T-CONに行って来ました

NHK子供番組の部屋「人形劇スペシャル」

 池田憲章さんは語る。

 いままで数々のTVアニメや、「ウルトラマン」「仮面ライダー」を始めとする特撮を取りあげて来た。そして、それらがより多くの人に知られ、評価されるものとなって一般化して来ている。
 だが、取り上げられそびれているものがあった。
 それは人形劇だ。
 日本におけるテレビ放送の初期を飾っていた「ひょっこりひょうたん島」を始めとする人形劇作品たち。
 それがNHKの子供番組であったこともポイントだ。
 全国放送であったために、自分らの世代は日本中でそれを視ることができた。
 僕は埼玉県所沢市だが、現在の東京とほとんど違わないような所沢ではなく当時は片田舎に近いようなところだったが、そういった地方在住の子供たちにまで非常に上質なドラマと音楽をこれらの人形劇は提供してくれた。


 それらに対する御恩返し的な感覚もあるのだろうか。「これらを埋もれさせてはならない」「これらをリスペクトするのは自分たちの世代にしかできない」といった使命感のようなものすら感じられた。
「…ようなもの」というのは単に曖昧表現というわけではなく、“このことに対する義務感”“数十年に渡るライター生活を経て残された課題”といった意味合いももちろんあるのだろうが、それ以上に池田さんが単に「子供の頃にみた人形劇について語りたい」「それについて調べたり、話すのが好き」というのが、ひしひしと伝わって来るからだ。

人に歴史あり…人形にも歴史あり。
その人形劇の歴史を検証する池田憲章!

↑こちらはケッダーマンこと伊藤秀明氏。手にするは「NHK連続人形劇のすべて」(アスキー/エンターブレイン刊。本体2800円)
「少年ドラマシリーズ」の本に続いて、NHK人形劇のムックも先日、上梓の運びにはなったものの、それは著者らの意図するものとは異なる路線のものだった。
一作について、じっくりと掘り下げて語りたかったものの企画が進行する中で結果的に人形劇を年度順に総括するものになってしまい、各作品を網羅する一方で、どの作品についても表面的なことをサラッと撫でるような体裁になってしまったことが心残りなのだそうだ(私のようなウス者にとっては、この内容でも充分に濃ゆいのですけど…(゚.゚))。

といわけで、みんなで買いましょう。この本が売れれば、池田さんのリベンジのチャンスも生まれるかしれません(いや、別にこのムックの情報量が表面的な既知のものばかりというわけじゃなくて、私なんかには初めて見るような図版がいっぱいなんですけど…生まれる前の放送作品とかあるしぃ〜)


おぉ! プルルくんだ!!
赤鬼ボンボだァ!

よーく考えよう〜図版は大事だよ〜

(確かに昔のアニメや特撮の本が出た時に、いままで見たことない設定資料の絵やスチル写真があるかないかは、買おうかどうか?というポイントですよね)
今回の池田さんのトークで非常に興味深かった余談がそのライター修行時代。竹内義和さんのアシスタントというか見習いのようなことを1970年代末の頃にされていたのだそうです。
そこで写真図版の整理をしていた際に、「ウルトラマン」等の貴重なスチル写真等が多々あり、それらが「7」とか「8」とかいった番号を振られてきちんと整理されていたとのこと。
その番号の意味がわからず、不思議に思った池田さんが竹内さんにたずねました。
「この番号はどういう意味なんですか?」
「あぁ、これは第7期特撮ブームになった時に出す本のための図版だ。そっちは第8期が来た時用」
なんと…!! これを作り手の出し惜しみなどと責めてはいけない。
ここで、竹内師匠は非常に重要なことを池田さんに伝授。
池田さんは、特撮やアニメ作品の面白さを人々に伝えるために文章修行の日々だったわけだが、
「いいかね! 池田くん。きみがいかに文章の達人となったところで、その評論や解説だけで作品について語りきることはできないんだよ。映像作品の素晴らしさを一般に伝えるためには先ず、その画像だ。素材としての図版がなければ、そのアピールは半減する」

そうか…そうだったのか。

アニメックの池田さんの特撮評のページレイアウトが誌面の半分くらいが画像転載だったがアニメックの創刊は……おぉ!時代が一致するぢゃないか!!

