後村上天皇 ごむらかみてんのう <嘉暦三〜応安元=正平23年>(1328〜1368)

第97代天皇。在位:暦応2=延元四〜応安元=正平23年(1339〜1368)
後醍醐天皇の第八皇子。母は右中将阿野公廉の女、新待賢門院廉子。初名:憲良、のち義良と改めた。
鎌倉幕府滅亡後の正慶二=元弘三年(1333)10月、東北鎮護のため陸奥守北畠顕家とともに陸奥国に下向。翌建武元年4と、延元2年8月に、足利尊氏追討のため西上。建武元年(1338)5月、親王宣下を受ける。
暦応2=延元4年(1339)、後醍醐天皇の皇太子となる。同年8月15日受禅。以後、在位三十年に及ぶ。
天皇は京都の奪還と天下統一を目ざしたが、次第に足利軍の圧迫が強くなり、賀名生(あのう)に遷幸を余儀なくされた。ところが、観応2=正平6年(1351)、足利氏の内訌により尊氏・義詮が南朝に降伏を申し入れ、天皇は八幡山まで進み北朝の光厳上皇の以下を迎えとった。しかし入京を目前にして事態が急変、京都を足利軍に奪回され、再び賀名生に遷幸した。その後、河内金剛寺・摂津住吉と行宮を移し、応安元=正平23年(1368)3月11日、住吉で崩ず。41歳。墓所は大阪府歓心寺内の檜尾陵(ひのおのみささぎ)


奥州軍とともに、7歳と11歳のの時に行われた長征に参加したり(戦闘に加わったわけではないでしょうが)とか、生涯、北朝と政権闘争(権力争いではなく、実際に戦が行われた)を行ったことから、武闘派のイメージを持つ方も多いかもしれません。
しかし、顕家様が亡くなられた後のことについて、管理人はほとんど調べていないので、当時、11歳の義良親王、後の後村上天皇は、管理人の中では“子供”のイメージが強いです。
それも “我慢強い子”
享年が41歳ですので、いつまでも “子供” ではないんですけど・・・(^^ゞ

義良親王はたった6歳(数え年なので、現代の数え方だと5歳ですよね)で、奥州に下向して東北統治を行いました。
実際に奥州統治を進めるのは、後見人の北畠親房、顕家親子ですので、義良親王自身が政(まつりごと)を行うわけではないです。
しかし、6歳の幼児が、母親や慣れ親しんだ人達と別れ、住み慣れた土地を離れるのは、相当辛いかったであろうことは容易に想像できます。
また、今のように飛行機だ、新幹線だなどと便利な乗り物があるわけではない時代ですので、船であろうが、輿に乗せられていようが、何日もかけての移動は、体力的にも辛いものであったでしょうし・・・

その上、2度も足利尊氏討伐のための長征。
輿に揺られて、しゃなり、しゃなりってな移動ではないですよ!!奥州から京都まで(1000kmぐらい?)を大爆走!!しかも途中で戦もしながら!!
それは、それは辛いものだったと思います。
記憶違いでしたら申し訳ありませんが、阿部野神社に「花の小道」とか「詩歌の道」とかの名前がついていたかと思うのですが、紫陽花などの花で作られた生垣に、義良親王と北畠親房が詠んだ歌が、ところどころ立て札としておいてあって、その中に

「(2度目の・・・だったと思います。記憶違いだったらすみません)長征の時の箱根越えが非常に辛かった」

という内容のものがあったんですね。

これを見た時には、「内乱の時代に生まれていなければ、親王の身分で、しかも子供がこんな辛い目に遭うことは無かったはず・・・」とかわいそうに思いました。
(まあ、後醍醐天皇の皇子は、父親に振り回されて皆さん大変な思いをされているのですが・・・)

それに義良親王は、暦応元=延元3年(1338年)9月に結城宗広や北畠親房らと伊勢大湊から船路で奥州・常陸・遠江各地に向かったところ、遠州灘付近で台風に遭い、各地に漂流。
義良親王は尾張に、結城宗広は伊勢吹上浦に戻され、北畠親房だけが目的地の常陸に漂着・・・と大変なことになってしまいましたし。

そんなこんなで、管理人の中で義良親王は、“我慢強い子” なんです。

資料:「鎌倉・室町人物事典」(新人物往来社)、「戦乱 南北朝」(学研)

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2007.12.20