PINKの指先(夜道Ver.)
最近、誰かの視線を感じる事がしきりにある。 それはバイト先の弁当屋でレジを打っている時だったり、ロードワークに出ている時だったり、ジムの窓際で洗濯したバンテージを乾している時だったりとまちまちだが、誰かがじっと此方を見ている強烈な電波のようなものを度々感じていた。 元々他人からの反応には無頓着なタチだから、余程酷い嫌がらせをされない限りは気にしないのだが、どうもこの視線を感じるようになってからというもの、俺は常に落ち着かない気分で日々を過ごしていた。お陰で近頃は何となく寝覚めも良くない。 俺は今年の春にプロテストに合格したばかりのプロボクサーだ。階級はフライ級。プロになってからの戦績は2戦2勝。いずれもKO勝ちだ。まだまだ駆け出しだから戦歴は浅いが、その二戦ともが噛ませ犬としてリングに上がったものであったのに、逆に上位ランクの選手を喰ってやったことで、俺の名は瞬く間に世間に知れ渡った。 『決して打たれない』『電光石火のスピード』『型破りで予測不能な攻撃スタイル』『天才』とマスコミははやし立てるが、まぁ、そこそこ妥当な評判だろう。 「アラ〜ンどしたのエドちゃあん?寝違えた?対戦相手に逃げられたからって、気を抜いちゃあダメよん」 ボクシングジムの壁際にあるベンチでバンテージをまきながら首をコキコキ鳴らしていると、このジムの会長が筋肉質の立派なガタイをキモ可愛らしくしならせながら俺の傍までやって来た。 「ガーフィール会長、そんなヘマはしませんよ。それより何です?聞いてないんだけど。また俺の次の相手断ってきたの?」 「しょうがないのヨン。エドちゃんったら国内ランク9位と4位の選手をあっさり2ラウンドKOしちゃウンだもん。皆怖がっちゃってネ、対戦キャンセルの電話がバンバン来るのヨ。お陰でコレまで目いっぱい入ってた試合の予定がまっさらよゥ〜。もうこうなったらチャンピオンと戦っちゃう?ウフフ」 「タイトルマッチですか。俺は別にいいけど・・・・相手が嫌がるんじゃねぇかな」 「マァァ!言うわネ!ウフフフフフでも、ホントそうかもヨ〜!」 軽口をたたきながらストレッチを入念にこなし、ロープスキッピングをタイマーできっかり3分12セットやって汗を流す。その後はリングの上で会長が手にしたミット相手に延々と拳を打ち込む。 まただ・・・・・・。 誰かの視線を感じ、不意に手を止めた俺は開け放してあったガラス窓を振り返った。しかし、そこには帰宅途中の中学生や、買い物帰りの主婦や年寄りが行き交うだけで、怪しい人影はない。 「エドちゃん、トレーニングとはいえ、リングの上で気を抜くのはボクサー失格ヨ!」 「あ、すいません会長・・・・」 注意を受け再びトレーニングに打ち込んだもののどうにも気になって練習に身が入らなかった俺に、帰り際、会長が心配そうに声をかけてきた。 「疲れているわけじゃないです。ただ・・・・誰かに見られているような・・・・」 「やだワ!ストーカーとかじゃないでしょうネ?そういえばエドちゃんのアパートの周辺、やたら林とか草むらが多くて街灯もロクにないし物騒じゃない。この前だってそこで痴漢に襲われた女の子がいたってハナシよ?」 心底心配そうな表情を浮かべる会長に、俺は噴き出した。 「会長、誰にモノを言ってるんだか。俺がプロボクサーだって忘れてませんか?過剰防衛を心配するなら分かるけど。大体男の俺を誰が襲おうだなんて思うんです?」 「だってエドちゃんたら、黙ってさえいればそこらへんの女の子なんか太刀打ちできないくらい綺麗じゃないのサ。いい?くれぐれも油断しちゃダメよ?」 「はいはい、お先失礼しまーッす」 「モ〜ウ!ちゃんと聞きなさいってば!!」 会長の野太い叫びを背後に聞きながら、俺は暗くなりかけた道を数キロ離れた場所にある自分のアパートへとジョギングで向かうべく走りだした。