ひかりへと続く扉2-R死がふたりを別つまで
数日ぶりに触れる肌に馴染んだこの家の空気の中で、兄と僕は愛し合った。カーテンを引いた薄暗い部屋の中に響くのは、皮膚がシーツに触れて擦れる音や、軋むベッドの音、僕と・・・そして兄の吐息と悩ましげな声だけだ。窓越しに、行きかう自動車のエンジン音や人々の靴音や話し声、小さな子供の笑い声などが聞こえてくることもあったけれど、腕の中で蕩けている兄の耳には恐らくそのどれもが届いていないに違いない。こちらのちょっとした手の動き全てに反応してしまう体を自分でも持て余しているらしい恋人は、無意識にだろうがすぐに上へ上へと逃げてしまうから、僕は途中何度もその体を腕の中へと引き戻さなければならなかった。
引き戻す度にまた口付けからはじめるために、行為は一向に前に進まない。やがてそのことに焦れたのか、兄は僕の肩を押し返して身体を入れ替えると、子猫がミルクを舐めるような仕草で僕の肌のあちこちに拙い愛撫をくれた。不慣れながらも一生懸命に快感を与えようとする姿がなんともいじらしくて、その様子がたまらなく僕を熱くさせる。と、自分の肌に触れていた僕のものが急激に熱を増す感触に気付いた兄は、それに手を伸ばし、やはりぎこちない動きで快感を引き出そうと動かし、やがて起き上がると一瞬だけ僕と目を合わせた後、コクリと喉を鳴らし・・・・・・・・。
「に・・・・・・さ・・・・・!?」
なんと兄はその先端にちゅ、と音を立ててキスをしてから咥内に迎え入れ、舌と唇と指で愛撫を始めたのだ。刹那、視界が真っ赤に染まるような錯覚に陥った。
「ちょ・・・・・ッ!ま、待って・・・・・う、わ・・・・・・!」
確かに過去一度だけ兄から口淫を受けた事はあったけれど、その時の彼は酷く酒に酔って正気を失っていたから、兄がはっきりとした意思を持ってするのはこれが初めてのことだ。情けなくも心底うろたえてしまった僕が肩に手をかけて押し返そうとしても、兄は頑として引かず、逆に此方の手を払い除けて根気強く愛撫を続ける。拙いけれど、その行為自体が僕に与える衝撃は計り知れなかった。瞬く間に追い上げられ、このままでは兄の咥内に放出してしまうと危機感を抱いた僕が強引に兄の体を押し戻すと、不満そうな表情にぶつかった。
「・・・ンだよ?」
「って、それは僕のセリフでしょ!?何てコトをするの!?」
息せき切る勢いで言う僕をジロリと睨みつけながら、手の甲で乱暴に口元を拭った兄は、如何にも不機嫌な様子で言い返してきた。
「お前だっていつも俺にすんじゃねぇか!何でお前なら良くて俺はダメなんだよ!?」
「僕はしたくてしてるんだから良いの!それにこんな事、あなたにさせられる訳ないでしょ?ただでさえ兄さんの身体にかける負担が大きいのに・・・・」
「だけどお前、他のヤツには普通にさせてたじゃねえか!!」
「え・・・・・・?」
カッとなって思わず口をついて出てしまったらしい兄のセリフに、僕は硬直した。
そう、つい先ほどまで兄の中には僕の記憶が入っていたのだ。当然その中には過去の愚行の数々が・・・・つまり、兄には絶対に知られたくなかった数多の相手とのセックスの記憶だって含まれていた訳で・・・・・。
確かに、過去僕はセックスをする相手から口淫を受けることに抵抗を感じたことがさほどなかった。でも、この人にだけは ・・・・・大事すぎて、そんなことはとてもさせられないと、そう思ってしまう。その時にはそれなりの愛情を感じていた筈の相手もいたが、今にして思えば、その頃の自分が如何にぞんざいに相手を扱っていたのかが露骨に分かるのだ。以前の僕は、行為中ほとんど相手の顔を見ることもなかった。それはつまり、欲望さえ満たされれば相手は誰でも構わないという心の表れだったのだろう。元来僕は、そんな酷い男なのだ。
上目遣いに睨みつけたままでいる兄の頭を胸に引き寄せた僕は、不可抗力とはいえ恋人にそんな場面を『見せて』しまった事を詫びた。当然兄は「お前の所為じゃない」と首を振ったけれど、僕の記憶を身の内に置き、その光景を見てしまった彼の心中を思えば、とても謝らずにはいられなかった。
けれど だからこそ、証明できることもある。
「兄さん、でもね・・・・?僕はあなたと結ばれて初めて、それまでの自分がまだ愛を知らなかったという事に気付いたんだよ。僕がいつもどんなふうに相手を抱いていたか。あなたを抱く時とどう違うか、あなたにだってハッキリ分かったでしょ?・・・・僕は大抵後ろから相手を抱いてた。でも今は?僕はあなたをどうやって抱いている?」
その言葉を受け、僕の鎖骨部分に押し付けられていた兄の額がじんわりと体温を上げて汗を滲ませるのに、思わず口元を綻ばせた。
