日野資朝 ひのすけとも <正応3〜正慶元=元弘2>(1290〜1332)
鎌倉末期の公卿。父は権大納言 日野俊光。元亨元年(1321)参議。元亨3年、従三位に叙せられ検非違使別当となる。同年、勅使として関東に下向し、ついで権中納言となる。日野俊基と共に後醍醐天皇の倒幕計画に参画した。倒幕の密議を偽装するため、同志とともにしばしば無礼講と称する宴会を催したといわれる。正中元年(1324)、この謀議が露顕し六波羅探題に捕らえられて鎌倉に送られたのち、佐渡に配流された(正中の変)。元徳3=元弘元年(1331)、再び後醍醐天皇の倒幕計画が失敗し(元弘の変)、翌年、天皇が隠岐に配流されたとき、配所において本間山城入道に殺された。享年43歳。


日野資朝といえば、太平記の前半にある、資朝の息子 阿新丸(くまわかまる)の佐渡行きの話が有名ですし、「徒然草」の第152段〜第154段で取り上げられていますので、鎌倉末期〜南北朝時代のファンでなくとも、名前をご存知の方は多いのではないでしょうか?
ただ、私としては、顕家様の妻の父上でありながら、あまり興味の湧かなかった方なんですよね〜。

まあ、それはさておき・・・・
資朝の父、俊光は、二つに分裂した皇統のうち、持明院統(のちの北朝側)に忠実に仕えたことで、持明院統の厚い信頼を得て地位を築いた方です。そのため俊光は、資朝が大覚寺統(のちの南朝側)の後醍醐天皇と接近し、後醍醐天皇の信頼をもって昇進を重ねていくことを、その立場上許せるはずもなく、とうとう元亨二年(1322 資朝33歳)に義絶、すなわち勘当してしまいます。

確かに、変動の時代ですので、公家とはいえ、破天荒な生き方をする人も珍しくはないのですが、この資朝さんは「かなり変わったお方だな」、との印象を受けます。

内大臣 西園寺実衡が“尊い姿”と感じた静然上人の姿を、「ただ年を取っているだけ」と切り捨て、さらに後日、年を取った犬を西園寺実衡に「この犬も尊く見えるでしょ」といって献上する・・・(徒然草 第152段)

鎌倉幕府に陰謀の嫌疑をかけられた京極為兼が、六波羅探題に連行されていく姿を見て、「ああ、なんてうらやましいんだ!あんな風になりたいぃ〜!」と言う。(徒然草 第153段 ちょっと誇張表現有り)

幕府の目を欺くためとはいえ、無礼講なんぞ考え出すところも普通じゃないですよ。
無礼講では、男は烏帽子を脱いで、僧は衣を着ないで、お酌をする女性といえば薄い単衣を羽織っただけ・・・(これって現代の感覚としては、下着姿ってことですよね?)
・・・とまあ、いかがわしいことこの上ない(笑)

こんな型破りな公家だからこそ、同じく型破りの天皇である後醍醐天皇とは、気が合ったのかもしれませんね。

それにしても、身分の上下とか、有職故実に非常にうるさい顕家様の父 親房と、怪しげ〜な無礼講を催す資朝が仲良しこよしになれるとは、どうしても思えない〜!
この時代の親戚づきあいが、どのようなものであったかは分かりませんが、もし、日野家と北畠家で会食なんかをしていたら、資朝と親房はろくに口もきかなかったのでは・・・?
な〜んて想像をしてしまいます(笑)

資料:「鎌倉・室町人名事典」(新人物往来社)、「太平記の群像」(角川選書)ほか

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