った覚え、全く無いんだけど。つか、あんたみたいなやつとはまず付き合わないね。そっこーお断り」
「……っよくそんな事が言えるな。てめえから声かけてきたくせに」
うわ、楓月から誘ったのかよ。ほんとサイアク。双子ながら、ほんっとわかんねぇ。
「だから、それがそもそもちがうつってんだろ。俺じゃねえよそれ」
「そんな見え透いた嘘で誤魔化せると思ってんのか?なめんじゃねぇよ!」
だから、違うつってんのに。どうしても別れを認めたくない事だけに必死なのか、こちらの言う事に耳を貸そうともしない。どころか、ますます剣呑な雰囲気になってきた。
(あー、ちょいヤバいかな)
そう思って「はなせよ」と手を振り払おうとしたが。
「バカにすんのもいい加減にしろよ!」
掴んだ右手を頭の上に固定され、ゴミ収集所らしいその場所を囲ってある金網に思い切り押し付けられた。
「痛っ、何すんだ!」
自由なままの左手で押しのけようとしたが、反対の手で制服の襟元を掴み上げられた。掴んだ手をはずそうとするが、がっちりと掴まれていてびくともしない。そのまま襟が首を絞めるような形になっていて、だんだん息苦しくなる。相手にケリを入れようとしたが、体ごと金網に押し付けられていてままならない。
それでもなんとか逃れようともがいたが、苦しくて力が入らずどうにもならない。澱んだ目をした相手の顔が近づいてきたのを途方に暮れて見ていた。
うわあ、やだな。息が荒くて気持ち悪い。
避けようとしたがやはり思うように動けず、それでもなんとか顔の向きを少しだけ逸らした直後に、相手の唇が頬をかすめた。
(なんで今に限って人が通ってないんだ)
さっきは誰もいなかったことにほっとしたが、今はその事を心底呪った。
「逃がさねえよ」
「…っめろ…!…」
もう一度近づいてくる相手の顔を見ながら、楓月のばかやろう、と心の中で毒づく。
でもその一方で、どうせ逃れられないんだったら、余計な怪我はしたくないし、顔は全く好みじゃなかったがまあ、しょうがないか、と冷めて諦めた気分にもなる。
ああもう、どうでもいいか、と目を閉じたその時。
「そこ、邪魔なんだけど」
マンションから出てきたらしい男が、呆れたような憮然としたような顔で立っていた。
* * *
さっきまで梨月を押さえ込み無理やりキスしようとしていたそいつは、不意をつかれて一瞬呆気に取られていたようだが、はっと我に返ったように言った。
「ちょっと待てよおっさん」
自分の今の状況も忘れ、ついつい男に見惚れていた梨月は、その声でふと現実に戻された。
「邪魔しときながら、そのまま挨拶もなしかよ」
(挨拶って……チンピラかよこいつ)
他人事のように、そいつのあまりの言い様に呆れてしまう。
さっさと行こうとしていた男はため息をついて立ち止まると、何とも不本意そうな顔で振り返った。
「おっさん、はやめてくれ。せめてお兄さんにしてもらえないかな」
「はぁ?」
あまりの場違いな答えに、振り返った理由はそこかよ、と梨月も呆気にとられる。
「いや、でもおまえらの年代からすると、俺はもうおっさんなのか? うわー、やだね。がっかりだな」
まるで世間話でもするようなのんびりしたその態度は、今この状況の中ではかなり浮いている。敵意向き出しの相手を前に、あくまでのほほんとした態度ではいるが、しかしその目は言葉ほど茫洋としたものではなかった。
(へんなやつ)
この場にそぐわない位妙に落ち着いていて、今の自分の状況を一瞬忘れそうになるのだが、その落ち着いた態度の中に微妙な威圧感を覚える。
「おまえら学校はどうした学校は、お子様はとっとと勉強しに行け」
言っている事はいたって常識的で、言い方もさして強くはないのだが、逆らえないような響きがあるのは気のせいではない。
なんだろ、怪しいお仕事の人でもなさそうだけどな。むしろスーツの似合うかっこいいサラリーマン、みたいな雰囲気なのに。と不思議な思いで見ていたのだが、
「何言ってんだよてめえ。頭おかしいんじゃねーか?」
突然の横やりに少しうろたえていたそいつは、吐き捨てるように言った。
