半狂乱のお祭り騒ぎ

 神は時として、最初に結果を用意していながらも、あえて挑戦者の営みを試してみるという老獪な性がある。

しかし神と言えど、上手の手から水が漏れる事も有るわけで、その時は悔しがりつつも褒美をやるハメになる。

下界に住む俗人にとっては、これをもって成功と言うそうだ。博打の面白さとは、つまり神様が何時しくじるか

の予想だろう。

 技術の進歩には二つあって、一つは、壊れる事なく確かに作動する約束を得る、信頼性の向上である。

自動車にとって信頼性向上は、走るか壊れるかという議論を、どのクルマが速いかという議論に発展させた。

しかし突き詰めた結果、番狂わせの要素も激減し、ゲームから賭博性を消し去った

 他方、幾らかの危険は覚悟の上で邁進する、更なる可能性の追求も技術の進歩だろう。こちらには射幸心

煽り、ロマン溢れる海が有る。

 

 自然吸気エンジンは理論的に完成されて成熟しているがために、高い信頼性と引き換えに、飛躍的な性能向上

も期待しかねる頭打ち状態だが、ターボには技術的に未開拓の領域が有り、過給圧や吸入する空気の温度などが

出力特性に影響し、その意味では性能を左右する可変因子が多かった。窮余の一策が思いがけない出力向上

を促したかと思えば、馬力を欲張りすぎて燃料不足のためラスト2周でガス欠リタイヤなど、レース終了まで

結果が予測できない面白さがあり、この時期のターボF1は、偶々その日だけ冷やかしで覗いたビギナーに

始まり、フリークと呼ばれる常連に至るまで観客を逃す事がなかった。

 

 1978 〜 1985年にかけてのルノーF1の成績は半数以上のレースでリタイヤだが、ウィング・カー時代

完走すれば、ほぼすべて入賞している。これだけを見ても、ターボを放っておく手はない。

 一つの疑問は解決された。F1はターボでなければダメなのだ

(Fulcrum 著)