つらつらとネットショップを見ていたら、『南北朝 武将列伝(南朝編)』(戎光祥出版)を見つけて、早速、購入いたしました!(令和3年4月)
真っ先に春日顕国を読んで、「顕家様と同年代と思っていた春日顕国が、顕家様の父親と同年代と書かれていて絶望した!」ということはブログに書きましたが、次に顕家様の項を読んでさらにガックリ_| ̄|○
期待したような内容じゃな〜い!!
で、悲しいので今まで読んだ書籍で、顕家様の遺書ともいうべき上奏文が、どのように評価(解釈というか、感想とも言えるかも)されているかをまとめてみました。
顕家様ファンの管理人が持っている書籍なので、顕家様に好意的なものに偏りまくっていますが・・・(^^ゞ
まあ、それで自分の気持ちの落ち込みを回復させるのが、目的なのですが・・・(笑)
書籍名 | 評価、解釈など | 著者(発行年) |
北畠顕家−奥州を席巻した南朝の貴族将軍− | この堂々たる政治論は、いかにも鋭く時弊を摘発し、その改革を忌憚なく進言している。句々は肺肝よりほとばしり出たもので、烈々たる忠誠の至情を披瀝し一片の私心もなく、顕家の人格を髣髴させるものがある。 | 大島延次郎 戎光祥出版 (昭和42年(1967)8月に発行した物を平成26年(2014)6月に再刊) |
北畠氏の研究 | 実に言々悲愴剴切を極めたるもので、これがわづか廿一歳の青年の頭から出たものとは、到底思はれぬ位である。 | 大西源一 北畠顕能公六百年祭奉賛会 (昭和57年(1982)8月) |
戦乱 南北朝 | 顕家自身南朝の腑甲斐無さ、現実を知らぬ虚栄ばかりの人々に強う憤りを覚えていたのだ。これは若さと正義感ゆえに噴出した、顕家最期の忠誠心だったのである。 | 学研(平成元年(1989)1月) 顕家様の項の担当は増田美貴 |
花将軍 北畠顕家 | いうまでもなく建武の新政による天皇の御代の「太平」を痛切に祈願しつつ、朝廷の綱紀粛正、地方の振興、人倫、国家政道のありようを、独特の政治的信念をもって心情を吐露しているのである。 | 横山高治 新風書房 平成元年(1989)10月 |
図説 太平記の時代 | この意見書には、奥州将軍府の経営に苦慮した顕家の体験がにじみ出ている。奥羽の地で聞いた、兵火と租税に苦しむ民衆の怨嗟に満ちた声を天皇に伝えようとしたのである。 | 佐藤和彦 編 河出書房新社 (平成2年(1990)12月) |
南北朝史100話 | 諫奏文の最後で「もし改められなければ、陛下のもとを去って、山林に隠棲する」と激しく言っているが、これまで後醍醐に忠勤しようとすればするほど、後醍醐の政治理念と現実との差異に苦悩を深めたことであろう。 | 小川信 監修 立風書房 (平成3年(1991)10月) 顕家様の項の担当は中野達平 |
太平記の群像 | 私心を排して切々と訴える顕家の言葉は、それが戦死の七日前にしたためられたと思うと哀調を帯びてくる。 | 森茂暁 角川選書 (平成3(1991)年10月) |
南北朝の動乱 | 後醍醐天皇の失政を気迫に満ちて批判したものであり、彼が奥羽の地において苦闘した体験から発せられた血を吐く奏状であった。 | 伊藤喜良 集英社 (平成4年(1992)1月) |
伊勢北畠一族 | まさしく「政を為すの道、治を致すの要」を説いたものであった。「陛下、諫めに従はざれば泰平を期する」ことはできないと、鋭く、臆することなく、率直に建武政権の治政の欠陥を指摘した死を賭した諫言の書であった。 | 加地宏江 新人物往来社 (平成6年(1994)6月) |
北畠親房 | その文面からにじみ出る、顕家の高邁な識見に接する時、誰もがその早すぎた死を悼まずにいられまい。 | 岡野友彦 ミネルヴァ書房 (平成21年(2009)10月) |
南北朝武将列伝 南朝編 | 彼が真剣に後醍醐天皇のためを思って苦言と呈したのは紛れもない事実であるが、それと建武政権の実際の評価は別問題で、区別して考えるべきである。 | 亀田俊和、生駒孝臣 編 戎光祥出版 (令和3年(2021)3月) 顕家様の担当は亀田俊和 |