顕家様が舞った陵王の荒序について、もっと詳しいことがわからないかとネットで検索していると、 “秘曲” という言葉が散見されます。
“秘曲” がどういう意味を持つのか分かりません(例えば、一子相伝のように、後継者一人にしか教えないほどのものなのか、柔道や空手の黒帯のような、ある一定の技能を身に付けたら教えられるものなのか)が、 とにかく、『舞御覧記』に “まことにたぐひなき秘曲とみえたり” と書かれているぐらいですから、めったに見る(聴く)ことのできない曲だったことには間違いないでしょう。


 今まで管理人は、顕家様が陵王の荒序を舞った後醍醐天皇の北山行幸は、単なる風雅な公家のお遊びとしか思っていませんでした。
 もし、政治的な意味があったとしても、せいぜい
 「鎌倉幕府討幕を企てた正中の変(元亨4年 1324)は失敗したけれども、これだけの催しを行うだけの精神的・経済的余裕はある」
 ということを誇示したかったということぐらいしかないと思っていたんですね。
 しかし、『春日神社の舞楽面』に、“この舞(=陵王)を作ったところ、世は平和で、国土は豊かになったと伝えられている。”とあることから、もし、陵王を舞うことに “天下泰平を祈願する” とか、 “戦勝祈願” のような願掛けや験担ぎのような意味があるのならば、後醍醐天皇の北山行幸は、「単なるお公家様のお遊びではなかったのではないか?」と思えてきました。出典はわからないのですが、ネットで陵王の舞を検索すると、願掛け的な意味で舞われるような記述を散見しますし。
 さらに言えば、「荒序」という“秘曲”を舞うことで、“祈願”よりももっと強い“念”、つまり “鎌倉幕府討幕”、北条氏というか将軍や執権という“幕府の権力者の調伏”という明確な意図を持って行われた可能性があるのでは?と思えてくるのです。
 何しろ、後醍醐天皇といえば、元徳元年(1329)12月中下旬頃のものといわれる金沢貞顕書状に “禁裏おんみずから護摩を御勤の由、承り候いおわんぬ” とあるように、自ら護摩を焚いて鎌倉幕府調伏の祈祷を行ったぐらいの方ですので、「陵王 荒序」に特別な力があると信じられていたとしたら、北山行幸自体にそういった意味があってもおかしくないですよね?

 時系列でみると、

元亨4年(1324) 正中の変
嘉暦元年(1326)春 中宮 禧子 安産祈願を名目に関東(鎌倉幕府)調伏の祈祷始まる(1329まで)
元弘元年(1331)3月 後醍醐天皇 西園寺公宗の北山第に行幸
顕家 「陵王」を舞う。
元弘元年(1331)5月 元弘の変


 上表のように、元亨4年(1324)に正中の変が起き、元弘元年(1331)に北山行幸、そして行幸の2か月後に元弘の変が起きています。
 もし、元弘元年(1331)3月に行われた北山第への行幸が、嘉暦元年(1326)〜元徳元年(1329)末まで行われた幕府調伏の祈祷の集大成というかクライマックスというか、これをもって呪術が完成するといったものだったとしたら・・・? そのメインイベントが「秘曲 陵王 荒序」だったとしたら・・・? そして、呪術が完成したから2か月後に元弘の変を起こしたとしたら・・・?
 なんだか、妄想が膨らみますね(笑)