不特定多数の人間を相手にする味気ない快楽のみを追う行為と、唯一無二の愛おしい人の全てを愛しつくす行為。その光景を脳裏に浮かび上がらせているだろう彼からの言葉を、僕は暫くの間根気強く待った。
やがて、しどろもどろに答えてくる声。
「ん・・・・・・・ま・・・・・え、からしか・・・したことね・・・よな?」
「うん。あなたには余計に辛い思いをさせてしまうけど、でも僕はいつでもあなたの顔を見ていたいんだよ」
「・・・・ワガママだぞ、お前」
そう言いながらも兄は両腕を僕の首に回して、頬に優しいキスをくれた。
「あんな記憶を見せてしまったのは、あなたにとって酷なことだと分かってる。でも、それならばせめて、この事をしっかりと認識して欲しい」
恥ずかしそうにしながらも僕の目を見据える金の瞳を間近に見返し、僕は告げた。
「あなたは僕が生まれて初めて愛した人なんだよ。僕にこんな気持ちを教えてくれて、ありがとう」
「・・・・ア・・・・ル・・・・・・・ちょっと、待て・・・・・・」
はじめに交わした『極力手加減する』という約束は、反故になってしまった。既に二度、身の内に僕の精を受け止めた恋人には暫しの休息が必要だったから、僕はその間手を止める代わりに、目で彼の美しい身体を堪能する。
すっかり乱れてしまったシーツの上に、もう何度目か分からない絶頂を越え弛緩した身体がしどけなく投げ出されている。薄く開けた瞳は涙で潤み、唇から零れる吐息は只艶かしく、せわしなく上下させる胸には赤い印が散っている。あれから何度も手指や口で愛撫を施された恋人の果実は赤く色付きながら、今は息を潜ませているけれど・・・・・。
「全部・・・・見せて・・・あなたを。僕が唯一愛している人の全てを見せて。取り戻した事を、僕に・・・実感させて」
僕のその言葉を受けて、恋人の頬がさらに紅潮の度合いを増した。
兄が男の身でありながら僕に抱かれる事に抵抗や負い目を感じているのは重々承知しているし、性的な場面で自分の身体を簡単に曝け出せるような人でない事も分かっている。でもいま、彼の全てを見ておきたかった。過去の歴史が刻み込まれた身体ではなくなってしまったけれど、紛れもなく、この世に只一つしかない、愛する人のそのままの身体を。
カーテン越しの淡い光に照らされた兄の肢体がわずかに身動ぎ、やがて膝を僅かに立てると自らそれを広げてみせる。
今、彼の全てが、僕の目に触れていた。
つい先程まで健気に熱を受け入れていた蕾がひくりと動く度、そこから溢れてはシーツに落ちていく、僕が放ったもの。羞恥に染め上げた顔を逸らす様が、否応無く僕の衝動を掻き立てた。
「ごめんね・・・・・中でたくさん出しちゃったね」
中指の先でそこを撫で上げるだけで、恋人の唇からは嬌声が零れる。指先を動かしながらゆっくりと挿し入れていくと、その声をさらに悲鳴へと変え、背を逸らし全身を震わせた。
「あ、アアアアア・・・・ッ!・・・・・・や・・・・あ・・・はう!」
中指と人差し指を全て納め、奥から出口までを撫でるようにしながら抜き差しを繰り返す度に、恋人の中から濡れた音を立てて精が零れ出てくる。再び頭を擡げはじめた果実の先端を浅く口に含みつつ、ゆっくりと指を動かし続ける僕の髪を恋人の両手が切なげにかき乱す、その様さえ愛おしい。
「ヒァ・・・・・・っ!く・・・・いあ・・・・アルッ、は、放し・・・・・・」
一息に絶頂まで連れていくことはせず巧妙にポイントを外しながらゆるゆると煽りたてれば、瞬く間に恋人は官能に支配され、いつも行く手を阻むあの手強い理性は今、遥か遠い所にある。口から無意識に発するのは拒絶の言葉でも、身体は貪欲に先を求めて揺らめいていた。
「兄さん・・・・・・腰をくねらせて・・・・・凄く色っぽいよ?そんなに誘ったら、押さえが利かなくなっちゃうな」
「ハァ・・・・・あ、ンッ!アル!もう・・・・・・やめ・・・・・」
「入るよ・・・・・イイ?」
「ダメ、だ・・・・・・ウアアアアアッ!!」
口先だけの拒絶を綺麗に無視して、再びゆっくりと恋人の熱い身の内に自身を埋めると、ガクガクと激しく震える身体に腕を回して腰を引き寄せた。益々深くなる繫がりに耐え切れず、悲鳴を上げながら僕の背を掻き毟る恋人を、更なる高みへと誘う。両の足を抱え上げ、さらに奥へ 。
胸の飾りを啄ばみながら繰り返す睦言は、もはや彼の耳には届いていないだろう。けれど僕は何度も『愛している』と繰り返した。
「兄さん・・・・・愛してる、愛してる・・・・・愛してるよ・・・・・!」
「アアア・・・・ッ・・・・・ハ・・・・・ア、ル・・・・・!」