相手にするのばからしい、とばかりに梨月の腕を再び掴んだ。
「なんだよしつこいな。離せよ!」
この状況でまだなんかすんのかよ。ほんっと楓月の趣味わっりぃの。
「いいからこっちに来い!」
「はなせっつってんだろっ、いい加減にしろよ!」
抵抗するのを、無駄な馬鹿力でもって引き摺られていこうとしたその時。
「おいガキ共」
今まで揉める様子を黙って見ていた男が、それでもまだ危機感の無い声で言った。
案の定、そんな男を相手にするのもばからしいのか「うるせえな!」と梨月の腕を取ったまま尚も引き摺っていこうとする。
ああ、もうほんとにこいつっ、
「しつっけぇんだよ!」
「だまれ!」
力任せに抵抗するのに、一歩も引こうとしないしつこさに、半ば諦めかけたのだが、
「もうその辺にしときな」
と、今度は低く響く声で言った。
梨月は、男の温度が急に下がったような錯覚を起こした。
だが苛立ちと思うようにいかない焦りで、そんな変化にも気づけないでいるそいつは、ついには男に向かって行く。
「俺たちはこれから、あんたの言う通りお勉強しに行くんだから、カンケーねえおっさんは引っ込んでろよ!」
一体何の勉強なんだか。
呆れながら心で突っ込みを入れる梨月の前で、そのままそいつは男に殴りかかろうとした。
(あ、やめといた方が……)
振り上げた腕を一瞬早く掴まれ、案の定そいつはじたばたと悲鳴を上げてもがいた。
やっぱな。腕っ節も強そうな感じがしたんだよな、と自分の予想が当たったのを、ため息の出る思いで見た。
「いてえ! 離せよてめえ!」
(なっさけねえの)さっきまで梨月にさんざん突っかかってきていた勢いはすっかりなりを潜め、痛みに顔を歪めている様子には呆れてしまう。
(声がでかいのだけは変わらねえけど)
「……ガキが、時と場所も考えずいちゃいちゃしやがって、うぜえなあと思ってたけど」
言いながらぐい、とつかんだ腕を捻り上げる。
「いてえっ!」
「ほんと、ろくでもねえな」
大声で怒鳴っているわけでもないのに、その静かな淡々としたしゃべり方に背筋がひやりとする。
「関わりあうのも面倒だと思ったが、邪魔だったんでな。事情は良く知らないが、あんま騒いでると、マンションの管理人に警察呼ばれるぞ」
警察、という言葉に梨月もどきりとする。まったく身に覚えのない事で警察沙汰にでもなったらたまったもんじゃない。
「冗談じゃねえ! くそ、離せよ!」
そいつもそれは一緒だったらしく、焦って男から腕を振りほどいた。
「てめえ、覚えてろよ!」
捻り上げられて痛む腕を抱えて男を睨みつけると、梨月を突き飛ばすようにして急いで走って行ってしまった。
あまりの呆気なさに、言い返すこともできないまま呆然と見送ってしまった。
(ほんとチンピラみてえ。そもそもてめえが誰かも知らねーっつの)
はぁ、とため息をつきながら、とりあえず乱れたシャツを整えた。
(一体なんだったんだ。ほんと、今日は朝からついてない)
自分の身に振りかかった災難にうんざりすると、ぽつりとつぶやく声が聞こえた。
「覚えてろよーって、まるでチンピラの捨て台詞だな」
さっきまでのひやりとした温度とはうって変わって、呆れたように走っていく姿を見ていた男は、こっちに向き直るとおどけたように言った。
考えていたのと同じこと言われ、思わず苦笑が漏れる。
「あー……ええと…」
(一応、助けてもらった事になるんだよな)
お礼を言わなければと口を開きかけたが、次の言葉でそのまま固まってしまう。
「おまえ……趣味わりぃよな」
「は?……」
「あー…、まあ人の好みをとやかく言うつもりもないけど……付き合う相手はもうちょっと選んだ方がいいと思うぞ。それと言っちゃなんだが、痴話喧嘩はもうちょっと時と場所を考えてやってくれ」
言うつもりもない、と言ったそばから言っている矛盾に、自分でもバツが悪そうに頭を掻きながら、じゃあな、とそのまま行こうとする男を呆然と見つめた。
付き合う相手ってもしかして、力任せに胸元掴み上げて、無理やりキスしようとしてたあいつの事だろうか。
しかも、今のが痴話喧嘩だと?