アパートとジムの毎日の往復も、俺にとっては大事なトレーニングの一環だ。 繁華街を通り過ぎ、土手沿いを延々と走り、やがて住宅街が途切れると建物がまばらになり、工場ばかりが立ち並ぶエリアに入る。所々に、放置されたまま雑草が生え放題の空き地やまだ開発されていない雑木林などがあり、言われてみれば確かに物騒な場所ではある。街灯も少なく、あちこちに『痴漢に注意!』の立て看板がささっていて、もしここで一人歩きの女なんぞに出会おうものなら、その場で条件反射的に逃げられそうな・・・・・そんな雰囲気だ。まるで万引きする気などないのに、これ見よがしに『防犯カメラ監視中!』というステッカーが貼ってあるコンビニのようで非常に気分が悪い。 やがて、薄暗い街頭に照らされた、古ぼけた2階建てのアパートが見えてくる。全部で8室しかない部屋に、住んでいるのは俺と大家のピナコ婆さんだけという寂れたアパートだ。 速度を落とし、呼吸を整えながら背負っていたディバックのポケットから部屋の鍵を手探りで取り出そうとしたその時だった。 アパートまであと10メートルもない場所で、不意に雑木林の中から人影が現れ俺の前に立ちふさがった。ぶつかる寸でのところで止まった俺は、思わずその人間を見上げた。俺を訪ねてきた知り合いだろうかと、遠くにある薄暗い街灯の光だけでなんとか相手の特徴を拾う。 190センチ近くありそうな上背に、多分金色をしている短い髪。先の機敏な動きからして、歳は若いだろうと伺える。真っ白いシャツからは、今まで嗅いだこともないいかにも値が張りそうな香水の匂いがした。 「・・・○△□×凵ヲ@#◆□★・・・・エドワード★к〇$刋I*○」 「は?アンタ誰・・・・・・」 腰にクる声で何事かを異国の言葉で話すのだが、その中に自分の名前を聞いた気がした所為で反応が遅れたのが致命的だった。 ぼさっとしている間に担ぎ上げられ、そのまま雑木林に引きずりこまれてしまう。 脳裏に浮かぶのは『強盗』の二文字。俺は必死にもがくのだが、体格の差がありすぎてろくな抵抗にならない。 そして事態はあれよあれよという間に深刻化する。林の奥、枯れ草が積み重なった場所に押し倒されて圧し掛かられ、恐るべき手際の良さであっという間に上下のスウェットを剥かれた。これはいよいよ本物の追いはぎか・・・と思うと同時に圧し掛かっている大男の香水の匂いに混じって、さっきトレーニングの後のシャワーで使ったボディソープの女っぽい香りが漂う。 それに気付いたらしい男が、ヒュウと口笛を吹いた。 ――――――ふざけるな。テメェを喜ばす為にシャワーを浴びたわけじゃねぇし、大体このボディソープは会長の趣味であって、俺だけでなく他の練習生達にもすこぶる不評なんだ。 そんなどうでも良い言い訳を心の中で毒突いてみても、俺の戦況が好転する事はなく、それどころかずり下げられたパンツの隙間から入り込んだ男の手がけしからん場所へと伸びる。 新たに脳裏に浮かぶのは『痴漢』の二文字。そんな馬鹿な・・・・!? 「冗談だろ・・・・オイ!止せッ!ヤメロ・・・・っ!!」 歴然としたウェイト差を存分に利用して俺を押さえ込んでいる男の手は性急に俺のブツを扱き始めた。全身に鳥肌が立った。 プロボクサーはリングの外で拳を振るうことを禁じられているが、そんな悠長なことを言っている場合ではないと悟った俺は、左腕を突っ張り自分と男の間に隙間を作ると男の顎をめがけて本気の右ストレートを繰り出した。 一撃でダウンした男をもう2〜3発ボコッて捕まえ警察に突き出すつもりでいたのだが、俺のそのプランはあっさり覆った。何故なら男はプロでもなかなか避けられない俺のパンチをかわしてみせたからだ。 「何ィ・・・・ッ!?テメェ、まさかボクサーか!?」 暗くて相手の顔が確認できないのだが、もしかするとかなりランキングが上位のボクサーなのだろうか?