そして池田さんは「まんだらけ」等で貴重な昔の作品の資料を見かけたら「他人に買われる自分が買う」という、ハンターのような性分に染まって行かれようです。
岡本隆郎という青年がいました。1925年生まれということですから、大学入学の頃はまさに戦時下。旧帝大の工学部機械工学科とあっては、おそらく、周囲の大人たちから日本の興亡を担う人材として期待の視線を浴びてのことだったのでしょう。
ところが、その卒業を待たずして敗戦。
GHQ統治下にあって、国産の航空機開発そのものの未来が閉ざされている有様です。
大学を卒業しても、その学んだ知識や技術を活かせる場がありそうにないわけです。落胆したことでしょう。
そんな折り、結城孫太郎一座という人形劇の一座が東京での活動を開始していました。
東大校舎か彼の下宿か…まぁ、その近辺で一座が稽古をしていたのでしょうね…多分。
挫折にうちひしがれた青年がたまたま立ち寄り、そこに見学者として通っているうちに「あぁ、子供たちの笑顔のためにこんなに頑張ってる人もいるんじゃないか」という気力を感じたのか、1950年に東大を卒業すると、その一座に弟子入りします。
やがて戦後復興の日本が十数年にしてテレビ放送開始の時代を迎えた時、かつての東大生・岡本隆郎は、人形師・竹田喜之助となっていました。

1960年、星新一原案のSF人形劇「宇宙船シリカ」の人形操作と美術を竹田座は任されます。まだ、アポロが月面着陸する前ですから、宇宙冒険物などと言ったら荒唐無稽な活劇番組としての扱いだったのかしれません。

続いて「銀河少年隊」という手塚治虫原作の作品のテレビ化にあたって、虫プロのアニメパートと竹田座の人形劇パートの合作というコラボレートが試みられました。
デザインに忠実を心がけ、苦労して丸みを帯びたフォルムを立体化させたそのキャラクターの人形は「そっくりに作ってもらえた」と手塚治虫をも喜ばせたそうです。
この翌年に放送開始されたのが爆発的ヒットとなる「ひょっこりひょうたん島」でした。ひとみ座による5年間の好評放送も最終話を迎える時が来ます。
「ひょうたん島」の後を受けるSF人形劇の操演は再び竹田座に任されました。

今度はマンガ家・手塚治虫原作ではなく、作家・小松左京原作のため作中に登場する建物や乗物のデザインも造型担当である竹田さんが全て担当することになるでしょう。
それが「空中都市008」。
最高学府で本物の飛行機の設計図を描けるまでに学んだ航空学の知識、その後、二十数年に渡り身につけた造型技術……彼、竹田喜之助以上の適任者がいるものでしょうか? 否、いないッ!
この世に神がいるであれば、神というのはなんと気まぐれじみて人を導くのでしょうか。
そして、それはNHKでの放送であったがゆえの全国ネットのおかげで、1960年前後生まれのクリエーター(山賀博之、庵野秀明、島本和彦らの世代)が小学生として、時代の共通体験のようにこれをワクワクしながら見ることが出来たのでしょう(ノーベル賞受賞の田中耕一さんも「008が愛読書だった」ということです)。

さて、その竹田座がその後のどうなったかというと、まだこれからでありながら竹田喜之助は56歳にして不慮の事故でこの世を去ります。1979年秋…。
「スターウォーズ」の大ヒットの後、「スタートレック」や「インディ・ジョーンズ」が公開を控え、「宇宙戦艦ヤマト」の続編が製作され、テレビでは「機動戦士ガンダム」が放映され…という時代の担い手と作品群が登場した頃に、SFの神はその役割を為し遂げた魂を天に召したのでしょう……って、そんなバカな話があるわけないです!

もっともっと、色んな作品を喜之助さんは作りたかったに決まってます。

そして、現存する彼の遺作となった人形達は…表面加工の技術も完璧であったためか、いまだまるで新品のような美観を保っているのだそうです。

泣ける〜! 「知ってるつもりつもって」以上に泣けるッスよォ〜。
竹田喜之助さんの生涯!!


↑ こちらは邑久町立郷土資料館のパンフより。

いまや、全盛期の遺物になってしまった怪鳥な超音速旅客機コンコルドだが、1960年代は試験飛行を繰り返してようやく実用化にこぎつけた時代。だが、海外のそんな新鋭機も未来都市の乗物のモデルとして、しっかりと採り入れられていた(「NHK連続人形劇のすべて」〜37頁から)。
池田憲章さんは、別件の仕事で手塚作品の取材中に思いがけず「銀河少年隊」の資料に遭遇できたのだそうです。そう、時代が30年たとうが40年たとうがどこかに埋もれている当時の資料が、まだまだあるのかもしれません。
また、「宇宙船シリカ」「銀河少年隊」「空中都市008」の音楽は富田勲さん。
それに前後する「ひょっこりひょうたん島」「ネコジャラ市の11人」の音楽は宇野誠一郎さん…作品がヒットしたら、次も同じ人に作曲家に依頼してしまいそうですが、そこで「富田勲の音楽はSFのイメージにあっている。コミカルな歌は…」などとビジョンをもったテレビ局のプロデューサーの存在が感じられます。
アニメ・特撮の監督や脚本家はかなりクローズアップされていますが、テレビ放送の初期の局プロデューサーの果たした役割やアイディアについては、御当人たちが表に出たがらないせいか、知られざるエピソード等がありそう…とのこと。
池田さんの取材と研究はまだまだ続きそうです