何を言われたか理解していくうちに、梨月の頭にかぁっ、と血が昇っていった。
「待てよおっさん」
自分で思っていたより大きな声が出た。
当然、感謝の気持ちなどどこかにふっとんでしまった。
「おっさん、おっさん言うな。これでもまだ31なんだから」
この期に及んでもまだそんな事を言って、不満そうに肩をすくめるその仕草に更にかちんとくる。
「いい加減うぜえよあんた。31なんて十分おっさんだろうが!」
「そうか?これでもまだまだイケると思うんだけどなあ」
「はあ?何がどうイケるってんだよ、十分曲がり角だっつぅの」
男は面白いものでも見るようにひょいと眉を上げた。
「……さっきも思ったが、おまえ顔に似合わず随分威勢がイイよな」
「うるせぇ!ほんと、何なんだよあんた。つうか、何見てたワケ?なにが痴話喧嘩だ。ばっかじゃねえの!」
肩で息をするように捲くし立てて怒鳴るが、ちっとも気がおさまらない。一瞬でもありがたく思った自分が悔しい。とんだ勘違い野郎だ。
いつもならこんな言われ方をした所で、軽くかわして終わりなのに、何故か無性に腹が立ち、そんな自分にもまたイライラしてしまう。
「さっきのどこを見てそんな事言えんだよ。あんなのと俺が付き合ってるわけねえだろ!その目、ちょっとおかしいんじゃねえの?」
「ああ? 俺は目はいいぞ。両目とも1.5だ」
「だからそういう事言ってんじゃねえんだよ! 頭もいっちまってんのかよおっさん。ったく、もういい!」
一向に相手にならないこんなヤツに怒鳴ってるのもバカらしくなってきた。やってられないと力を抜いてため息をついた。
そいつは腕を組んで、面白そうにじっと観察するように梨月を見ている。
さっきまで思うままぽんぽん言っていた梨月だが、言うだけ言って一息ついたら、何をされたわけでもないのに急に居心地が悪くなる。ふと男と目が合うと、そのまま視線を外せなくなってしまう。こっちが先に目を逸らしたら負けなような気がして悔しい、と梨月はその目を睨むように見返した。
あぁもう、なんだよこれ、なんでこんなおっさんとにらめっこしなきゃなんないんだ。
そんな状態にも焦れてきて、もうどうでもいいや、と視線を逸らしたら、
「なんだ、もう終わりか?」
とつまらなそうに男が言った。
その言葉を無視してさっさと行こうとした時、男がニヤリと笑みをこぼした。
「さっきの、付き合ってない相手だって?」
そう言っていかにも腑に落ちないとでもいうような様子で肩を竦める。
その芝居がかった動きが勘に触る。おどけているようで、その実油断ならない相手の様子に緊張する。でもそんな事おくびにも出さずに梨月は言った。
「そうだよ、話したのだってさっきがはじめてだ」
「ふーん……はじめてねえ。それにしちゃ俺にはおまえが、あのまま犯されても平気な様に見えたがな」
どきっとした。
(……なんだこいつ)
「おまえ、抵抗らしい抵抗なんてほんのちょっとしかしてなかっただろ? 本気で嫌がってもいないし」
「な、に言って……」
「強姦されそうなヤバイ現場だったら、俺だってもうちょっとちゃんとした対応してたさ。でもおまえ、なんつうか、本気で逃げてねえし。しょうがねえなぁとか、めんどくさいっつうか、どうでもいいような感じだったから……俺はてっきり痴話喧嘩でもしてんのかと思ったんだよ」
「……」
「そもそもこんな朝っぱらのこんな場所じゃなきゃ、俺だってわざわざ他人の痴話喧嘩になんか割って入りゃしねえよ」