だからといって、不意に繰り出された至近距離からの俺の右ストレートをこうも簡単に避けてしまう・・・・そんな神のような芸当が出来るボクサーなど、俺の知る中ではおそらく一人しかいない。 俺がこの世界に入るきっかけとなったボクサー。その男は、緻密な計算の上で試合を運ぶ知性と、恐るべきスピード、テクニック、そして野獣のようなしなやかさと猛々しさ全てをかねそろえた、まさにボクシングを芸術の域にまで高めたといっても過言ではない世界王者だ。年齢も出身も伏せたままのデビュー以来33戦全てをKOで勝利し、4階級制覇という偉業を成し遂げた、現役でいながら既に伝説となっている、いうなれば神のような存在だ。 ボクシングをやる者ならば、誰もが必ずあこがれる大スター。 「まさかな・・・・俺としたことが、何馬鹿なことを考えてんだ・・・・こんな破廉恥野郎がそんな神と同一人物なワケねぇ・・・それよりオイ!テメェ!いい加減にしねぇとマジでブチ切れんぞ・・・・ウアアッ!?」 スゴんだ途端にキンタマを掴まれフニャリと脱力した隙に、一気にパンツを脱がされ両足を広げられた。もう俺が身に着けているのは間抜けにも靴下とスニーカーだけだった。 ヤバイ。このままじゃ、本気で犯されちまう。全身から嫌な汗がふきだした。 男の手は益々官能的な動きで俺の身体のあちこちを蹂躙し始めた。闇雲に暴れれば、いとも簡単に両腕をひとくくりに掴まれて頭上に縫いとめられてしまう。俺は自分の非力さに愕然とした。情けない・・・・プロデビューしてたったの2回勝利を収めただけでいい気になっていた報いだろうか。 「エドワード・・・・・・△〇※#★И*・・・・・・?」 「な・・・に・・・・・ンム・・・・・・フ・・・・・!?」 悔しさに歯噛みしていると、痴漢にあるまじき甘い囁きと共に、強姦のシーンには似つかわしくない情感のこもったディープなキスが俺の唇を塞いだ。 こんな場面だというのに、俺は初めて味わうその感覚に陶然としてしまった・・・・・・・そう、初めて・・・・・だった。 高校生の時テレビでたまたま流れていた、自分とそう変わらない歳に見えた天才ボクサーが初の世界タイトルマッチを制した試合を見てからというもの、俺の生活は寝ても覚めてもボクシング一色に染まった。当然、女なんぞにかまけている余裕もない。元々性的な欲求が淡白だったらしいこともあり、俺は特に不自由を感じることなくこれまで過ごした結果、二十歳を超えた今でもまだ童貞だった。キスだって、軽く唇を触れ合わせる程度のものしか知らない。 そんな俺にとって、この濃厚なキスはとんでもない衝撃だった。口の中を舐められるという感覚は、何故こうまで腰に響くのか。いつしか拘束を解かれていた両腕も、もう抵抗するどころではない。 認めたくはないが、俺は、生まれて初めて猛烈に欲情する感覚にこの身を晒していた。 「ア・・・・・・・アアッ・・・・イやだッ・・・・・ンア!」 散々喘がされて嗄れた声で、俺は鳴き声のような悲鳴を上げ続けた。身体中はまるで火がついたように熱く、何処もかしこも蕩けそうだった。 口で性器を愛撫する行為があるのを知ってはいたが、まさか自分が、それも男にソレをされるなんて考えたこともなかった俺はショックでどうにかなってしまいそうだった。 猛烈な射精感も、根元を締め付ける手に緩やかに阻まれ、残酷な快感に延々と啼かされる。 ――――――強姦するならするで、とっとと突っ込んで吐き出して、すぐに開放して欲しかった。こんな感覚を延々と与えられるのは、性というものに不慣れな俺にとっては拷問に等しかった。 「ァァァァ――――――ッ!!!・・・・・・ハァ・・・・ハァ・・・・も、やめてくれ・・・・」 男の口の中で達したのも、もう何度目か分からない。