

“顕家様は美少年!?”の項で参考にさせていただいた資料 『「増鏡」の音楽 ―王朝物語とのかかわりから「雲井を響かす音」という表現をめぐって―(猪瀬
千尋)』には、“荒序は地下楽家に相伝される三管と舞の秘曲であり”、“北山行幸においては本来、荒序を舞うべきであった狛季実は打楽器である一鼓の役に追いやられ”とあります。その上で、
“後醍醐天皇が他の天皇にも増して音楽を王権のシンボルとして位置づけていた企てが端的に示されている。”
“両統迭立の拮抗の中で、後醍醐にとって音楽が自らの正統を証すことに他ならなかったからであろう。”
“北山第行幸における後醍醐の笛演奏は、そのような彼の独自な王権を象徴する音楽であったのである。”
と、あることから、後醍醐天皇が顕家様に舞を舞わせ、自身が笛を奏したのは、自らの正統性を誇示したかったからとの解釈をされているようです。
しかし、妄想力旺盛な管理人といたしましては、
単なる中継ぎの天皇で終わりたくない後醍醐天皇は、両統迭立を強要する鎌倉幕府を倒すため、自分自身の意思で天皇の地位の進退や後継者を決めるために、何年もかけて幕府調伏の祈祷を続けながら、討幕のチャンスを伺っていた。そして、その集大成として、“秘曲 陵王 荒序”を、楽器の演奏も舞もすべて自分の廷臣に演じさせ、笛に関しては自ら奏した。そうすることで、幕府調伏の祈祷、いや、祈祷というよりも強い念、「呪い」を完成させようとしたのではないか?
このように思えるのです!
そう考えると、一見、雅な催し物が、全然別物に見えてきて、すごく興味深くないですか?
ああ、この妄想に、確固たる根拠が出てくると面白いのですが・・・(笑)
ちなみに、現代よりもずっと神仏や言霊など見えざる力が信じられていたと考えられるのは、顕家様の父である親房の行動からも伺えます。
元弘の変よりもずっと後、南北朝に分かれた後のことになりますが、親房が伊勢に下向して間もない延元元年(1336)12月に、光明寺の僧
恵観に「大勝金剛法」の修法を命じています。
“これは、単なる南朝方の戦勝祈願などといった生易しいものではなく、密教の力、いや霊地伊勢に坐すありとあらゆる神仏の霊力を動員して、北朝方に反撃を加えようとするものであったに違いない。”[『北畠親房』(岡野友彦)]
平成25(2013).11.7