一体いつから見ていたんだろう。
最初は抵抗していたが、最後にはもうどうでもよくなっていたのは確かだ。
あのままキスされていたとしても、たかがキスだし、たいした事はない、と平気でいたかもしれない。でもそれはあくまで無駄に怪我をしたくなかったというだけで、その行為に対して全く抵抗がなかったという事ではない。
「だけど、へえ。はじめて会った、ねえ」
男はニヤリとした表情のまま梨月の頭から下を検分するように見た。
「……なにが言いたいんだよ」
「いや、最近のコーコーセーはすげえなぁ、と思ってさ。こんな所で、初対面の男同士で平気でキスしたりできるんだから」
男同士を強調されて、羞恥で顔が赤くなるのがわかった。
言い返したいが、多少誤解はあるものの事実なので何も言い返せない。
ああもうくそ、早く行っちまいてぇ。
思わぬ所で、初対面の相手に本音を見透かされてしまい、わずかに動揺する。
「まあ、おまえくらいのツラなら、その気にならなくもないがな」
「な、に言ってんだよ」
むっとして見た男の空気が、また変わったような気がした。さっきのひやりとするような感じとも違う、それはもっと、何か体中に重く纏わりつくような、どう表現したらいいかよくはわからないものだったけれど。
男が近寄って来て、その手を梨月の顎にかける。
そのまま上向かせられると、ゆっくりと親指で唇をなぞられる。性的な匂いのするその行為に、羞恥と、ワケのわからない感覚にぞくりとした。
「っ勝手に触んな!」
動揺を知られたくなくて、焦ってその手を叩き落とす。
(なんなんだこいつ)
そのときはじめて怖い、と思った。
今まで、大人の男を怖いと感じたことなどなかった。それはセックスする相手でも同じで、こんな接触も過去に何度もあったのに、こんな背筋がぞくぞくするような感覚は今まで経験したことのないものだった。
(こんなヤツに…たかが口を触られただけで)
だが快感と呼ぶには、梨月にとってそれはあまりにも理不尽な気がした。
触れられた唇をごしごし手の甲でこすると、梨月は必死に男を睨む。
口を軽く引き上げ、笑みを浮かべたような表情で、男はじっとこちらを見ていた。
「まあ、俺には関係ないけどな。そもそも俺は、ゴミ捨てんのに邪魔だったおまえらがどいてくれりゃそれでよかったんだし」
何を言ってもするりとかわされる、見えない相手と対峙しているような、こんな状況から一刻も早く抜け出したかった。そのまま背を向けてさっさと行ってしまえばいいのに、出来ないでいる。
なんでそのままここにいるのか、梨月は自分の行動が理解できないでいた。
つうか、逃げたら負けじゃん。さっきの奴と一緒になっちまう。
「まあ、そっちの邪魔もしちゃったみたいだから、おあいこってとこだよな」
「何がおあいこだ、意味わかんねえ」
「いや、ほら、俺がおまえらのいちゃいちゃの邪魔して、おまえらは俺のゴミ捨ての邪魔して」
「だからいちゃいちゃとか言うなよ!それがおっさんだっつってんじゃねぇか!」
そもそもいちゃいちゃなんてしてないし。
なんで、こういちいちこいつの言動が勘に触るのだろう。
そしてどうして、変ににうろたえてしまうんだろう。
「くそっ、なんだよあんた。助けてくれたと思ったのに変な事言うし……っもう、なんなんだよ!」
子供の癇癪のようにわめくと、負けでもなんでもいい、と今度こそ踵を返して行こうとした。
「待てよ」
またあの何ともいえない空気だ。
今日は何度待てと言われる日だろう。