無意識に溢れてしまう涙を拭う余裕さえないまま懇願すれば、また異国の言葉で甘い囁きを落とす唇が、俺の唇を愛撫する。 強姦する相手に、普通キスなんてするだろうか。もしかして、俺を別の誰かと勘違いしていやしないか・・・・。そんな考えがふと脳裏をよぎるも、コイツははっきりと俺の名を口にしていた。ほら、まただ。 「エドワード・・・・・*★〇□△※$・・・・凵氈浴凵E・・」 「何だよッ!?お前、何なんだ・・・何言ってるんだよ・・・・!?俺をどうしたいんだよ!?ア・・・・ッ」 散々俺が出したもので濡れそぼった指をあり得ない場所にねじ込まれて悲鳴を上げた。男同士でする場合には、ソコを使うのだと知識としては知っていたものの、いざ自分がされてみるとその恐怖と気持ち悪さは計り知れなかった。 俺がもがくのをものともせずに、男の指は巧みな動きでゆるゆると奥へと侵入する。と、いきなり何の前触れもなく電流のような衝撃が腰から脳髄と爪先に突き抜けた。 「イア・・・・・ッ!?ナ・・・・ニ・・・・?ハウ、止め・・・・何して・・・・?アアアアア――――ッ!」 その衝撃は、紛れもなく性的な快感だった。それも、今まで感じたこともないような圧倒的で激烈な快感だ。何度も搾り出されたはずの自分の中心が、またしても熱を帯びて立ち上がるのが分かる。信じられない。信じたくない。 はしたなく喘ぐ俺の様子にすっかり気をよくした男の指はさらに大胆になり、今度は遠慮なく2本3本とその数を増やして中をかき回したり内壁をぞろりと撫でたりと実に奔放な動きをみせる。もう俺に抵抗する気概は残っていなかった。グッタリと弛緩した両足をもう一度肩に抱え上げた男は、筋肉がみっちりと付いた逞しい上体で俺に覆いかぶさり、再び唇に濃厚なキスをしてくる。そして、ほぐされてドロドロに濡れまくっているだろうソコに、男のモノの先端が侵入のタイミングを見計らうかのように擦り付けられる。 もう・・・・・なるようになれ・・・・・だ。俺はヤケクソ気味に目を閉じた。 「アアンッ!アアッ!ふァ・・・ッ!ン、ン・・・・・アアア!」 鼻にかかった悩ましい喘ぎ声をどこか他人事のように聞きながら、ただ揺さぶられ、身体のあちこちを舐られ、吸い付かれ・・・・・もう、俺は滅茶苦茶だった。俺のココは一生出口専用だと信じて疑わなかった場所にブツを突っ込まれるだけでも十分あり得ない事なのに、その上死にそうな程の快感を引きずり出され、こんなに出るものなのかと感心するほど射精を繰り返した。男もまた、幾度となく俺の腹の中に精子をぶちまけた。コイツが妙な病原菌を持っていないことを祈りたい。 「アアッ、アアッ、アアアアンッ」 「エ・・ドワァ・・ド・・・ッ・・・・・エド・・・・・エド・・・・・!」 俺は言葉にならない悲鳴を。男は俺の名を。それぞれ繰り返しながら、奇妙にも、まるで愛し合っている恋人のように何度も絶頂を共にした。 しかし、俺が本当に精神的な大打撃を受けるのは、アパートへと戻ってからの事だった。 全てが終わり、男の手からようやく解放された俺は、力の入らない身体で枯れ草と泥に塗れたスウェットの上下を何とか身に付けた後、避けられるだろうと知りながらそれでもよろよろと男に殴りかかった。やはりいとも簡単に俺の拳を受け流した男は、そのまま広げた両腕で俺を姫抱きにしてしまうとディバックと脱げてしまっていた俺のスニーカーを拾い上げ、いつの間にか手にしていたのか俺の部屋の鍵をチャラ、と鳴らして首を傾げた。 どうやら、俺の部屋の所在を尋ねているらしい。 散々犯されたのに、その強姦魔に自分の部屋の所在など、何故すんなりと教えてしまったのだろうか。きっとこの時の俺は、あまりに非日常的な事態に晒された所為でパニックになっていたのだ・・・・・と、思う。 この周辺に人の住めそうな建物は唯一このボロいアパートのみだったから、男は迷わずそこまで歩き、階段の上り口で一度足を止めて再度首を傾げた。