赤松則村 あかまつのりむら <建治3〜観応元=正平5年>(1277〜1350)
赤松円心座像
康俊 作
(宝林寺 蔵)
鎌倉・南北朝時代の武将。字は次郎、播磨守護。父は茂則。嫡男として播磨国佐用荘の地頭職を受け継ぐ。
元弘の乱に際して、その子則祐から大塔宮護良親王の北条氏追討の令旨を伝えられ、正慶2=元弘3年(1333)佐用荘苔縄城に挙兵。同年5月7日の六波羅攻めに護良親王、足利高氏(尊氏)らとともに参戦して戦功をあげる。同月30日には後醍醐天皇を兵庫に出迎える。
鎌倉幕府滅亡後、建武政府による論功行賞においては、佐用荘地頭職の安堵のみであったので、恩賞措置に不満をもった。そのため建武2年(1335)、足利尊氏が建武政府に離反すると、則村もただちに応じた。
翌建武3年、尊氏が京都に敗れ、九州に赴いた時には、播磨国佐用荘内の白旗城に、足利尊氏を追って西下した新田義貞軍を支え、その西進を防いだ。
その後尊氏が西国にて勢力を挽回して、海陸両道から東上するのを播磨国室津に迎え、陸軍を指揮する直義軍に加わって、楠木正成を湊川の合戦に破った。
建武三年、尊氏によって播磨国守護に任じられる。
観応元=正平5年(1350)正月11日、京都七条の自邸で没した。74歳。法名を法雲寺月譚円心という。墓所は京都市東区の建仁寺久昌院(もと大竜庵)にある。


 赤松則村は法名の円心の方が知名度が高いかもしれません。管理人も赤松円心と呼ぶことの方が多いです。そして、この方も北畠顕家と同じく村上源氏です。
 南朝びいきの私としては、この人を味方にしておけば、その後の歴史はかなり違った結果になったのではないか、と思ってしまいます。

 正慶元=元弘二年(1332)11月に護良親王が吉野で挙兵したのに呼応して、楠木正成が千早城で挙兵していますが、これに続く形で翌年1月に、赤松円心は倒幕側として苔縄城で挙兵しています。いち早く倒幕側として挙兵したことや、六波羅軍を破ったことなど、倒幕運動において円心が果たした役割はかなり大きいと言えます。
 実際、六波羅を破った後、円心は後醍醐天皇に拝謁し、その時“恩賞は各(おのおの)望みにまかすべし”との言葉を賜ったようです。また、万里小路藤房の言葉として“天下を定めて、君(後醍醐天皇)の宸襟を休め奉りたる者は、高氏(尊氏)、義貞、正成、円心、長年なり”と太平記にあるように円心の功績は誰もが認めるところでした。
 しかし、建武の親政の論功行賞においては、もともとの領地である佐用庄の一ヶ所を安堵されただけでしたし、また一旦は播磨国守護職に任じられたものの、すぐに免職させらてしまいました。こでれは、納得いかないでしょう!
 「望みどおりの恩賞を与えると言っておきながら、この仕打ちは何なのじゃ!この恨み晴らさずにおくべきかぁ〜!!!」と言ったかどうかは分かりませんが、言ったとしても何の不思議もないですね。
 出自がいまいち曖昧である楠木正成、名和長年が2ヶ国拝領しているのに、鎌倉時代には播磨の一地頭にすぎなかったとはいえ、仮にも村上源氏の流れである自分への行賞が低かったということも、憎さ倍増の要因となったかもしれません。まあ、赤松氏の出自も、もしかしたら単に騙ってるだけかもしれませんが・・・
 ですので、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、直ちに尊氏に従ったのは、気持ちとして十分理解できます。
 尊氏が九州へ敗走した時には、新田義貞を足止めしたり、あの湊川の合戦でも活躍していたりと、足利側としての働き振りをみると、赤松円心は南朝側にとって、敵に回してはならなかった者の一人と言えるでしょう。

資料:「鎌倉・室町人物事典」(新人物往来社)、「戦乱南北朝」(学研)ほか

平成13年(2001)7.19

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