南部師行 なんぶもろゆき <?〜暦応元=延元3>(?〜1338)
南部師行像(八戸市立博物館)
写真提供:虎猫 様
南北朝初期南朝の武将。南部政行の二男。母は波木井流南部実継の女。又次郎と称す。
母の兄南部長継の養子となる。北畠顕家の陸奥入部に際し、同国糠部郡目代に任じられ、八戸郷根城に住し、建武元年(1334)3月21日、鹿角郡地頭職を与えられて、北条氏余党の乱を鎮定し、津軽を巡視するなど建武新政下の陸奥国の治安に任じた。
南北朝内乱の勃発とともに、北党の曽我貞光らと戦い、建武4=延元2年(1337)、顕家の上洛軍に参加。
暦応元=延元3(1338)5月22日、和泉国石津浜で高師直軍に敗れ、顕家とともに戦死した。
法名は「旗峰玄紅」


 顕家様の片腕とも言える、南部師行の登場です。
 しかし、手持ち資料の中に南部師行の記述が少ないので、いまいちよく分からない人でもあります。管理人は、渋いおじ様のイメージを持っていますが。

 奥州の国府体制は、多賀国府と各地に設置した郡奉行所との機構をもったものでした。国府支庁である郡奉行所には、郡奉行(管内の行政・警察業務を処理)と郡検断(特設軍事警察担当官)が併置されていたのですが、南部師行は郡奉行と郡検断を兼ねていたようです。すなわち目代(国守の代理としての国務代行者)ということなのでしょう。

 目代ということを反映してか、「北畠氏の研究」(大西源一)の巻末にある北畠氏関係の年表を見ると、顕家がかなり多くの国宣等を南部師行に発していることが分かります。内容としては、「○○の土地を誰々に交付するように」というのが多いのですが、その他にも“△△を津軽に派遣するから、協力して郡内を治めるように”とか、“糠部七戸御牧の馬を本牧(牧=牧場)に返すように”、などがあります。

 まあ、南部師行宛の文書が、多く残っていたというだけなのかもしれませんが、文書の多さを見ると、「北奥のことは、師行にお任せ♪」って感じがします。やはり、顕家様は、結城宗弘と並んで、南部師行を非常に信頼していたんでしょうねー。まあ、一方では、南部氏・結城氏の優遇に対する不満もあったようですが・・・

 師行は第一次長征では、奥州で留守を守っていたのですが、第二次長征には参加しています。そして最後の合戦、石津の合戦において顕家の死に殉じました。
 この時代、多くの武士が、より有利な条件を求めて南朝と北朝のどちらにでも就いていたことを考えると、顕家の死に殉じた師行達と顕家の絆の強さを感じずにはいられません。

資料:「鎌倉・室町人名事典」(新人物往来社)、「北畠氏の研究」(大西源一)
    「国史大辞典
(吉川弘文館)

平成13年(2001)8.31


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