俺がそれに頷くと、妙にゆっくりと静かに階段を登っていく。そして登り終えるとまた首を傾げる―――――――。こんな時だというのに、男のその仕草に可笑しさがこみ上げてきて、堪らず笑いを零した。 「フ・・・・お前、その仕草妙に可愛らしくて・・・・ククッ・・笑わせんな馬鹿。オラ、ソッチだソッチ」 たった今しがた自分を強姦した相手に何故こんな風に笑って話などできるのか、自分でも謎だったが、顎をしゃくって部屋の場所を示せば、男はまるで従順な大型犬のように神妙に頷いて、またソロリソロリと俺を運ぶ。もしかすると、こいつは俺の身体に衝撃を与えないように気を使っているのだろうか・・・・と、ようやく気付く。 立ち上がれそうになかったから抱きかかえられたまま手探りで部屋の電気を点け、指で風呂場に向かうように指示をすれば、当然男は俺の要望どおりにする。但し、耳慣れない異国の言葉を話すことから生活習慣の全く異なる人間だと予想していたとおり、土足のままだったが。 風呂場のバスタブの淵にそっと座らされてシャワーのコックを捻ると、男は俺の身体から再び服を脱がせ始めた。 「ま・・・・・待て・・・・!まさかお前また・・・・!?止せ・・・・!!」 怯えた声を出した俺に、男は首を横に振りながら顔を近付けると、俺の唇と鼻の先と額にちゅ、ちゅ、とキスをしてからニコリと笑った。 「・・・・・・・・・・」 そこで初めて明るい場所で男の顔をまともに見た俺は、そのあまりにも整った顔立ちに目を丸くした。歳は俺より2〜3ほど上だろうか。オリーブのような金の瞳に、思ったとおり金の髪。整った眉の線に、すっきりと通った鼻筋、優しげな目元、頬から顎にかけての精悍なライン。自分や他人の容姿にあまり関心を持たない俺でさえ、思わず見とれてしまうような美青年っぷりだ。これで男を狙う強姦魔だとは勿体無いことだ。まさしく天は二物を与えずといったところか。 「・・・・・・ん?つか・・・・何か、俺・・・お前の顔知ってる気がする・・・・」 記憶中枢に引っかかるものを感じた俺が首を捻って考え始めるのにも構わず、男はさっさと俺の身体から布を剥いでしまうと、泡立てた石鹸で丁寧に俺の身体を洗い始めた。 強姦(・・・・というにはあまりにも暴力とは程遠い行為ではあったが)をしでかした人間とは思えない思いやりに満ちた所作で俺の頭のてっぺんから爪先までを綺麗に洗い上げた男は、俺の身体に熱いシャワーを当てたままその横で自分も手早く身を清めると、再び俺を抱き上げて風呂場を出た。 小さな台所とこれまたあまりにも狭いダイニングの向こうにある襖を開ければ、そこが普段俺が寝起きする6畳間だ。タンスから引っ張り出したバスタオルを男に放れば、自分の身体を拭くのもそこそこに俺の身体や髪を丁寧に拭う。この甘やかしっぷりは一体何事だろうか。これではまるで本当に結ばれたばかりの恋人同士のようではないか。 「オイお前、俺はいいから自分を拭けよ!・・・・チッ、全然言葉が通じないときてる。イヤになるぜ」 相変わらずニコニコと嬉しそうに俺の髪を拭いている男に舌打ちをしながら目を逸らした先に、あるものが目に入った。それは、俺の憧れであるあの天才ボクサーが4階級制覇を成し遂げた試合の後にチャンピオンベルトを腰に巻いてファイティングポーズを取っている写真だった。ボクシング雑誌の特集で大きな写真が掲載されていたのを、コンビニのカラーコピーで拡大して壁に貼り付けていたのだ。 「・・・・・・・・・・・・・ん?」 そういえばこの男、どこかで見たことがあったと思ったが、この大スターに似てはいないだろうか?いや、似ているというどころのレベルではない。音速の勢いで男を振り返り、そして再び壁の写真に目をやる。 