これまで幾度となく肌をあわせていながら、彼の中には“兄”という属性が必ずつきまとい、それが行為に対する後ろめたさを助長させるのか、いつでも彼はどこか逃げ腰だった。
けれど今、初めて完全にその属性から離れ、恋人という自由な身で僕に抱かれる彼はこの上もなく艶やかでそして、例えようもなく 美しかった。
やがて共に迎えた絶頂の波が余韻を残して引いていき、腕の中で強張っていた身体から力が抜ける。汗と涙で濡れた恋人が、ぼんやりと僕を見上げた後ふわりと見せた微笑に、僕はえもいわれぬ程の幸福感を覚えた。
「・・・・・・・ル・・・・・・い、し・・・・・」
まだ整わない呼吸の合間、切れ切れに言葉を紡ぐ唇を、唇でなぞるように愛撫した。
「うん・・・・・・分かってる。僕も愛してるよ」
「俺・・・・も・・・・・・・・・愛し・・てる」
「兄さん・・・・・素敵だった・・・・とても言葉では言い尽くせないほど、綺麗だったよ」
うっとりとそう呟いたら、下唇に軽く噛み付かれた。
「そんなセリフを、恥ずかしげもなく言うんじゃねえッ」
「ええッとー・・・・じゃあ・・・・・最中の兄さん、とってもカッコ良かったよ・・・?」
「それも微妙だ。しかも疑問形というところが気に喰わん・・・・」
ベッドから身を起こした僕は、まだブツブツと不平を言っている恋人の身体を手繰り寄せたシーツで包み、慎重に抱き上げた。向かう先はバスルームだ。家中の窓という窓全てのカーテンは引かれたままだから、薄暗い廊下を、僕は兄を腕に抱いて裸足のままゆっくりと進む。
半開きのバスルームのドアの隙間から真昼の強い光が差し込んでいるのを見て、あるイメージを思い起こした僕を、何かを思う表情で兄が見上げてくる。互いに何を言うでもなかったけれど、きっとふたり同じ事を考えているに違いない。
開きかけた扉・・・・兄と僕にとって、これは特別重い意味を持つビジョンだ。幼いあの日、ふたりで母を取り戻そうとした時。失っていた僕の生身の身体を取り戻した時。命の火が消えかけた兄を救う為に互いの身体を練成した時、その際失われてしまった僕の記憶を取り戻した今日も。いつも目にしてきた光景なのだ。
シャワーの下で兄の身体の事後処理をした後、バスタブの中、ふたりで泡に包まった。足を投げ出しバスタブの壁に背をもたせ掛ける僕の胸にゆったりと身を預けた恋人は、まるで猫のような仕草で頬を摺り寄せながら言った。
「・・・・・な、アル。お前、長生きしろよ?俺はやっぱり化学者だから“生まれ変わり”とか“来世”とかって、どうにも信じらんねぇんだ。だから多分最期の時も『また生まれ変わってめぐり逢いたい』なんて能天気な希望は持てねぇだろうし、そんな約束もしてやれねぇ。消えた命が二度と取り戻せない事は、お前も俺も骨身に染みてる 人生だって、同じだ。それぞれ万人に等しく一人につき一回こっきりだ。今生でやり残した事をまた来世でやろうなんて考えてねぇから、兄ちゃんの愛は激烈で遠慮手加減は一切なしだぞ?そんでもってお前よりも長生きして、お前の最期の最後まで鬱陶しく纏わりついてやる気満々だ。覚悟はいいか?」
まるでプロポーズのような兄の言葉に不覚にも弛みそうになる涙腺をなんとか堪え、僕は答えた。
「それに、何の覚悟がいるって言うの?兄さんこそ、ソッチがそのつもりなら僕だってもう遠慮なんかしないよ?逃げようたって逃がさないからね。僕かあなた、どちらかが死ぬ時まで 」
「とことん愛しぬいてやる」
僕の言葉の終わりを引き取って言う兄の身体を両腕で抱き寄せ、その肩に顔を埋めた。この温もりも、幸せも、永遠ではない。でも、だからこそこんなにも全てが愛おしいのだ。
この先また、思いがけず様々な困難や悲劇が僕たちを襲うかも知れない。それでもこの手を離さずにいる限り、例え行く先を見失いそうになっても再びこの道へと戻ってくることが出来ると思えた。
「目下の問題はこの蜜月を過ごす為の休暇を、ケチな中将と頭の固い所長からどれくらいもぎ取れるかだよなぁ」
鹿爪らしい顔でそう言った僕に、つれない恋人は途端に渋面を作った。
「冗談じゃねえ!お前まさかこんな調子で毎日サカるつもりなのか?マジ勘弁してくれよ。こんなの10日に一遍でも荷が重いぜ」
成る程。目下の重大問題は、この恋人を如何に懐柔するかにあるらしい。僕達の前途に立ちはだかる困難が早速出現したようだけれど、僕の心は至って穏やかだ。
僕と兄の間にあるこの強い絆と愛を以ってすれば、越えられない困難などひとつとしてないのだから。
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ようやくこれで一段落です。ここまでお付き合い下さって本当にどうもありがとうございました。*200717*