後村上天皇 ごむらかみてんのう <嘉暦三〜応安元=正平23年>(1328〜1368) | |
第97代天皇。在位:暦応2=延元四〜応安元=正平23年(1339〜1368) |
奥州軍とともに、7歳と11歳のの時に行われた長征に参加したり(戦闘に加わったわけではないでしょうが)とか、生涯、北朝と政権闘争(権力争いではなく、実際に戦が行われた)を行ったことから、武闘派のイメージを持つ方も多いかもしれません。
しかし、顕家様が亡くなられた後のことについて、管理人はほとんど調べていないので、当時、11歳の義良親王、後の後村上天皇は、管理人の中では“子供”のイメージが強いです。
それも “我慢強い子”
享年が41歳ですので、いつまでも “子供” ではないんですけど・・・(^^ゞ
義良親王はたった6歳(数え年なので、現代の数え方だと5歳ですよね)で、奥州に下向して東北統治を行いました。
実際に奥州統治を進めるのは、後見人の北畠親房、顕家親子ですので、義良親王自身が政(まつりごと)を行うわけではないです。
しかし、6歳の幼児が、母親や慣れ親しんだ人達と別れ、住み慣れた土地を離れるのは、相当辛いかったであろうことは容易に想像できます。
また、今のように飛行機だ、新幹線だなどと便利な乗り物があるわけではない時代ですので、船であろうが、輿に乗せられていようが、何日もかけての移動は、体力的にも辛いものであったでしょうし・・・
その上、2度も足利尊氏討伐のための長征。
輿に揺られて、しゃなり、しゃなりってな移動ではないですよ!!奥州から京都まで(1000kmぐらい?)を大爆走!!しかも途中で戦もしながら!!
それは、それは辛いものだったと思います。
記憶違いでしたら申し訳ありませんが、阿部野神社に「花の小道」とか「詩歌の道」とかの名前がついていたかと思うのですが、紫陽花などの花で作られた生垣に、義良親王と北畠親房が詠んだ歌が、ところどころ立て札としておいてあって、その中に
「(2度目の・・・だったと思います。記憶違いだったらすみません)長征の時の箱根越えが非常に辛かった」
という内容のものがあったんですね。
これを見た時には、「内乱の時代に生まれていなければ、親王の身分で、しかも子供がこんな辛い目に遭うことは無かったはず・・・」とかわいそうに思いました。
(まあ、後醍醐天皇の皇子は、父親に振り回されて皆さん大変な思いをされているのですが・・・)
それに義良親王は、暦応元=延元3年(1338年)9月に結城宗広や北畠親房らと伊勢大湊から船路で奥州・常陸・遠江各地に向かったところ、遠州灘付近で台風に遭い、各地に漂流。
義良親王は尾張に、結城宗広は伊勢吹上浦に戻され、北畠親房だけが目的地の常陸に漂着・・・と大変なことになってしまいましたし。
そんなこんなで、管理人の中で義良親王は、“我慢強い子” なんです。
資料:「鎌倉・室町人物事典」(新人物往来社)、「戦乱 南北朝」(学研)
2007.12.20