(むかつく)
引き止める声を、今度は完全に無視した。
朝から楓月の尻拭いで余計な時間を取ったから、周りにはもう制服姿の学生どころか、出勤前の人の通りもない。梨月ももちろん遅刻だ。その上こんなのに付き合ってたら、とことん疲れてしまう。
もう今日は学校行くのやめて、涼平のとこ行こ。
今この現実から逃避したくて、喫茶店で働く幼馴染みを思い浮かべて歩き出した梨月の腕を、男はぐい、と引っ張り寄せた。
だから、もう……っ。
「なにすん……っ!」
抗議は最後まで言えず、言葉は相手の口に吸い込まれる。
驚いて男の胸をどんどん叩くが、そんなに力をいれてる感じでもないのにがっちり抱え込まれていてびくともしない。その事に梨月は軽いパニックに陥る。
「…やっ……め……!」
男のキスは巧みだった。不意打ちだったから口を閉じることも出来ず、深く合わせられたそこから、くちゅくちゅとわざと淫猥な音を立てるように、口腔を隈なく蹂躙される。
「ん…っ……はっ」
逃げ惑う舌を逃がさないように強く吸われ、他人が触れた事の無い場所まで舐められる。上顎の歯の内側を舌でくすぐられて、そんなところが感じるのかと、初めて知らされる。息苦しいのにどうやって息をしていいかもわからず、気が遠くなりかけた頃ようやく開放された。その時にはもう、腰が抜けたように力が入らなくなっていた。
何が起きたかうまく理解できない頭で、はあはあと息を整えてそいつを見上げると、男は濡れた唇を親指で拭った。
それが先ほど自分の唇に触れた指だとわかると、大人の男の艶かしいようなその仕草に梨月は思わず目を逸らした。
おさまらない動悸と飲み込めない状況にしばらく戸惑っていたが、落ち着いてくるとだんだんと怒りがこみ上げてくる。
(キスされた)
さっきさんざん、男同士でとか、最近の高校生はとかなんとか言っときながら、自分は不意打ちでキスしやがって。
しかも、あ、あんな……
何度もキスの経験はあるが、あんなエロくさいのは初めてだ。それをこんなやつにされたかと思うと、怒りでかっと熱くなる。
「なにすんだこのエロオヤジ!」
「お、威勢が戻ったな。しかしおっさんの次はオヤジか、高校生からしたらそうなのかもしれないが、結構傷つくなそれ」
まだそんな事を言っている。どこまでもバカにした様なその態度に心底腹が立つ。
「なに言ってんだ!あんたほんとに何考えてんだよっ 変態!」
さっきまでの流れから、一体、どうしてこういう事になるのか、意味がさっぱりわからない。
「変態はないだろ。助けたと思ってたようだし、せっかくだから礼をもらっただけじゃねえか」
「なっ!」
(どんな理屈だよそれは!)
言ってることとやってることがばらばらだ。
キッと睨みつけながらも、情けないことに震える足に忌ま忌ましく舌打ちする。
(くそ、、油断した)
自分の不覚を苦々しく思う。抵抗があってもしょうがなく納得してするのと、不意打ちで勝手にされるのでは意味が全く違う。
だが礼だと言うなら、そういう事にしてしまえば確かに気が楽だ。そこに残る感触を消すため、ごしごしと唇をこすった。
「じゃあ、これでもうあんたとは何の関係もねえよな」
「なんかそれ、別れ話の時の台詞みたいだな」
「……っ…!」
どこまでもふざけた態度に怒りもピークに達する。
「うるせえエロおやじ! 二度とその顔見せんな!」
捨て台詞になってしまうのももうどうだっていい。
梨月は今度こそ後ろも見ずに走り出した。