広橋経泰 ひろはし つねやす <生没年不詳>

南北朝時代の武将。修理亮。正慶2=元弘3年(1333)、北畠顕家の奉行として陸奥で活動。
建武二年(1335)、顕家の上洛の際には陸奥にとどまり霊山城を守った。
翌年、翌々年と陸奥における北朝方の拠点、伊達郡河俣城、行方郡小高城、岩前郡湯本城などを攻撃し、あるいは常陸に出て佐竹氏と戦った。
その後は不明だが、康永元年=興国3年(1342)の『結城文書』に見える広橋肥後守は同人かもしれない。


平成20年の春に、ここ2、3年あまりにもホームページの更新が、滞っている状況をどうにかせねば!!と思い立ち、昔(10年ぐらい前)に集めた顕家様関連の資料を見直すようになりました。
(歴史に詳しくない管理人が集めたものですから、一般向けのものばかりではありますが・・・。しかし、一般向けの資料とはいえ、この資料の中に、南部師行、南部政長の戒名が載っていたのは大きな収穫ではありました!(笑))

さて、この広橋経泰ですが、はっきり言って詳しいことは分かりません
「鎌倉・室町人物事典」(新人物往来社)には、上述の内容しか書かれていませんし、インターネットで調べても、 “○○の戦いに参戦していた” 程度の内容しか見つかりませんし、「南北朝編年史」(吉川弘文館)と「北畠氏の研究」(大西源一)の年表を参考にして、広橋経泰の名前があるものをピックアップしてみますと、下記の程度しかありません。

建武2年(1335) 12月23日 相馬胤平、高野郡矢築宿に拠り、広橋経泰に応ずる
12月24日 石川光念、広橋経泰の兵と高野郡馬場原に戦う
時期不明 広橋経泰、従五位上昇叙
延元元年(1336) 3月8日 広橋経泰、足利党を陸奥河俣城に攻める
3月11日 相馬胤平、広橋経泰に会せんとして川俣城に発向
広橋経泰・相馬胤平、小手保川俣城を降す
3月13日 広橋経泰・相馬胤平ら、信夫郡荒井城を抜く
3月15日 広橋経泰、陸奥荒井城を陥れる
3月22日 相馬光胤(北朝側)ら小高城に拠り、広橋経泰の来襲を拒ぐ
時期不明 広橋経泰、右少将兼肥後守従四位下任叙
4月6日 広橋経泰、陸奥湯本城に拠る。石河入道、これを攻める
8月24日 伊賀盛光、常陸瓜連城を攻める。
小田治久、広橋経泰、これを赴援し、久慈東郡花房山に戦う
延元2年(1337) 4月9日 広橋経泰、中賀野義長を陸奥小高楯に攻め、楢葉郡方面に戦う
6月24日 広橋経泰、再び陸奥小高楯を攻める


そして、ネットで検索して拾った情報から判っていることといえば、

@建武2年(1335)の北畠顕家の第一次長征時には、奥州に残って留守を守っていた。
A建武3年(1336)、瓜連城を中心として行われた戦いに南朝方として参戦していた。
B建武3年(1336)12月、佐竹義篤を相手とする足利方の軍勢に敗れ、領地に戻った。

この程度なんですね〜。

しかし!顕家様が第一次長征の時には南部師行とともに奥州の留守を任せ、第二次長征時は、師行は顕家様とともに西上しましたので、第一次長征以上に手薄になった奥州の留守を任せたぐらいですのでかなり信頼していたはず!!(力説)
なお、「霊山町史」には、霊山城が “留守将 広橋修理亮経泰らが十年余にわたる攻防戦を展開し、ついに貞和3年(1347)某月落城した” とありますので、顕家様の死後、10年位は南朝方にいたと思われます。
義理堅いぞ!広橋経泰!

そして、割と一緒に行動している感のある相馬胤平との関係も気になりますね。
「霊山町史」に“相馬胤平軍忠状”が載っていまして(活字に起こしたものですが)、内容は

相馬胤平が建武3年12月以降の軍忠を申告し、大将である広橋経泰が証判を与えたもの

だそうです。
結局、広橋経泰と相馬胤平は、上司と部下のような関係なのでしょうが、一緒に戦うことが多ければ、個人的な付き合いなんかもあったかも・・・(笑)
相馬胤平は、顕家様の死の10年後の貞和4年(1348)には、北朝側として戦っているらしいのです。
いつの時点で相馬胤平が北朝側に転じたかは分かりませんが、もし、広橋経泰がずっと南朝側のついていたとすれば、2人が袂を分かったときに、ドラマが盛り上がったかも〜?と妄想を膨らますのも “いと、をかし” (笑)

資料:「鎌倉・室町人名事典」(新人物往来社)、「北畠氏の研究」(大西源一)、
    「南北朝編年史」(吉川弘文館)
、「霊山町史」(昭和54年)

人物事典TOPへ

2008.5.27