名和長年 なわながとし <?〜延元元=建武三>(?〜1336)
(伝)名和長年画像(部分)
長谷川信春 筆
(東京国立博物館 蔵)
鎌倉末・南北朝時代の武将。村上源氏の流れを汲む伯耆の豪族長田行高の子とされるが、その系譜は必ずしも明らかではない。伯耆国名和浦を拠点に海上交通、商業活動に従事する家に生まれたと推測されている。初名長高、長田又太郎と称す。1333年、閏2月、隠岐を脱出して伯耆に上陸した後醍醐天皇を船上山に迎え、鎌倉幕府軍を撃退した。この功によって後醍醐から「年」の字を与えられ名を長年と改め、同年3月、従四位下伯耆守に叙任された。同年6月、後醍醐天皇を守り、上洛、建武政権では記録所・武者所・雑訴決断所の一員となり、さらに東市正に任じられるなど、後醍醐の腹心として新政権の施策を担った。1335年10月、鎌倉で建武政権に叛した足利尊氏軍は翌年正月、京都に進撃したが、長年は近江瀬田で足利直義、高師泰軍を破り、京都では新田義貞らと尊氏を破り西走させた。しかし、同年5月、尊氏が反撃を開始すると、後醍醐に従い近江江東坂本に移った。6月、入京した尊氏軍を義貞らとともに攻撃したが、30日、三条猪熊で戦死した。


 登場しました!三木一草の一人、名和長年です!
 この方もまた、顕家様と直接的な関係無いのですが、大錦号の気になる御方・・・と言うことで、登場させました。
 顕家様との関わりがあるのは、長年の息子 義高の方なんですけれどね。まあ、知名度から言えば、長年が大きいのですが。
 北畠一族といい、この名和一族といい、“一族の結束が固い”ってのに管理人は弱いんですよね〜。

 三木一草(さんぼくいっそう)とは、ご存知の方が多いとは思いますが、鎌倉幕府倒幕の際に後醍醐天皇方として活躍した者の中で、特に朝恩の大きかった4人のことを指します。すなわち、楠(き)正成、伯(き)長年(=名和長年)、結城(き)親光、千(ぐさ)忠顕です。

 長年は、「太平記」では隠岐から脱出した後醍醐天皇が伯耆国名和湊に到着した時、この辺りに名のある武士はいないかと里人に尋ねると、“此辺には、名和又太郎長年と申す者こそ、その身さして名のある武士には候はねども、家富み一族広うして、心がさある者にて候へ”と返事が返ってくる場面で初登場します。名和長年は特に有名ではないけれども、裕福で一族が繁栄しており、度量があると地元では評価されていたんですね。
 で、この話を聞いて千種忠顕が天皇の使者として長年を訪ね、天皇に味方するよう下命します。そして長年は、一族を集めて身の振り方を相談します。

 このように一族との合議制を取っているってのが、管理人にとってポイント高いんですよね〜。

 この親族会議(笑)において、弟の長重が“たとえ屍を軍門に曝すとも、一天万乗の天子のために戦ったなら、その名を後の代に残し、生前の思い出、死後の名誉たるべし”と意見を出し、一族も同意したので、名和一族の名を後世に残そうと、長年は天皇方として兵を挙げます。

 こうして長年は、後醍醐天皇を奉じて船上山で戦うことになるのですが、このときのエピソードのひとつとして、名和七郎の意見を取り入れて、白い500反ほど使って旗を作り、周辺の武士の家紋を描いて立て、実際よりかなり多くの兵がいるように見せかけたというのがあります。

 管理人が注目しているのは、天皇方に就くと決定するときも、戦の策にしても、一族から出された意見を吸い上げている点なんです。
 もし今まで評定が、トップダウン方式で決められていたら、このように一族の誰かが頭に浮かべた考えを自由に発言する訳ないですよね。ですから、名和一族は自由に意見を交換し合い、皆が納得した上で方向性を決めてきたのではないかと思っています(ほとんど私の希望的推測というか妄想なんですが)。
 つまり長年は、一族の長として最終決定権を持ってはいたけれど、それは自分の意見を皆に押し付けるタイプではなく、一族で色々な意見を交換し合った結果、最終決定を下していたんではないかなーという感じがするんです。正に心がさある=度量がある、すなわち“心が大きく、相手の考えを受け入れる性質ですね。

資料:「鎌倉・室町人名事典」(新人物往来社)、「太平記の群像」(角川選書)ほか

平成13年(2001)8.9

人物事典TOPへ