ロバをダビーに出走させた農夫
アメリカは、本質的な意味では2001年を迎えて、建国以来初めて本土を犯された。しかし、先の二つの
世界大戦の内、何れも本土戦に遭遇しなかった。英国の場合は、発展の前に復興が必要だったが、アメリカ
には発展のみが続き、大恐慌の折にもニューディール政策によって内需を拡大した。大戦中に空襲がなかった
お陰で、劇場のライン・ダンスもカー・レースも途絶える事がなかった。
ヘンリー・フォードのT型は、単品種の量産により価格を破壊し、爆発的な普及をもたらしたが、逆に
一品物の宝石を作るセンスは完全に忘却してしまった。1960年代と言えば、ありとあらゆる米国製の乗用車が
フォードのV8エンジンを使いまわしている始末で、レース用のクルマも量産型のV8エンジンを改造して
間に合わせる文化であった。ディトナやCan-Amのシリーズ戦でターボが使われだした。例のGM製のあれで
ある。駄馬も鞭をくれれば走るに決まっている、なんてところは、如何にも大味なアメリカならではの発想
ではないか。
それを眺めて、ハハーンと合点がいったのはポルシェである。1974年、ポルシェはカレラRSRでル・マン初
のターボ付きエンジンを出走させた。ポルシェはこの時点で、Can-Amシリーズ参加によるノウハウの蓄積が
ある。紆余曲折はあったものの、結果的にはポルシェのカレラRSRは2位に入った。
続く1975年にはオイル・ショックの影響で、メーカー系のチームの参加が少なかったが、1976年になると
ポルシェに対抗すべく、ルノー・スポールが、ターボ車を投入しル・マンは、ポルシェ vs ルノーによる
ターボ戦争に縺れ込んだ。1976〜1977年は、なんとかポルシェが一日の長の面目を保ったが、1978年に
ルノーが終にポルシェを降した。この間に両者が引きずり上げたパフォーマンスには目を見張るものがあり
1978年の優勝車による平均速度は 210.188 [km/h] をマークした。
しかし、翌年にルノーがル・マンから撤退すると、優勝車による平均速度は1953年のレベルに後退し、
俳優のP.ニューマンでも2位に入るようになってしまった。
実は、まだ他にも有った。新しい物好きでありながら気が短くて、すぐに投げ出すの性分の日本人は、
1969年に日本グランプリを見込んでトヨタ7にギャレットのターボを二つ取り付ける計画を立てて試作した。
これにはインター・クーラーが付いてないが、トヨタの記録によると5リッターで886馬力を出したそうだ。
しかし、この年から日産が不出場を決め込んだために、日本グランプリは開催されなくなってしまった。
トヨタはそれでも開発とテストを繰り返したが、鈴鹿サーキットのデクナーとへアピンの間の100Rで死亡事故
を起こしたため、計画がすべて止まったらしい。
(Fulcrum 著)