顕家様の上奏文
〜“草案?それとも正式文書?”の答え・・かも〜


“顕家様の妻の歌”の項を書いている時(令和元年12月)に“北畠顕家”で検索してみると、なんとWikipediaに顕家様の上奏文が独立した項目として挙がっているではありませんか!
そして、それを読んでみると、醍醐寺にある顕家様の上奏文の発見時のことが書いてあるではないですか!!


「うぉ〜!!これは、原文を読まなければなりません!!」


ということで、顕家様の上奏文が発見された経緯が書かれている 『虚心文集 第二』(黒板勝美 吉川弘文館 1939年=昭和14年)を検索したところ、“顕家様の妻の歌”で参考にさせていただいた、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができました( ^ー゜)b
顕家様の上奏文については、607ページからですね。
その中で、顕家様の上奏文を発見した時の記述は、
(『虚心文集』は昭和14年のものなので、旧字体のためパソコンで表記できない漢字があるので、そこは現代のものに変えています。)


“私が最初是を發見した時、私は忘れもしない、先づ一番に延元三年五月十五日云云とある最後の一枚が反故の中から出て來た。それを見ると権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍源顕家と名前がある。”

と、書かれているのです。
は? “反故の中?” 反故って、ゴミってことよね?顕家様の遺言とも言えるような文書がゴミ扱いだったのですか!?(怒)

念のため、反故の意味を確認しようと辞書やネットで調べてみると、

反故
(ほご=ほぐ)
@書画などを書いて不要になったもの。ほご紙。
A一度使った紙を裏返してもう一度使用すること。
それから派生して、書き損じた紙のこと自体を「反故」と呼ぶ。

現代でもプリンターで印刷した用紙を、捨てずに裏紙として利用したりするので、そんなイメージなんでしょうかね。片面しか使っていない紙は、不要になっても裏を使うために捨てずに取っておく、ということでしょうか。
ということで、顕家様の上奏文が書かれた紙は“不要の紙”扱いで、“裏紙用”として何百年も保管されていたのですね・・・(ToT)

“延元三年五月十五日と云ふ日が顕家の戦死直前一週間であるので、一層熱心に捜して見た所が、漸くここに五枚だけ纏って來た。しかし初めの部分がどうしても見つからなくて、今日に及んでゐるのですが、文意によると、まづ一枚だけが不足かと思はれる。”

おお〜!顕家様の上奏文が発見されるシーンが、目に浮かぶようです!
そして、 『伊勢 北畠一族』(加地宏江)に“巻首を欠いている”とか、『北畠氏の研究』(大西源一)に“初めの方は少し闕けて居る”と書かれている根拠は、この、“文意によると、まず一枚だけが不足かと思われる”から来ているのでしょうね。