顕家様は美少年!?」の項で “顕家様が14歳で陵王を舞った時、参議と言う重要な役職に就いていたので、既に元服していたはず” と書きましたが、「それなら、顕家様は何歳で元服したか?」を調べてみようと思い立ちました。
そして、結論から申しますと・・・・



分かりませんでした(泣)

(以下は、あくまで管理人の推測でしかありませんので、そのつもりでご覧下さい。)

私が持っている南北朝関連の本は、専門書ではなく一般的なものだから載っていないのかもしれませんが、とにかく現時点では分かりませんでした。
顕家の元服の年齢を書いたものがなければ、他の事から推測できないかと思い、顕家の父である親房の元服の年齢を調べてみました。
すると、親房でさえ元服の年齢がはっきりしてませんでした。

『北畠親房』(岡野友彦)の記述からですが、

久保田収は、『北畠准后伝』によって親房の元服の時期を正安2年(1300)、親房8歳の時としていて、
我妻健治は、久我家などで、その元服が11〜12歳とするものが多く見られるから、親房の元服もほぼ10歳頃と想像して大過なく、おそくとも11歳の頃からとしているそうです。
そして岡野氏は我妻説に賛同したいと書かれています。

このように、親房の元服は8歳説と10歳前後説があり、はっきりしてません。しかし、いずれにせよ8〜11歳の間と言えそうです。
それでは、顕家はどうだったのでしょう?

@『公卿補任』によると、久我家などでは11〜12歳とするものが多く見られる。

A親房の元服は8〜12歳の間、その時の官位は従四位上〜正四位下、
 兵部権大輔→左近衛権少将→右近衛権少将である。

親房と顕家の官位に関する年表は下表の通りです。
親房が8歳で従四位上、11歳で正四位下になっており、顕家は10歳で従四位上、11歳で正四位下です。

年(西暦) 年齢
(数え)
顕家様の官位 年(西暦) 年齢
(数え)
親房の官位
文保2年(1318) 1 北畠顕家誕生 永仁元年(1193) 1 北畠親房誕生
元応3年(1321) 4 顕家 従五位下 親房 従五位下
元亨2年(1322) 5 顕家 従五位上 永仁2年(1194) 2 親房 従五位上
元亨4年(1324) 7 顕家 正五位下 永仁5年(1197) 5 親房 正五位下
正中2年(1325) 8 顕家 侍従に 永仁6年(1198) 6 親房 従四位下
正中3年(1326) 9 顕家 従四位下 正安2年(1300) 8 親房 従四位上
顕家 右少将 親房 兵部権大輔←久保田説
嘉暦2年(1327) 10 顕家 武蔵野介 兼任。従四位上 嘉元元年(1303) 11 親房 左近衛権少将
嘉暦3年(1328) 11 顕家 正四位下 親房 正四位下
顕家 少納言 親房 右近衛権少将←遅くともこの時まで
               我妻、岡野説
顕家 左少将 嘉元3年(1305) 13 親房 権左少弁・伊予介
顕家 少納言を罷め、中宮権亮 徳治元年(1306) 14 親房 左少弁
元徳2年(1330) 13 顕家 権左中弁に補任 徳治2年(1307) 15 親房 弁官を辞し弾正大弼に任じられる。
顕家 左中弁に 延慶元年(1308) 16 親房 従三位・弾正大弼 公卿に列する。
元弘元年(1331) 14 顕家 正四位に叙せられる。 延慶3年(1310) 18 親房 参議
顕家 参議に任じられる。 以下、略
顕家 左中将を兼任
顕家 「陵王」を舞う。
顕家 参議左中将を辞し、従三位に叙せられる。
元弘2年(1332) 15 顕家 参議に還任。左中将に任じられる。
以下、略

@、Aの条件から、管理人は、「顕家様の元服は11歳ではないか?早くても10歳では?」と考えました。

顕家が侍従に任じられた8歳、右少将に任じられた9歳も可能性としてあると思いましたが、『北畠親房』(岡野友彦)の親房の元服について我妻説に賛同するという記述の中で “元服前であっても叙任されていた可能性が高い” とあり、そういう考え方があるなら、顕家についても、元服前に侍従や右少将に任じられていても不思議ではないと思いました。

ということで、顕家様の元服は10歳か11歳だと考えます。
そうすると、顕家様が陵王を舞ったのは14歳ですので、すでに大人ということで、面をつけて舞っていたでしょうね。


平成24(2012).1.28