賢俊 けんしゅん <正安元〜延文=正平十二>(1299〜1357)
南北朝時代の真言宗の僧。権大納言日野俊光の子。俗名も賢俊。醍醐寺三宝院の賢助大僧正につき、出家した。
建武=延元元年(1336)、九州に敗走した足利尊氏に光厳上皇の院宣を斡旋し、尊氏の京都回復を助けた。これにより尊氏の熱心な帰依を受け、後醍醐天皇方の文観(弘真)に代わって醍醐寺第65代座主となった。また、三宝院をなど10以上の院家を、山科荘など数十箇所の荘園を管領した。
将軍家の護持僧として各種の祈祷を行うほか、政界にも深く関与し、外交僧として活躍。室町幕府における将軍家と日野家の密接な関係は、賢俊の働きにより定まった。


 顕家様関連資料をめくっていると、時々名前を目にしていた人ではありますが、北朝側の人ですし、僧侶にはあまり興味が無かったのですっ飛ばして読んでいたのですが、あることがきっかけで興味がわいてきたお方です。

 この方は、正中の変で捕まり、佐渡に流された後、斬られた日野資朝の弟です。
 この資朝が、太平記によって名前が良く知られているので、日野家は後醍醐天皇側、つまり大覚寺統側の一族のような印象を受けたりもしますが、日野家は、もともと持明院統(後の北朝側)に仕えていまして、資朝だけが大覚寺統の後醍醐天皇についてしまったので、資朝は勘当されています。

 さて、賢俊ですが、この方が表舞台に出てくるのは、足利尊氏が九州に敗走したときに光厳上皇の院宣を斡旋してからです。
 この後、尊氏との緊密な関係を持つことで力を増し、ある時は護持僧、またある時は醍醐寺など宗教権門の長、またある時は多くの門跡・所領を支配する荘園領主・・・といった具合に活動範囲が大きく広がっていきます。
♪月曜日は将軍の祈祷をして、火曜日は天皇の祈祷をして、水曜日はお寺でお勤めをして、木曜日は年貢の取立てをする〜♪ってな具合に大忙しです。(ホントかよ)

 また、文和元年=正平7年(1352)の後光厳天皇の践祚の際、北朝には神器が無かったのですが、神器の容器である朱塗りの小唐櫃を神器の代わりとして践祚の儀式をすませました。この神器の容器を使うという策を講じたのが賢俊です。
 賢俊は、以前、南朝軍が本営をおいた石清水八幡宮を奪還したときに、後村上天皇の御座所を検地し、その際、石清水八幡宮別当から渡された神器の容器を石清水八幡宮若宮に移させており、これを利用したわけです。

 こうして北朝側の公武双方から絶大な信頼を獲得し、政務に大きく関与するようになり、賢俊が没した時の洞院公賢の日記に“公家・武家権勢比肩の人なし”と書かれるぐらい栄華を極めたわけです。
 室町幕府において日野家が政治的に勢力を持つようになったのは、この賢俊が土台を築いたといっても過言ではありません。
 日野富子を主役とした大河ドラマ「花の乱」のセリフで「代々足利将軍家の正室は日野家の娘と決まっておる!」ってセリフがあったように思うのですが、これも賢俊の活躍の賜物ですかね〜。

資料:「鎌倉・室町人物事典」(新人物往来社)、南北朝100話(立風書房)
    「日野太平記」(新人物往来社)ほか

平成14年(2002)8.25

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