管理人が、北畠顕家という人物に興味を持ったのは、“悲劇の天才美少年”という冠が付いていたことが、きっかけではあるのですが、“追っかけツアー”と称してゆかりの地を訪ね歩いたり、ホームページを立ち上げたりするほどのファンになったのは、やはり、「北畠顕家上奏文」とか「北畠顕家諫奏文」と呼ばれることの多い、「北畠顕家奏状」によるところが大きいです。

ところで管理人は、ずっと疑問に思っているのですが、現在、醍醐寺三宝院に保存されている「北畠顕家奏状」は、顕家様が後醍醐天皇に宛てた文書そのものなのでしょうか?

私が、顕家様を調べ始めた初期段階で、『伊勢 北畠一族』(加地宏江)を手に入れましたので、こちらに“草案の写し”と書かれていたため、醍醐寺にある文書は、「顕家様が後醍醐天皇に宛てた文書そのものではなく、草案の段階のもので、しかもそれの写しである。」と思っていました。
しかし、私が持っているそれ以外の本には、この文書が“草案の写し”とは書かれていないんですよね。

「北畠顕家奏状」の原文が全文記載されている『日本中世史を見直す』(平凡社)には、“なぜ顕家の上奏文が醍醐寺文書の中に伝わっていたのか”ということについて2つの可能性が挙げてあり、

@敗戦して戦死してしまうから持っていたのを奪われてしまって、勝利者、すなわち足利の方から伝わった
A顕家の手紙では全文が後醍醐天皇に対する痛烈な政策批判を展開していたので、醍醐寺の中で北朝側であった賢俊側にとって後醍醐天皇の批判として利用できるとして伝わった

と、書かれていて、この書き方だと醍醐寺にある文書が、後醍醐天皇に宛てた文書そのものということですよね。
ちなみに、現存している文書は、非常にペラペラした悪い紙で、書体はかなり古いと『日本中世史を見直す』には書かれています。


醍醐寺に現存している文書では、七ヶ条に渡って後醍醐天皇の政治の欠陥を批判し、顕家の政治思想に基いた改善策を述べていますが、第一条の途中からしか残っていないので、これが第一条かどうかも不明とされています。
現存しているものが、後醍醐天皇に宛てた文書そのものであれば、“欠けている前文に何が書かれていたか・・・”を想像するぐらいしかできないのですが、これが『伊勢 北畠一族』に書かれているように、草案の写しだとすれば、実際に後醍醐天皇に渡った文書は、現存している文書と内容が違う可能性があるわけで、想像ではなく妄想が広がるのですが・・・(笑)。
要旨は変わってないにしても、七ヶ条の順番が違うかもしれないし、言い回しが微妙に変えられているかもしれないです。
また、文書の最後の方では “不正を改めてもらえないなら、官を退いて山林に入り隠遁したいと思う”と、激しい言葉が書かれていますが、このあたりを削除している可能性だって無いとは言えません。


と、いうことで、醍醐寺文書が草案なのか、正式文書なのかが大変気になります!
どなたか、教えてください〜!!

平成21年(2009)8.20