顕家様の上奏文
〜“草案?それとも正式文書?”の答え・・かも〜


“尤も後醍醐天皇にさしあげた原本では無論ない。また書風で察すると当時の古寫でなくて少し時代の後れたもので、或は應永の初ごろのものではないかと考へられるのです。”

おお、ここにはっきりと「後醍醐天皇にさしあげた原本ではない」と書かれている!
そして、書風から応永(1394〜1428年)の初め頃ってことまで推測できるんですね。
すごいです!!

現存する醍醐寺の上奏文が、顕家様が生きた時代よりずっと後のものであるなら、当然、顕家様自身が書いた原本ではないですね。
ということは、管理人が「そのL 草案?それとも正式文書?」で疑問に思っていたことの一つ、「醍醐寺にある上奏文は後醍醐天皇に宛てた文書そのものなのか?」という疑問については、「そのものではなく、写しである」ということになります。

そしてそのL 草案?それとも正式文書?」に書いたもう一つの疑問、現存する上奏文が草案かどうかについてですが、何をもって、“草案”と考えられているのかは、『虚心文集 第二』からは分かりませんでした。

黒板先生は、

@ 顕家が戦死の直前に、顕家の父 親房の弟で、醍醐寺の金剛王院の僧侶だった實助(実助)を訪ねて行って上奏文の原案を示した
A 後に實助(実助)が大和に行って、親房からその写しを見せてもらって、これを書き写した

と、2つの推測をされています。
この“實助を訪ねて行って上奏文の原案を示したか”との推測から、“草案”と考えられているのでしょうか?
それとも、別の資料に(黒板先生以外の専門家を含む)“草案”と考えられる説が、あるのでしょうか?
うーん、分からん!

ということで、そのL 草案?それとも正式文書?」で疑問に思っていた2点については、以下のようにまとめたいと思います。

醍醐寺にある上奏文は、後醍醐天皇にあてた原本ではない。
草案か否かについては、『虚心文集 第二』からは分からない。


次は、そのL 草案?それとも正式文書?」で触れましたが、『日本中世史を見直す』(平凡社)に書かれていた、“なぜ顕家の上奏文が醍醐寺文書の中に伝わっていたのか”について、黒板先生の推論を要約したいと思います。