「・・・・・・・まさかな・・・・・はははははは・・・・そんな馬鹿なコトがある訳ねぇじゃん・・・・」 乾いた笑いを零しながらひとりごちる俺の視線の先を辿った男はハタと動きを止め、暫しの間を置いた後、急に両手を広げて感嘆の声をあげた。そしてその写真と自分とを指差して、何度も頷いては「アルフォンス・エルリック」と言う。 俺の憧れである天才ボクサー。その名もアルフォンス・エルリック。蛇足だが、偶然にも俺はそのボクサーと同じ姓だった為、プロとしてデビューする際、会長と話し合いの末あえてこの『エルリック』の名を伏せたままにすることにしたという経緯があった。 「アルフォンス・エルリック?お前が?コレ?コレ、お前なの?マジ?」 俺も写真と男を交互に指差しながら聞けば、男は写真のアルフォンス・エルリックの左胸を指先でトントンと叩き、その指で自分の左胸を同じように突いてみせた。 「☆◆@$*%ё凵E・・・・!*$@!*$@!アルフォンス・エルリック!」 顔を寄せて写真の胸部分をみれば、古い刃物傷のような痕が横一文字に走っていた。そして。 目の前の男の胸にもまた、同じように・・・・・いや、全く同じ傷痕があったのだ。 つまり・・・・・・・。 「お前・・・・・・ッ!!まさか・・・・・ホンモノ・・・・・・ッ!?嘘だ――――ッ!!!」 俺の人生を変えてくれた憧れの人物が・・・・雲の上の存在が・・・・・急に目の前に現れ、あろうことか男の俺を強姦したなんて・・・・・!!! 急激に、俺の中でどうとも表現しがたい感情が膨れ上がった。 「テメェ――――ッ!俺の人生を返せ、いろんな意味で――――ッ!!」 立たない腰のままヘロヘロと殴りかかれば、またしても壊れ物でも扱うような手つきでやんわりと抱き締められ、そして顔中にキスをされ・・・・・様々な感情が噴出してしまった俺は、随分と長い間、まるで子供のようにその腕の中で泣きじゃくった。 ジリジリと肌を焼く強烈なスポットライトが照らすまばゆいリングの上。熱狂の渦と化した観客席からは絶えず歓声が沸き起こり、俺の気持ちをさらに奮い立たせる。 チャンピオンは典型的なアウトファイタータイプのボクサーで、体格的に劣る俺をリーチの長さで寄せ付けまいとロクに打ち合おうとせずだらだらとねちっこいボクシングをする、俺の最も嫌いなタイプだった。しかしそこは流石国内王者の座にいるだけはあり、俺の渾身の右ストレートを受けてもダウンしないだけの打たれ強さを持っていた。 散々逃げ回るのを追い掛けさせられ続けた結果、すでにラウンドは9を数えていた。一度もパンチを貰っていない俺はノーダメージだったが、これ以上逃げられては相手の体力を回復させてしまうだけだと勝負に出た。左で距離を計りつつ、上下のパンチで相手を翻弄しながら一気に距離を詰めて懐に潜り込む。自分の間合いに入った俺が相手のボディに抉るような拳を打ち込んだと同時に下から衝撃が来た。俺の覚え込んだデータではこのチャンピオンが公式戦でアッパーを出したことはなかったから、下からの攻撃を全く警戒していなかったのだ。モロに貰って一瞬目の前が白く弾けたが、奥歯を噛みしめて踏みとどまる。ダウンを取られるなど、俺のプライドが許さない。 その時だ。キンキンと頭の中に響く耳鳴りをかき分けるように、澄んだ声が俺の鼓膜を刺激した。 「エド―――――!脇を締めろ!腰を落とせ!いつもの感覚を思い出すんだ!!君は誰よりも強く美しい!!」 別に弱気になっていた訳ではなかったが、その声は一気に俺の闘志に火を点けた。 『強い』は良しとしよう。しかし、この俺に『美しい』とは何事だ!?そんな軟弱な単語で俺を評するなど以ての外だアルフォンス!! 周囲の音が聞こえなくなり、相手の瞬きさえスローに見える程自分の感覚が研ぎ澄まされていくのが分かった。そうだ、これこそがいつも俺が感じているものだ。 踏みこんで、覚え込んだポイントに的確な角度でとどめを刺しにいく。