北畠具行 きたばたけともゆき <正応3〜正慶元=元弘2年>(1290〜1332)
鎌倉時代末期の公卿。父は北畠師行。元応2年(1320)2月、少納言。元亨4年(1324)9月、蔵人頭。正中3年(1326)2月、参議。元徳2年(1330)8月権中納言。元徳3年正月、従二位。後醍醐天皇の側近として活動し、鎌倉幕府倒幕計画に参加。元徳3=元弘元年(1331)、後醍醐天皇の笠置遷幸に供奉、笠置山落城後、六波羅探題に捕えられ、翌正慶元=元弘2年6月19日、鎌倉へ護送中、近江国柏原で佐々木高氏の家人に斬られる。


 また、“この人誰?”ってな感じの方の登場です。

 さて、北畠具行ですが、名前からも判るように北畠親房・顕家らと同じく村上源氏です。しかも、わりと親戚筋としては近い関係で、親房の父 師重の従兄弟にあたります。
 後醍醐天皇が討幕運動を展開していた頃、親房・顕家はこれに関与していなかったようなのですが、この具行は積極的に関わり、“君の恩寵も深かりき”といわれる側近の一人となっていました。
 しかし、元弘の変において、元徳3年=元弘元年(1331)9月30日に、倒幕の首謀者の一人として捕えられました。そして、佐々木高氏(佐々木道誉)に警護され、鎌倉に護送される途中で、道誉の家人に斬首されました。その時、具行は道誉の行き届いた配慮に深く感謝したそうです。

 ところで、平成12年3月11日に「アンビリーバボー」と言う番組で放送された「舞うと死ぬ曲 採桑老」を覚えてらっしゃる方はいらっしゃいますでしょうか。
 採桑老は舞楽の曲の一つで、不老不死の桑葉を求めて歩く老爺の姿を模して、人間のはかなさ・無常の理を主題としたものとされています。
 そしてアンビリーバボーでは、この採桑老を人前で舞うと死ぬ曲として紹介されていました。(放送内容の概要はフジテレビのHPを御覧下さい。
     http://www.fujitv.co.jp/jp/unb/contents/ps7_1.html)

 ここで、関係者が次々と病気になったり、事故に遭ったりしと、命が危険な状態になったのは、まあ、単なる偶然が重なったものでしかないと、冷めた目で見ていたのですが、「でも、この採桑老って文字を、どこかで見たことがある気がする・・・」と思っていたところ・・・見つけました。北畠具行です。

 北畠具行は、北畠顕家が陵王を舞った、あの、後醍醐天皇の北山行幸に同行していまして(天皇の側近なんだから当たり前か)、顕家が陵王を舞っている時は笙を吹き、陵王の舞の後に、この採桑老を舞っていたのです。
 で、この北山行幸が元徳3年=元弘元年(1331)3月に行われていまして、元弘の変がこの年の5月に起き、9月に具行は捕えられ、そして斬首されたのが翌 正慶元=元弘2年(1332)6月と、採桑老を舞った1年後ぐらいに亡くなっているんです。
 おお!ここに舞って本当にお亡くなりになった方がいる〜!!!

具行の辞世の頌(じゅ)(詩文)       「太平記」より

逍遥生死、四十二年、山河一革、天地洞然
(生死に逍遥(しょうよう)す 四十二年 山河ひとたび革(あらた)まって天地洞然(とうねん)たり)

「生死のあいだをさまようこと四十二年、死にのぞんで山河は広々と改まって思える」
資料:「鎌倉・室町人名事典」(新人物往来社)、
    「伊勢北畠一族」(新人物往来社)、「国史大辞典」(吉川弘文館)

平成13年(2001)7.10

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