その拳を引く瞬間既に相手が立ち上がれないだろう事が分かった俺は、そのまま静かに右手を上に突き上げた。 まだ国内レベルの戦いで、自分の浅はかさを学んだ結果となった試合だが、傍目には難なくチャンピオンベルトを手にしたように見えたらしく観客席は総立ちで、尋常でない歓声に混じって物までが飛び交っていた。頬を紅潮させたインタビュアーが、鼻息荒くリングに上がってきて、俺にマイクを突き付ける。 「おめでとうございますエドワード選手!見事プロデビュー3戦目にしてのタイトル奪取!!このお気持ちをまずはどなたに伝えたいと思いますか!?」 ・・・・・出た。お決まりの文句だ。俺はウンザリしながら、ここでシカトをこいたら折角つくはずのスポンサーが半減してしまうだろうか・・・・などと考えていたのだが、ふと目をやった観客席の中にひと際大きな身体の金髪の頭を見つけて、悪戯心を膨らませた。 『あの日』以来、自分のトレーニングもそっちのけで俺に散々付きまとい、俺とコミュニケーションを取りたいが為だけにこの国の言葉を必死で学び、挙句『ピナコ荘』の俺の隣の部屋に住みついてしまった男、アルフォンス・エルリック。 本人が言うには、奴はあれほど天賦の才に恵まれながら、近年ボクシングに対する情熱を失いかけていたらしい。 そんな折、気まぐれに訪れたこの遠く離れた島国で俺の存在を知り、そのボクシングのスタイルに強烈に惹きつけられたという。アルフォンスは、俺のアマチュア時代の映像まで取り寄せて何度も繰り返し見たそうだ。これまでずっとあこがれ続けていた相手から、そんな事を目を輝かせて言われてしまった俺は、恥ずかしさに居た堪れなくなった。 やがて奴は俺の所在を調べると、練習を覗き見するようになったのだが、次第に関心は俺自身のプライベートな部分にまで及び一気にストーカーと化し、そして・・・・というのが事の顛末だった。 ヤツがこの試合の最後にくれたあの声援は結果としては悪くなかったし、悔しい事に、未だボクサーとしてのアイツにはどうしようもなく憧れている自分がいて・・・・・そして、しきりにされるプロポーズ紛いのセリフにもすっかり馴らされ、近頃ではそれに喜びを感じてしまう程度には絆されていた。 俺はニヤリと極悪な笑みを浮かべ、マイクを取った。 「そうですね。この世で俺が最も尊敬する恋人に・・・・・」 そして、いつもヤツが固執する俺の薬指の付け根部分にグローブの上からキスをすると、そのままその手をアイツに向かって突き出した。 未だ公開されていないアルフォンス・エルリックのプロフィールは、聞きもしないのに事細かな部分まで余すところなく俺にもたらされる。それは勿論本人によって、だ。 一昔前まではボクシングで国の経済が成り立っていたと言われる時期もあった程、ボクシングの盛んなとある国の出身であるアルフォンスだが、問題は知られざるその国の婚姻にまつわる習慣だ。 現代社会では信じがたい事だが、アルフォンスの国では、見染めた相手(異性同性は問わないと言う)ならば相手の同意を得ずに強姦する事が法により認められているというのだ。但し、その後相手から婚姻の承諾を得られなかった場合、重い刑罰が科せられるということではあるが・・・・。 あの日以来、頻繁にあの手この手で上手い事言い含められるまま、アルフォンスの部屋へと引き摺りこまれて特大サイズのベッドの上でけしからん運動をさせられている俺だが、その度に囁かれる甘ったるい言葉や施される行為に溺れている時点で、全てを許している事になるのだろうか。 とりあえず、ある朝起きてみたら左の薬指に指輪がはめられていたとしても、俺がそれを外すのは試合の時だけだろう。そんな気がする。
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